1 / 5
金雀花の下
『アハブ、イゼベルにエリヤの凡て爲たる事及び其如何に諸の預言者を刀劍にて殺したるかを告しかば
イゼベル使をエリヤに遣はして言けるは神等斯なし復重て斯なしたまへ我必ず明日の今時分汝の命を彼人々の一人の生命のごとくせんと
かれ恐れて起ち其生命のために逃げ往てユダに屬するベエルシバに至り少者を其處に遺して
自ら一日程ほど曠野に入り往て金雀花の下に坐し其身の死んことを求めていふヱホバよ足り今わが生命を取たまへ我はわが父祖よりも善にはあらざるなりと』
(列王記上19章1-4)
泥をはね上げる蹄が時おり、荒れた道の中に埋もれた石の塊を打つ音を上げた。
その度に臆病な質の馬は首を振り、手綱を力いっぱい抑えないと今にも暴れかねない。
二人の人間を乗せているせいで悪路をまっすぐ走ることも困難だった。
「お前のせいだ!」
雨音と馬のいななき、鼻面から吹き出す白い息に声がかき消されそうになりながら、青年は後ろに乗っている相手に聞こえるよう叫んだ。
「お前が余計なことをしたせいで、私がこんなことになっている!」
横殴りの激しい雨が染み込んで、ウールの外套はすっかり重くなっている。青年の金に近い褪せたような明るい茶色の髪は、頬に張りついていた。
後ろから彼の胴体に回された白く小さな手と、背中の重みはまるでこの世の存在ではないかのような、空虚さしか感じられない。
辺鄙な谷間を縫うような斜面を駆け下り、馬が通れる道へ出なければならない。
追っ手が放たれるのも時間の問題だ。
「背信者め、お前は昼も夜も世々限りなく苦しめられるだろう!」
激しい雨で霞む景色の中、栗毛の馬は黒い尾の軌跡と曖昧な蹄跡を残し駆けて行った。
◆◆◆
アルナウトは牢に転がっている腐りかけていた両手のない亡骸を片付けるよう、下男に顎で指示した。
地下牢にはぬかるみに打ち付ける雨音がひっきりなしに届き、天井付近の細い明り取りより覗く光から、今が昼間だということが判る。
猛烈な悪臭の源としてうつ伏せに倒れているのは、十日ほど前に家畜泥棒として半殺しにされ、ここに入れられた男だ。
擦った跡だらけのブーツが、牢に敷かれた不潔な藁を踏みしめると、ネズミがチチチと鳴き声をあげて石壁の隙間へと逃げ出した。
ここ二日ほどの荒天で、石灰岩の壁面はじっとり湿っている。
牢から男だったものが運び出されると、目の前の囚人と向き合った。
「お嬢様 、貴女とこんなところで会うのは至極残念だ。せめて太陽の下お会いしたかったが」
彼女の黄色に近い茶色の目がアルナウトを見る。縄で縛られた両手首と剥き出しの足首が、否応なしに目に付いた。
ほとんど黒に見える髪を肩より上までに切っていたが、何かしらの理由があるのだろう。
「どうやら前借金を抱えた娼婦のように見えるが、写本を盗めとはいったい誰の命令だ?」
息を一度吸い込むと女は形の良い唇の端を釣り上げると、こう言った。
「光は暗闇の中に輝いている。そして、暗闇が光を捉えることはなかった」
その時頭の上の落とし戸が、がたっと鳴った。
「若様、賊です!」
「なんだと!?」
牢を慌てて去ろうとするアルナウトの手燭から、獣脂の蝋が落ちて、敷かれた不潔な藁にこびりついた。
……
…………
………………
兵士とアルナウトがぎしぎしと軋む屋敷の階段を昇りきると、居間では酒臭い父――ヴァルクロス卿がいびきをかいて椅子へもたれかかっていた。床には倒れた錫のゴブレットと、安物のワインが零れた跡がある。
「父上」
相変わらず赤らんだ顔と、アルコールで潰れた喉からもれるいびきが聞こえる。
「父上!」
ようやくヴァルクロス卿は目を覚ますと、アルナウトを見上げた。
「……どうしたペイレ」
「アルナウトです、父上。賊が入ったとの報せです。ここは大丈夫なのですか」
「知らん、死ぬ時は死ぬわ」
病で切った右脚が足置きの上で丸太のように蠢いた。太鼓腹の向こうの赤らんだ禿げ頭と、包帯に包まれた脚の火傷の様な傷痕がこちらから見える。
アルナウトは父に似ていなかった。
若い頃の父のような細身で色男の兄たちとは違い、母の血が濃く出ている彼の容姿を父が好いていないことを、幼少期からいやというほど感じていた。
一目で北部の人間だと判る、色の薄い髪と目に大柄な体。
生まれながらの余所者だ。
「私は母上を見舞ってきます」
「放っておけ、クソ女が。年明け早々、坊主など呼びおって」
父の声を背にアルナウトが廊下へ出ると、先程まで連れていた兵が倒れていた。
どうやら遅きに失したようだ。抵抗しないまま彼らはこと切れていた。
あまり広くない廊下には折り重なるように三人分の死体が転がっている。
しゃがんで近寄ると、一人は喉をすっぱりと切られていた。残りは頸を折られたらしい。
その上半身を廊下に置くと、アルナウトの両の手のひらに、赤いものが付いていた。ぬるりと生暖かい感触を雑に下衣で拭った。
「まさか写本が目的か? あんなものに大した価値があるとも思えないが」
騎士領の領内であるサン・サルナンから雨の中、女が捕えられてきたのは昨日のことだった。
