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#14 偽りの言葉

サリーのいないペントハウスは、息が詰まるほど静まり返っていた。広々としたリビングの真ん中で、ジェルーシャは一人、ソファの上にポツンと膝を抱えて座り込んでいた。 手の中に握りしめたスマートフォンの画面には、遅刻や欠勤の連絡をするよう言われていた社内システムアプリが立ち上がっている。ジェルーシャは画面を開いては閉じ、を何度も繰り返していた。 画面を見つめるたび、ジュリアたちの強引で冷酷な顔が脳裏をよぎる。 自分の家でもない豪華な部屋で、自由に動き回ることもできず、手持ち無沙汰と焦燥感に苛まれたジェルーシャは、ただひたすらにサリーの帰りを待つことしかできなかった。居ても立ってもいられなくなった体は自然と玄関へ向かい、硬い床の上にポツンと座り込むと、ドアが開く瞬間を待ち続けた。 ——ブーブーッ。 静寂を切り裂くように、手の中の端末が突如として激しく震えた。画面に浮かび上がったのは『ポニー・スタッフサービス レイン課長』の文字。 ——出たくない。激しい恐怖に身を竦ませながらも、ジェルーシャは震える指先で恐る恐る通話ボタンをタップした。 「……はい」 「おい、ジェルーシャ! 今、お前がいるラグジュアリーなアパートの1階エントランスにいる。すぐに降りてこい!」 電話に出るやいなや、耳を刺すような怒声で用件だけが叩きつけられた。ジェルーシャは受話器を握りしめたまま立ち上がり、弾かれたようにエレベーターで1階へと向かった。 エントランスのガラス扉を抜けると、レイン課長が車で待っていた。拒む隙も与えられないまま、乱暴に後部座席へと押し込まれる。 「どうして僕のいる場所が分かったんですか……?」 「そんなことはどうでもいいんだよ!」レイン課長は声を荒らげて遮る。 「お前は勝手に休んで大切な仕事に穴を開けたんだ! 損害賠償が発生したら、全部お前に請求するからな!」 怒鳴り散らしながら車を急発進させると、そのままペンドルトン社へと直行した。車寄せに着くと、すでにジュリアンとジュリアが冷ややかな視線で待ち構えていた。 「無断欠勤とは、感心しないな、ジェルーシャくん」 ジュリアンが吐き捨てる嫌味な言葉に、ジェルーシャは縋るような思いでレイン課長を見上げる。だがレイン課長はまったく気にする様子もなく、「また何かご用意があればいつでもお申し付けください」と揉み手をしながら、その場から去っていった。 ◇ 「本当に、目障りなのよ……!」 ジュリアは爪を立てるような強い不快感を叩きつける。 「あんた、調子に乗ってるんじゃないわよ。……あのアニーって、あんたと同じポニー・スタッフサービス出身のSubなんだってね? メイフィールドの人が聞いたらどう思うかしら?」 その言葉が鼓膜を打った瞬間、ジェルーシャの全身からさぁっと血の気が引いた。昨夜、死ぬ気で隠し通したはずの秘密だった。膝が震え、背筋が硬直する。 「なぜ、知ってるの……」 「ふふっ、バカな子。自分で認めちゃったわね」 青ざめて立ち尽くすジェルーシャを見て、ジュリアは満足そうに嗜虐的な笑みを深めた。彼女の手には、一通の封筒が握られている。 「お前に言っても分からないだろうけど、これはサリー様にとって大切なものなの。……必死に用意した融資申請の信書。お前が破り捨てたことにしてやろうかしら?」 ジュリアはジェルーシャの目の前で、それをひらひらとあざ笑うように揺らしてみせる。 「おいおいジュリア、それは関係ないだろ。叔父上の手前、面倒なことになる」 それまで静観していたジュリアンが、低く冷ややかな声で割り込んだ。珍しくジュリアを制したジュリアンだったが、ヒステリックに感情を昂ぶらせるジュリアは聞く耳を持たない。ジュリアンはあきらめたように軽く息を吐くと、氷のように冷めきった琥珀色の瞳でジェルーシャを見下ろした。 「アニーの人生も、サリーの夢もぶち壊されたくなければ……サリーとは二度と会わないことだな。適当に別れ話でもでっち上げて、今すぐ身を引くんだな!」 冷酷な通告を叩きつけると、ジュリアンは忌々しそうに顔を背けた。 「用は済んだ。