15 / 15

#15 あしながおじさん

ニューヨークの冷たい夜風が、傷ついたジェルーシャの頬を叩く。 「サリーさん……さようなら」 歩道に立ち尽くしたまま、ジェルーシャは震える指先でサリーが設定した位置情報(GPS)トラッキングアプリ、さらに、ペンドルトン・エージェンシーのBYOD管理アプリをアンインストールした。 それはサリーとの決別、そしてもう二度とあの魔城へは戻らないという決意だった。 ジェルーシャは重い足取りで夕暮れの街をあてもなく彷徨い始めた。 ◇ どれほど歩いたのだろうか。ビル街を抜け、街灯の光もまばらな公園のベンチの前にたどり着いた時、ジェルーシャの膝が限界を迎えて折れた。崩れ落ちるようにベンチへ倒れ込み、肩を揺らして静かに涙を流す。心身ともに限界(Subドロップ)が近く、自我が溶けていくような感覚に苛まれていた。 「きみ。どうしたんだい?」 不意に、頭上から声が降ってきた。ハッとして顔を上げると、そこには怪しげな男が立っていた。夜だというのに深いサングラスをかけ、無精髭をたくわえ、背中には使い込まれた大きなバックパックを背負っていた。 「だ、誰ですか……?」 ジェルーシャは身をすくめ警戒する。 「怪しい者じゃないよ。ただの通りすがり。あんまり辛そうに泣いていたものだからね」 男は肩から大きなバックパックを下ろすと、柔らかく目を細めた。 「隣に座ってもいいかな?」 「え? は、はい」 吸い寄せられるように頷くと、男はジェルーシャの隣に腰を下ろした。 「僕はアルバート。見ての通りの旅行者、バックパッカーさ、君は?」 「ぼくはジェルーシャ。ジェルーシャ・アボット」 「そうかい、ジェルーシャ。これ食べるかい?」 アルバートはバックパックのサイドポケットから、免税店でよく見るゴールドの三角柱の箱を取り出した。 「あ……そのチョコレート。お土産でもらったことある!」 アルバートは三角の山を「パキッ」と心地よい音を立ててひとつ割り取ると、ジェルーシャの前へスッと差し出した。 「これ、好きかい?」 「はい……」 ジェルーシャが受け取って口に運ぶと、それまでのひどい泣き顔がふっと和らいだ。 「よかった。少しは落ち着いたかい? よかったら、涙の理由を聞かせてくれるかな?」 包み込むような声音と、甘いチョコレートの温もり。ジェルーシャは拒むことも断ることもできなかった。張り詰めていた心の堤防が決壊し、溢れ出る感情のままに全ての地獄を打ち明け始める。 零細人材派遣会社ポニー・スタッフサービスでの搾取。そして、ペンドルトン社での双子の悪魔——ジュリアンとジュリアによる理不尽な虐待と、コマンド増幅カラーによる服従……そこまで話した時だった。 「……許せないな」 地響きのような低い声が漏れた。 「え……?」 ふと見上げると、男の口元が固く引き結ばれ、サングラスの奥の瞳が一瞬だけ凄まじく険しく光っていた。その尋常ではない気迫に息をのむジェルーシャを見て、男は慌てるように表情を和らげ、片手を軽く振った。 「ああ、すまない、ごめんごめん。あまりに酷い話だったものだから、ついね……さあ、話を続けておくれ」 男の優しい促しに背中を押され、ジェルーシャはさらに言葉を重ねた。Subであることを隠して生きる元恋人・アニーを守るための苦心。そして、心の拠り所だったサリーのこと——。 「……それで、そのサリーさんに僕は酷いことを言ってしまって……」 「そうか……辛かったね」 「……だから、僕はもうどこにも行けないんです。自分のせいで、大切な人が傷つくのが一番怖いから……」 全てを吐き出し、膝に顔をうずめてしゃくりあげるジェルーシャの頭に、大きな手がポンと優しく置かれた。 「……よく頑張ったね、ジェルーシャくん」 ジェルーシャは濡れた瞳を上げて、男を見つめた。 「あの……あなた、もしかして『Dom』なんですか?」 不意に尋ねたジェルーシャに、男はサングラスの奥で目を丸くした。 「おや、どうしてそう思う?」 「それは……。でも、それにしちゃあ……なんていうか、迫力がないというか。普通、Domの人ってもっと威圧的に命令してくるのに……そんな風貌だし……」 自分でも驚くほどぶしつけな言葉にハッとし、ジェルーシャが慌てて口を押さえると、男は「ハハハ!」