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第22話

最終話  帰還命令  静かな日が続いた。  客室に持ち込まれた資料を読み、関心を持ちそうな学生に、打診の手紙を届けてもらった。測量については、故郷の父に人手を集めてもらうことにした。  アレスは夜遅くに客室を訪れ、ヨシュアから香りが出ていないかを確かめに来た。  安定させるためだと言って、大きな体で寝床に潜り込んできて、後から抱きしめられた。あの夜の熱を思い出して、下腹が脈を打ち、眠 れなかったが、何もしてこないことがわかると、だんだん落ち着けるようになった。そのうち一人で眠るよりも気持ちよく眠りに落ちた。  ただ、目が覚めるときには男はいない。 寝覚めは驚くほどスッキリとしているが、朝、会話することもない。心に刺さった棘は抜けないまま、時間だけが過ぎてゆく。  決まった時間に訪れるギルに、何をしているのか聞いてみると、今は街道整備の為の工兵隊を集めているらしかった。 「無事予算が降りたそうです。事前調査をはじめると伺っています」  いつの間にか、話がどんどん先に進んでいる。ヨシュアは、しかめっ面になるのを抑えられなかった。ギルは知っているのに、パートナーだと言った自分には伝えない。自分はこんなに元気なのに、本当に安静が必要なのか。 「私が動けないせいで、地下貯水池の設計は、まだ形にもなっていないのですが」 「こちらは待機とのことです。無理をさせるなと申し付かっております。」  無理をするつもりはない。だがアレスの過保護はあの夜の一件により、信用できなくなった。 「アレスは人にばかり休ませすぎです。もう少し自分が休めばいいんだ。朝、挨拶したこともないんですよ。仕事中毒ですよ」  不平をこぼすヨシュアに、ギルは首をかしげた。 「ヨシュア様のところでお休みになられてから、睡眠時間がかなり長くなりましたが」  あれで?  ヨシュアはアレスの執務室の方に目を向けた。 「アレス様がヨシュア殿と過ごされることは、大変有難く思っています。普通の人間の休息というものを理解していただける、またとない機会ですので」  普通じゃないと思っているのか。ギルもそれなりに気苦労が多いのかもしれない。 「⋯⋯でも、何も説明してくれない」 「聞けば答えてくださいますよ。ヨシュア殿を誰よりも気にかけておられます」  ヨシュアはそうじゃない、という言葉を飲み込んだ。  気にかけてくれていることは、知っている。でも何を考えているのか、本当のところは教えてくれない。領主に成果を示すこと以外、頭にないのかもしれない。自分のことは何も考えていないのかもしれなかった。 「本領から急ぎの連絡です」  昼下がり、アレスは侍従が運んできた封書を開いて、読み終えると、黙ったままぐしゃりと紙を握りつぶした。  目をつぶり、歯を食いしばって生まれた国への呪詛を飲み込んだ。 「帰還命令だ」  部屋の空気が、ぴんと張り詰めた。 「原因はノルズガルド。新王が誕生したせいで攻勢がひどいらしい。今の戦力では領都が直接攻撃されるかもしれないと」 「お前が恐れていたとおりになったな」 窓際のカインが立ち上がった。 「いつ動く?」 「明日の朝には。できるだけ早く現地で情報を取りたい」 「わかった。本領の部隊に連絡を飛ばす」 「アレス様。こちらにいつ戻るか、目処はたっているのですか」 「期間は一時的なはずだ。長くて三ヶ月。雪で山が閉ざされるまでの間だろう」 ギルの表情が緩んだ。 「戻れるのであれば、ヨシュア殿も安心されるでしょう」  アレスは目を見開いたが、そのあと少し目線を落とした。 「戻れる頃には、カスティールも雪に閉ざされる。今のうちにできる限り計画を進めたい」 「私は何を」 「お前はここに残れ。ヨシュアの警護と補佐を」  ギルは驚いたようにアレスを見た。 「あちらでアレス様の護衛が不足するほうが問題では」 「俺の方はなんとかする。あいつは計画の要になっているから、取り込もうとする奴も出てくる。守ってくれ」  アレスの厳しい視線に、ギルは言葉を飲み込んだ。  動き出した二人を見て、アレスは家宰に指示を出し、自身の部屋に戻った。体を洗い、身軽な旅装に着替える。立つのは夜明け前。残された時間はほとんどない。  今朝眺めたヨシュアの寝顔は、しばらく見れない。ここまで近づけた距離を、今宵のうちに引き剥がされる。わかってはいたが、離れるしかできないことが腹立たしかった。  ヨシュアが聞かされたのはギルからだった。 「帰還命令、ですか」 「ヨシュア殿はここにいるようにとのことです」  ヨシュアは、言葉を失った。自分のことは、いい。