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#02 偽りのコマンド
——株式会社ポニー・スタッフサービス。会社のプロフィールによれば社員数は百人そこそこの零細企業だが、エレベーターすらない古びた雑居ビルの4階に構えたオフィスは、せいぜい詰め込んでも30人ほど——ちょうどハイスクールの教室程度の広さしかない。そこでは社長のリペットとレイン課長、そして二人の年配の女性事務員だけが、淡々と事務作業をこなしていた。
気の利いたコーヒーメーカーなどあるはずもないこのオフィスで、ジェルーシャはまだ寝ぼけた冴えない頭のまま、いつものようにプリンターへ用紙を補充し、シュレッダーから溢れ出た大量の紙くずをゴミ袋へと詰めていた。
——ブーブーッ。
手元のスマートフォンが短く震えた。
(トムから?)
それは同室のトムからのメールだった。彼から連絡が来るなど珍しい。ジェルーシャは不審に思い、仕事の手を止めて添付の動画ファイルを開いてしまった。 画面が再生された瞬間、ジェルーシャは血の気が引くのを感じた。昨晩のアニーとの秘め事が、信じられないほど鮮明に映し出されている。
「な……っ!?」
驚愕し、慌てて画面をタップして音量をミュートにする。しかし、時すでに遅かった。
「おい、ジェルーシャ!! 仕事中に何スマホで遊んでんだよ!!」
「まったく、こんな売れ残りのSubなんて登録型で契約しときゃよかったぜ」
背後からリペット社長とレイン課長の激しい怒声が飛んでくる。
二人のDomが発する微弱な威圧感に、ジェルーシャの背筋が反射的にすくみ上がった。膝が内側に寄り、喉が渇く。
「申し訳ありません!」と何度も頭を下げながら、ジェルーシャの心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。
昼休み。逃げるようにトイレの個室に駆け込んだジェルーシャは、便座に座り込み、震える指で隠れて動画を再生した。あまりの恐怖と絶望に、ジェルーシャは個室のなかで激しい眩暈 を覚えた。
◇
その日の夕方。
どん底の気分のまま、ジェルーシャは「ポニー・スタッフサービス」の独身寮へと帰宅した。狭い相部屋のドアを開けると、案の定、トムがニヤニヤと待ち構えていた。
「遅かったじゃないか、ジェルーシャ。……で、メールは見たか? 動画、バッチリ映ってただろ。最新のナイトビジョンモードはすげえよな」
「……何が目的だ、お前!」
下卑た笑みを浮かべるトムに、ジェルーシャは声を荒らげた。
「さあな。そういえば、メイフィールドに決まったんだってな、アニー。あそこ、超保守的な会社だろ? ……あの会社に、Subがプロパーで採用なんてあり得るのかな?」
トムの言葉に、ジェルーシャは息を呑んだ。ここで激しく抵抗してトムがメイフィールド社にアニーの正体を告発したら、アニーの未来は完全に終わってしまう。トムはそれを完璧に理解した上で、卑劣な圧力をかけてきているのだ。
「お座り!!」
「えっ?」
トムは昨晩の二段ベッドの下段で繰り広げられた、ジェルーシャとアニーのSub同士の秘め事を見ていた。ジェルーシャが不憫なアニーを慰めるために、まるで本物のDomを受け入れるかのように素直に従っていた様子を——
「お座りだよ、ジェルーシャ。アニーのコマンドは聞けて、俺のコマンドは聞けないのか!」
——ベッドの上段の暗闇から盗み見し、スマホで撮影までしていた。だから自分も同じプレイを再現しようと企み、目の前のSubを屈服させてみたいという歪んだ欲求に駆られている。
「ほら、お座りだよ!」
ジェルーシャの唇がわずかに震え、また閉じる。トムにはSubを屈服させる「コマンド」の力などない。ただの『ノーマル』の男だ。だが、アニーの未来を人質に取られている以上、逆らうことなどできなかった。
