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#01 ポニー・スタッフサービス
ニューヨークのイースト川を挟み、マンハッタンの輝かしい超高層ビル群を対岸に望む街、クイーンズ。世界中からの移民がひしめき合い、古びた赤レンガのアパートや無機質な倉庫街が雑多に広がるこの下町は、きらびやかな中心街の影に隠れた、泥臭い生活の匂いが漂う場所だった。
その一角にある薄暗い雑居ビルで、今日も寿命の近い蛍光灯がジリジリと頼りない音を立てている。零細人材派遣会社——“株式会社ポニー・スタッフサービス”。
「はい、人材派遣のポニーでございます」
ジェルーシャは、感情を完全に消した声で受話器を取った。まだ次の派遣先が決まっていない彼は、こうして電話番の雑用をさせられている。ただ生きていくために、この大都会の底辺にしがみつくしかないのが、ジェルーシャの現実だった。
「ったく、学歴も特別なスキルもない『Sub』なんて、どこも雇っちゃくれないよな」
「本当ですよ、社長。行き場のない薄汚いSubを、ウチでこうして置いてやってるんですから。ジェルーシャ、少しは感謝しなさいよ」
背後から突き刺さるリペット社長と直属のレイン課長からの、ネチネチとした嫌味。二人は、社会的地位こそ低いものの、まぎれもない『Dom』だった。彼らが発する微弱でねっとりとした威圧感 に、Subであるジェルーシャの身体は本能的にすくみ上がり、反抗する意志を根こそぎ奪われてしまう。
「……はい、申し訳ありません」
小さく頭を下げるしかないジェルーシャ。Domからの正当な保護もアフターケアも与えられず、ただ服従だけを強いられる日々。心身の限界(Subドロップ)が近いことを自覚しながらも、彼は健気に耐え忍んでいた。
◇
一方、誰もが知る世界の中心地、マンハッタン。洗練されたガラス張りの超高層ビルがそびえ立つ、超名門「メイフィールド財閥」の応接室には、静かな重圧が満ちていた。
「アニー君、一次面接通過おめでとう。今日は二次面接ということで来てもらったんだけどね」
上質なスーツに身を包んだ面接官が、書類に目を落としながら和やかに微笑みかける。アニーは膝の上で拳を固く握りしめ、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。死ぬ気で努力し、ようやく掴みかけたエリートへの未来が、すぐそこにある。
「君の経歴は高く評価している。ただ、うちで正社員として採用するにあたって、最初の1年は会社の独身寮で暮らしてもらうことになるが……それは構わないかな?」
「はい。私は独身ですので、まったく問題ありません」
アニーが即答すると、面接官は「そうか、そうか」と満足げに頷いた。しかし、そこで面接官はふと手元のペンを置き、椅子の背にもたれかかって、声を一段と低くした。
「ところでアニー君。これから話すことはね、あくまで君と僕との個人的な雑談、ということで頼むよ。もちろん、無理に答えなくてもいい性質のものだ」
わざわざそこまで前置きをする異様な空気に、アニーの背中に冷たい汗が伝う。
「君は、いわゆる『Sub』ではないよね? というのはね、最近うちの寮で、身分を偽って入り込んだ『Sub』の社員が絡む揉め事があってね。狭い独身寮の中で、そのSubを巡って複数のDomたちが独占欲から激しいいざこざを起こしてね。だから、大変心苦しいのだけれど……今はそういった第2の性を持つ者は遠慮してもらっているんだ。君は、大丈夫だよね?」
真っ直ぐに射抜くような面接官の視線。密室で踏み絵を迫ってくるその狡猾さこそが、アニーにとって逃げ場のない罠だった。 自分が、彼らの最も忌み嫌う『Sub』であると知られれば、この切符は一瞬で紙くずになる。アニーは一瞬だけ息を呑み、そして、迷いなく真っ直ぐに面接官の目を見つめ返した。
「——はい。正直に申し上げますと、首輪をつけられなければ何もできないような、発情した犬のような連中には、激しい嫌悪感を抱いております」
自身のアイデンティティとを否定する冷酷な嘘。それを聞いた面接官は、破顔して深く息を吐き出した。
「素晴らしい。本当に良かった! 実は我がメイフィールド財閥のトップである会長は、非常に厳格なDom至上主義者でね。君のような、しっかりとした倫理観を持ったまともな若者が来てくれて、本当に安心した」