さっさと出ていけ!」 その冷徹な一言が落ちるやいなや、オフィスから追い払われるように、ジェルーシャは重い扉の外へと押し出された。 「生意気なのよ、あのSub。代わりのSubを派遣してもらいましょうよ、お兄様」 「まあ待てよ、ジュリア。チェンジの料金も安くはないんだぜ」 「でも、お兄様、もう私、気が収まらないの!」 ジュリアはイライラとヒールを鳴らし、苛立ちながらジュリアンに詰め寄った。 「……まあ、そうだな。某国(注1)の関連会社へ二重派遣して、中抜きでもするか」 ジュリアンは冷酷な笑みを浮かべ、琥珀色の瞳を怪しく光らせた。 「某国に二重派遣……ふふ、いいじゃない。ぴったりだわ」 背後の閉ざされた扉の中で、双子の悪魔が交わす恐ろしい企みを、ジェルーシャは知る由もなかった——。 ※注1:現代のポリティカル・コレクトネス(PC)の観点から、特定の国名の記述は避けております。 ◇ ペンドルトン社の、あの悪魔の双子から解放されたものの、ジェルーシャは当てもなく夜の街を彷徨っていた。 サリーの優しさに満ちていたあのペントハウスには、もう二度と戻れない。かといって、トムの歪んだ悪意が潜むあの薄暗い独身寮へ帰る気力など、どこにも残っていなかった。 ネオンの光が冷たく滲むマンハッタンの路上。絶望の重みに膝を折りそうになりながら足を引きずるジェルーシャの前に、吸い寄せられるように急停車した一台の白いテスラが立ちふさがった。 「ジェルーシャ!」 ドアを押し開けて飛び出してきたのは、血相を変えたサリーだった。端末のトラッキングアプリに表示された異常な位置取りに気づき、必死の思いで探し回っていたのだ。 「どうしたんだい!? 心配したんだぞ……!」 駆け寄り、痛々しいほど真摯に手を差し伸べようとするサリー。その温かい手のひらに縋りつき、すべてを打ち明けて泣きじゃくりたい衝動が奔流となって押し寄せる。しかし、ジェルーシャはそれを必死の思いで噛み殺した。 (僕がここにいたら……アニーの未来も、サリーさんの夢も、全部壊されてしまう……!) ジェルーシャは両手を強く握りしめ、差し伸べられたサリーの手を、拒絶の意志を込めて強く払いのけた。首筋が熱を帯び、喉が震える。 「……触らないでください!」 「え……ジェルーシャ?」 「あなたみたいな、ぬるいDomなんて僕は求めてないんだ!」 喉を引き裂くような声で、ジェルーシャは自分自身の心に刃を突き立てるように叫んだ。 「優しくされるなんて気味が悪い……っ! 僕はもっと酷く、厳しく躾けられたいんだよ! あなたみたいに甘ったるいだけのDomなんて、反吐が出る!」 サリーの瞳が見る見るうちに驚愕と絶望に染まっていく。その痛ましさに胸が張り裂けそうになりながらも、ジェルーシャは言葉の刃を止めなかった。 「だいたい、勝手に位置情報を追うようなアプリまで僕のスマホにつけて……ストーカーみたいで気持ち悪いんですよ! もう二度と僕の前に現れないでください!!」 夜の喧騒をかき消すような重い沈黙が、二人の間に落ちた。 必死に差し伸べた手を「気持ち悪い」と叩き切られたサリーは、深く傷ついたように目を伏せ、言葉を完全に失っていた。どれほど圧倒的な包容力を誇るDomであっても、愛する者から放たれた決定的な拒絶の刃を防ぐ術などなかった。 「……そうか。すまなかったね」 絞り出すような低い声。サリーはそれ以上何も言わず、力なく背を向けると、逃げるように車へと乗り込んだ。 静かに走り去っていく白いテスラの赤く細いテールランプを、ジェルーシャはただ立ち尽くしたまま見送った。 車影が闇の向こうへ消え去った瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れ、ジェルーシャは冷たいアスファルトの上に崩れ落ちた。 自分を守ってくれたたった一つの温もりを、自らの手で永遠に手放してしまった。 「ああ……っ、あぁっ……!」 ネオンの光が反射する冷たい路上で、ジェルーシャは誰にも届かない慟哭を響かせ、ただ一人、絶望の泥沼の中で泣き続けた。 つづく

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