ジェルーシャは屈辱に耐えながら、静かに床へ膝をついた。冷たい床に膝が沈む感触が、ひどく生々しい。首が自然と傾ぎそうになるのを、必死に抑える。
「……これで許してくれるの?」
見下ろす位置になったトムは、恍惚とした笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「へえ……なるほど。Domになると、こういう気分になれるのか。悪くないな」
トムは床に膝をつくジェルーシャを見下ろすと、従順に伏せるジェルーシャの頭元へゆっくりと手を伸ばした。
「いい子だ、ジェルーシャ」
トムはジェルーシャの頭を乱暴に撫で回しながら、「お前、アニーがいなくて寂しいんだろ?」と耳元で囁く。指が髪を掻き分け、耳の後ろを無造作に擦る。Domの手ではないのに、Subの身体は反射的に小さく震えた。
「じゃあ次は、俺に奉仕しろ」
あからさまな要求に、ジェルーシャは唇を強く噛み締め、すぐには動くことができないでいると、トムは露骨に脅しをかけてきた。
「なんだよ、嫌なのか? アニーのことはどうでもいいって?」
「……分かったよ」
ジェルーシャは感情を殺し、二段ベッドのパーティション・カーテンを静かに閉めた。
好きでもない男に身を委ね、ただ時間が過ぎるのをじっと耐える。
やがて満足したトムが脱力し、ベッドへ沈み込むと、乱れた衣服を整えながらベッドを抜け出した。
「……これで満足でしょ」
そう吐き捨てると、隣の列にある主を失ったアニーの二段ベッドへ移動し、荒々しくパーティション・カーテンを閉じた。
アニーの微かに漂う残り香のなかで、ジェルーシャはただじっと目を閉じ、猛烈な自己嫌悪に身を震わせた。
(トムはDomじゃない……。コマンドも使えない、ただの『ノーマル』の男だ……。なのに僕は……、言われるがままに跪き、理不尽な要求に従ってしまった……。僕は本能の奴隷どころか、それ以下だ)
暗闇のなか、ジェルーシャは激しい自己嫌悪に身を震わせながら、アニーの枕に深く顔をうずめた。
(僕は……なんて惨めで、汚らわしい存在なんだろう……)
自分の手がもたらす熱さに耐えかねるように腕で顔を覆い、ジェルーシャは静かに、狂おしいほどの涙を流し続けた。
◇
翌朝。
出社するなり、リペット社長とレイン課長がジェルーシャを手招きした。
「おい、ジェルーシャ! お前の新しい派遣先が決まったぞ。ペンドルトン・エージェンシーだ。業界最大手のな」
「え……ペンドルトンって、人材派遣の会社ですよね? そこに私が派遣されるって……それ、二重派遣ってことなんですかね?」
ジェルーシャが不安そうに尋ねると、社長たちは笑って首を振った。
「違う違う、そうじゃないよ。そこの本社で、直接スタッフとして働くんだよ。よかったじゃないか、二重派遣じゃなくて」
「本当ですか……!?」
「ああ。今日はもう上がっていいぞ。明日、朝一でレイン課長と一緒に向かうからな。準備しておけよ」
「はい! ありがとうございます!」
ポニーでの惨めな雑用や、トムのいるあの狭い部屋の息苦しさから、もしかしたら抜け出せるかもしれない。ジェルーシャは新しい仕事への期待に胸を膨らませオフィスを後にした。
——ジェルーシャが階段を駆け下りていく足音が、次第に遠ざかっていく。
「ひっひっひ、本当に間抜けなSubだ。大企業に行けると聞いて嬉しそうな顔をして出て行きやがった」
「それにしても、あの会社は相変わらずSubの消費が早いですね。ケアくらいしてやれば長持ちするのに」
「……まあ、壊してもらった方がウチとしては次々注文が入って儲かりますけどな」
何も知らないジェルーシャは、自分がこれから「ご褒美(ケア)のない地獄」へと売り飛ばされたとも知らず、明日の初出社に向けて、ただ希望に胸を膨らませていたのだった——。
つづく
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