住民どころか村付き司祭も知らないような、教会の基礎部分を夜中に掘り返していたらしい。
実際アルナウト自身もその写本を見たのだが、古い羊皮紙の束にラテン語とおそらくはギリシャ語で何かを書いてあることくらいしか分からない代物である。
女が容易に口を割ると兵は踏んだようなのだが、先住の家畜泥棒を見ても眉ひとつ動かさないところを見て、アルナウトを直々に呼んできたらしい。
「これは……いかがなされた、若様」
アルナウトが振り返ると、僧が立っていた。
背が高くがっちりした体格であることが、服の上からでも判る。アルナウトも大柄だがこの男はそれ以上の巨体だ。
「――ここのところきな臭いことが続いている。御告げの祝日にも関わらず荷を動かし、諸侯は信心を忘れているのか静かすぎる」
「どうやら賊に入られたようなのです、私が父上の無事を確認している間に兵士たちが殺されていた」
おそらくは彼が母の招んだ僧なのであろう。托鉢修道会の黒ずくめの僧衣の頭巾の中から、抜け目のない灰色の目がアルナウトを見下ろした。
「して、その賊の目当てになりそうなものが。何か心当たりが?」
「ええ、もしかしたら昨晩連れてこられた女が、領内から持ち出した写本なのかもしれません。どうせ誰かに命令されたのでしょう、愚かな女です」
「……そう、彼女たちは誘惑に弱く罪深い。だからこそ手助けが必要であり、今もまさに奥様 から告解を受けていたところ」
その時、二人の間に僧が割り込んでくる。
「フラーテル! やはりありません!」
背の高い先程の僧侶は、報告を受けてアルナウトに向き直った。
「若様、もしかしたら何かご存知ではないのですか?」
「私が何を知ると?」
「嗚呼、未だ言い逃れできるとお思いか。ヴァルクロス卿の領地から見つかったという体裁でありながら、事実上この騎士領を管理する若様が何もご存知ないとは、いささか不自然とは思いませんか?」
気がつくと、アルナウトはこの僧の部下らしき、数名の僧と役人に囲まれていた。
これは濡れ衣だ。
私が知るわけがない、そしてやけにこの男の訪問時期の都合が良すぎる。新年というだけではなかった。まさか……
突然目の前の役人風の男が、どさりと声もなく前のめりに倒れた。
「お久しぶりですね、フラーテル・ベルトランドゥス。予想通りここにいらっしゃいましたか、お探しの物は手に入ったのですか?」
ベルトランというのがこの僧の名らしい。
少し掠れた女の声にアルナウトは振り返る。
「貴様……どうやって」
驚くのも無理はない。いつの間に牢から抜け出したのか、先程の女が目の前に立っていた。
「領民の中のから兵を雇うなら、欲望に弱い者はお奨めできませんよ。若様より女の言うことを聞くような者は特に」
色仕掛けでも使ったことを示唆しながら、女はアルナウトを見下すかのような視線を浴びせる。
ベルトランは女のことを知っているのか、忌々しげに彼女を睥睨したが、すぐに再びアルナウトへと向き直った。
「どうやら若様はご乱心の様子、奥様をお守りしアルナウト・デ・ヴァルクロスをトゥールーズまで連行せよ!」
朗々とした声が屋敷に響きわたり、駆けつけた役人やらに囲まれる。
ベルトラン本人はこの屋敷に連れていた他の部下への指示のためか、一旦廊下から階下へ降りてゆく。
狭い廊下で背後から羽交い締めにされそうになり、アルナウトはその相手を投げたおすと、男は意識を失い床に伸びた。もう一人が棍棒で殴り掛かるが、上手い具合にいなし、脇腹に膝を沈める。
奥の部屋にいたはずの母がようやく事態に気づくと、目に入った光景に甲高い悲鳴を上げた。
「母上、落ち着いてください、これらは悪魔の仕業に違いありません」
なおも声を上げ続ける母に対して、アルナウトが扱いを逡巡している間に、先程の女に袖を掴まれた。
「ここにいればいるほど不利な状況にしかならないぞ、不本意だろうが逃げるしかない」
「まさか貴様と?」
「そうだ。直ぐに厩へ行け、あまり時間は残されていない」
上目遣いの黄色っぽい目がアルナウトを見上げた。
母の方を振り返ると、部屋に飾られた彼女の持参金の一つである『黄金の林檎』のフランドル織が目に入る。
「母上、いずれ私は潔白を証明しここへ戻ります。今しばらくお持ちください」
相変わらずマダム・デ・ヴァルクロスの悲鳴が廊下に響いていた。
アルナウトは全速力で走って屋敷の裏手に回ると、既に先程の女が待ち受けていた。
誰の仕業なのか既に厩番は息をしていない。
「早く、俺 を乗せろ」
連れて逃げろと言った癖に、こいつは自ら馬にも乗れぬとは。
アルナウトは雨足の激しくなる中、後ろに女を乗せ馬の腹を蹴った。
直ぐに馬はいななきをあげて激しい雨の中を走り始める。
馬が走り出す直前に、ずぶ濡れになったベルトランの呪詛の声が背後で響いた。
"Anathema sit. Cruciaberis die ac nocte in saecula saeculorum, traditor."
(背信者め、お前は昼も夜も世々限りなく苦しめられるだろう)
ともだちにシェアしよう!