と気持ちよさそうに声を上げて笑った。 「おいおい、散々な言いようだなあ! 髭面でサングラスのDomじゃ格好がつかないかい?」 そうおどけて見せながらも、無精髭に覆われた口元が固く結ばれ、サングラスの奥の瞳には、ペンドルトン一族が犯した「一族の恥部」たる暴挙への激しい純粋な憤怒と、目の前の健気な青年を絶対に救い出すという強い誓いが宿っていた。 男の真の正体は、ペンドルトン・エージェンシーの親会社であり、ロンドンに本拠を置く巨大企業「ジャービス・コーポレーション」の最高権力者——ジャービス・A・ペンドルトンその人であった。 ジャービスは胸中で固く決意しながらも、ジェルーシャにはその正体を一切明かすことなく、優しく問いかけた。 「さて……この後、君はどうするんだい?」 ジェルーシャは鼻をすすり、力なく笑ってみせた。 「あなたに話を聞いてもらったせいかな、また派遣会社の仕事でがんばりますよ。自分には……そこの独身寮がありますから、……あなたこそ、今夜泊まるところはあるんですか? あ、でもごめんなさい、僕のところは寮だから、泊めてあげることは……ごめんなさい」 身を削るような絶望の中にいながら、なお自分という見知らぬ他者を気遣う優しさ。ジャービスはサングラスの奥で愛おしそうに目を細めると、「大丈夫だよ。宿ならあてがある」と穏やかに答え、バックパックのベルトを軽く直すと、静かに暗闇の向こうへ消えて行った。 ◇ その夜。アストリアの古びた独身寮の一室。 ドアを開けたジェルーシャを待っていたのは、偽物のDom——トムだった。心身ともに限界(Subドロップ)を迎え、自我が溶けていくような感覚の中、ジェルーシャはトムに抗う気力すら湧いてこなかった。膝が床に沈み、肩の力が抜けている。 「遅かったじゃねえか、ジェルーシャ。今夜も、たっぷりと俺の相手をしてくれるんだろ?」 (……もう、どうでもいいや……) 諦めの中で二段ベッドのパーティション・カーテンを静かに閉めようとした——その時だった。 バタンッ! 激しい音を立ててドアが跳ね上がり、荒い息をついたレイン課長が踏み込んできた。 「ここにいたか、ジェルーシャ! 位置情報が消えたから心配したんだぞ。おい、すぐに準備しろ! お前の新しい派遣先が決まったぞ。ロンドンだ!」 「え……? ロンドン……?」 訳が分からず呆然とするジェルーシャと、途中で邪魔が入ってあっけにとられるトムをよそに、レイン課長は「ほら、さっさと荷物をまとめろ!」と強引に腕を引っぱるのだった。 ◇ 翌朝——株式会社ポニー・スタッフサービスの事務所。 「ひーっひっひ! 見ろよレイン課長、この小切手の金額! 桁が違いすぎるぞ!」 リペット社長が興奮に震える手で小切手を何度も眺め回していた。 「いやあ社長、たまげましたね! 『ジャービス・コーポレーション』と言ったら、あのペンドルトン・エージェンシーの親会社、世界屈指の大企業ですよ! そんな大企業から直々のご注文とはな!」 レイン課長が手を揉みながら、下卑た笑みを浮かべる。 「なんでも、ジェルーシャを一目見て気に入ったとか言ってたらしいぜ? あいつ見た目だけはいいからな。愛玩Subにされるんだぜ、ヒヒヒヒ!」 「間違いない! ロンドンに行ってもまたボロボロに壊されるまで玩具にされるんだろうさ! ハハハハ!」 自分たちが手放したものが、一人の青年を救うために動いた「本物のあしながおじさん」の圧倒的な権力であったことなど、悪党二人は知る由もなかった。 ◇ キーーーーーン……。 澄み渡る雲海の上を、ジェット機が静かに滑空していく。 ジョン・F・ケネディ国際空港を飛び立ち、窓の外に広がるニューヨークの街並みは、すでに遥か彼方へと去っていた。 なぜ自分が、派遣としてロンドンへ向かうことになったのか。これからどんな運命が待っているのか、ジェルーシャには何一つ分からない。 だが、ペンドルトン社での絶望も、ポニー社での抑圧も、すべては雲の彼方へと遠ざかっていく。 (さようなら、ニューヨーク……) 抱え込んだ膝の上でそっと両手を重ね、ジェルーシャは静かに目を閉じる。大都会の地獄を抜け出し、遥かなるロンドンの空へ——新しい未来を乗せた翼が、果てしない地平線へと向かって飛んでいくのだった。 おわり

ともだちにシェアしよう!