面接官はホッとしたように何度も頷いた。アニーの心の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
◇
夕方。ポニー・スタッフサービスが借り上げている、アストリアの古びた独身寮の一室。
ジェルーシャが二段ベッドの下段でスマホをいじっていると、ドアが開いてアニーが帰ってきた。
「アニー、おかえり! 面接、どうだった?」
ジェルーシャが明るく声をかけると、アニーは無理に作ったような笑顔を浮かべた。
「……うん。受かったよ。二次面接も無事に通過したんだ」
「本当!? すごいよアニー、おめでとう! ……で、なんて会社なの?」
「……実は、メイフィールドなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ジェルーシャは目を見開いた。
「えっ……メイフィールドって……? だめだよ、アニーだってSubなのに、あんなDom至上主義の会社でやっていけるわけがないよ!」
ジェルーシャが顔を青ざめさせて詰め寄ると、アニーは唇を強く噛み締め、忌々しげに吐き捨てた。
「……そうさ。だから、僕はもう捨てるんだよ。こんな惨めな『Sub』という性別なんて」
「アニー……」
「もううんざりなんだ。Domの顔色を窺って、一生底辺を這いつくばるだけの人生なんて。僕はSubなんてもう嫌なんだ!」
自ら身を切るようなその言葉に、ジェルーシャは痛ましげに顔を歪め、ただ沈黙するしかなかった。
◇
夜の帳がすっかり降りる頃。窓枠の形に切り取られた月明かりが、静かに床へ吸い込まれていく。
アニーが息を潜めて、ジェルーシャの寝る二段ベッドの下段へと潜り込んできた。
「……アニー? どうしたの」
「……ジェルーシャ。僕の言うことを聞け」
低く、威圧するような声。アニーの指が、乱暴にジェルーシャの腰に回る。
「だめだよ……上にトムがいるから」
「『黙って受け入れろ』……! いいか、僕はもうSubじゃない……。誰にも支配されないんだ……っ!」
アニーは無理やりDomのような低い声を作り、ジェルーシャにコマンド(命令)を下そうとしている。しかし、同じSubであるアニーの声には、本能を屈服させるほどの支配力などない。虚勢を張る彼の体は、不安と恐怖で小刻みに震えていた。
そんなアニーの姿が、ジェルーシャにはひどく不憫で、痛々しく映った。
(……可哀想なアニー。僕が、君を『Dom』にしてあげるよ)
ジェルーシャは悲しみを押し殺し、抵抗するのをやめた。自ら進んで首筋を差し出し、まるで本物のDomにひれ伏すように、甘い声で彼を受け入れる。
「……はい、アニー……あなたの言う通りにするよ……っ」
その言葉に安堵したのか、アニーの震える唇がジェルーシャの首筋に落ちる。熱く、湿った吐息が肌を這い、耳の後ろを執拗に舐め回す。 偽りの支配欲を満たそうとする強引な愛撫。ジェルーシャは愛する彼を慰めるためだけに、声を殺して従属の快感を演じ続けた。シーツの下で絡まる脚、抑えきれない吐息、肌と肌が擦れ合う湿った音——すべてが、狭い二段ベッドの闇に溶けていく。
しかし——。
二段ベッドの上段では、同室のトムが暗闇の中で目をギラつかせていた。
(ちっ……また始まった。こんな狭い部屋で、本当に迷惑な奴らだ……。底辺のSub同士で発情しやがって)
トムは不快感に舌打ちをしたが、下から響くシーツの擦れる音や、二人の密やかな喘ぎ声に、身勝手な二人への怒りと、歪んだ悪意を刺激された。
トムは音を立てないようにゆっくりとスマホを取り出した。薄いカーテンの隙間から差し込むかすかな街灯の光を頼りに、端末を最新のナイトビジョンモードに切り替える。肉眼では判別し難い暗闇のなか、高性能センサーとAIが被写体の輪郭を容赦なく補正していく。
トムはレンズを下へ向け、二段ベッドの隙間からそっと差し込んだ。スマートフォンの画面には、互いの本能の渇きを埋められぬまま体を貪り合う二人の哀れで生々しい姿が、バッチリと緑がかった鮮明な映像で録画されていた。
つづく
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