明日には、アレスがいなくなる?突然過ぎて、処理が追いつかない。  どうして、そうなる。  一年。卒業まで一年しか与えなかったグレンヴィルの領主は、それさえアレスからとりあげるのか。 「⋯⋯前線に行くということですか」 「そうなります」  ギルは平然と答えるが、前線なら死ぬこともある。現にグレンヴィル家の一族は、何人も戦場で命を落としている。  養子のアレスは実子より危険な場所に行かされるのではないだろうか。  黙ってしまったヨシュアに、ギルは慰めのつもりか、言葉を続けた。 「アレス様ならば大丈夫です。このようなところで終わる方ではありません」  ヨシュアは信じられないようにギルを見上げた。自分の主への絶対の自信が、どこからくるのかわからない。 「わからないです⋯⋯そこまでして、グレンヴィルに縛られなくてもいいではありませんか」 「些末なことだ。貴方は気にしなくていい」 開けっ放しにしていた扉から、旅装姿のアレスが入ってきた。 「いきなりですまない。そういうことだから、挨拶に来た」  ギルが下がり、扉を閉めてその近くに立った。 「仮眠を取ったら出発する」 「え?もう、ですか」 「そのつもりだ」    あまりに簡単な挨拶が、癪に障った。 「⋯⋯僕がこんな状態のときに行かなくても」  アレスは頭の後ろをかきながら、あらぬ方を見た。 「実をいうと数日前からフェロモンは出ていない」  ヨシュアは驚いてアレスを見上げた。 「⋯⋯なんですって」  真面目な顔で、『まだ出ている』と言ったのは、嘘だったのか。一応悪気があるのか、アレスは目をそらしたままだ。 「貴方は平気でアルファに近づきすぎるから、俺の気が休まらないんだ」 「あ、アレスもアルファじゃないですか」 「俺はいいんだ。俺ほど安全なアルファはいないだろ」  自信たっぷりに胸をそらすアレスに、ヨシュアはあきれて、横顔をまじまじと見た。自分の体を好き勝手にしておきながら、本気で『安全』なつもりらしい。 「安全じゃない。あなたは、危険だ」  アレスは驚いて、正面からヨシュアを見返した。 「⋯⋯俺が?」  本当に何もわかっていない。アレスは自分の為にしたつもりなのだ。今も自分の為についた嘘を、違う理由でごまかしている。 ───こんな可愛い嘘は、ずるい。  ヨシュアは泣きたくなった。こんなに不器用で可愛いと、許してしまいそうになる。 「ヨシュア。貴方に危害を加えるつもりはない。俺が戻れるように祈ってくれ」  アレスはヨシュアの手を取り、甲にキスをしてヨシュアの様子を伺った。  ほんと、危害を加えておいて、大馬鹿だ。  この人が、いなくなるのは寂しい。  自分のもとを去るのが、信じられない。  ヨシュアは小さく頷いて、アレスの手に左手を重ねた。  貴族院の静かな一角にある別邸は、深夜を過ぎても、慌ただしかった。目が冴えて眠れなかったヨシュアは、夜半過ぎに灯りが、屋敷から林の中へと移動してゆくのを目にした。  枕元のランプを持ち、廊下から階段を降りた。暗い林を抜け、立ち並ぶ寮棟の脇を通り、大きな庭園をつき切り、正門に向かった。  衛兵が松明を焚いていた。人の背の倍ほどの鉄の縦格子の向こうに、馬に跨るカインと、見たことのない兵士から武具を受け取っているアレスがいた。  身につける動作は手慣れていて、今まで見てきたアレスはほんの一部に過ぎず、こちらが本当の姿なのだと思った。  オメガでなくても、自分が届くはずも無い。  アレスが近づいて来なければ、一生関わることもなかっただろう。  ヨシュアが門に近づくと、アレスが何かに気がついたように、ヨシュアのほうを振り向いた。  馬に乗るのをやめて、近づいてくる。騎乗用の長靴はカツカツと硬質な音を立て、見知らぬ他人の足音に聞こえた。 「どうした」  いつもの声。いつもの問いかけ。アレスは行こうとしている。自分には引き留める言葉がない。  どうやって。  どうすれば置いていかれずに済むのだろう。  冷たい鉄格子を握りしめた。 「僕に薬を使わせたくないなら、帰ってきて」  口に出して、後悔した。  自分のことばかりだ。  僕は、我儘を言うしかできない。  唇を噛みしめるヨシュアに、革手袋を嵌めた指が、頬を撫でた。アレスは満足そうに笑っていた。戦いに行く者の顔ではなかった。  冷酷にも見える端正な顔に広がる少年のような笑みに、ヨシュアは見とれた。 「帰る。当然だろ」  踵を返したアレスの表情が見えなくなる。 仄かに青みを帯び始めた石畳を、荷物と人を乗せた数頭の馬が走り出す。蹄の音が聞こえなくなってもヨシュアは、その場に佇んでいた。

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