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第1話 悪魔の子
――北の離宮には、悪魔の子が住んでいる。
城下の者は、そう囁いているらしい。
悪魔の子が泣けば、井戸が枯れる。
悪魔の子が笑えば、赤子が死ぬ。
その目を覗き込めば心を奪われ、その手に触れれば、夜ごと枕元に悪い魔法使いが立つ。
どれも王子には覚えのないことだった。
けれど、自分が悪魔の子であることだけは、疑ったことがない。
母を殺した。
その事実があれば、それで十分だった。
*
食事は、いつも扉の外に置かれる。
朝と夜の二回。銀の盆に、固いパンと冷めたスープ。ときどき果物が一つ添えられることもあったが、それは使用人が数を間違えたときだけだった。
盆を置いた者は、三度扉を叩く。
王子が取りに出る頃には、廊下の向こうへ消えている。
今日は、その三度の音が聞こえなかった。
昼を過ぎても、廊下は静かなままだった。
忘れられたのだろうか。
そう思ったが、確かめには行かなかった。扉を開けて誰かと鉢合わせるほうが、食事を一度抜くよりも恐ろしい。
十四歳になった王子は、寝台の上で膝を抱えていた。
部屋には暖炉があったが、火は入っていない。夏が終わったばかりだというのに、この土地では朝晩の空気が冷えた。窓枠の隙間から入り込む風が、薄い寝間着の袖を震わせている。
壁紙はところどころ剥がれ、床には埃が積もっていた。
王子は掃除の仕方を知っている。濡らした布で床を拭き、蜘蛛の巣を棒へ絡めて取る。けれど、このところ井戸水を運んでくる者が怠けているため、飲み水を掃除に使う余裕はなかった。
部屋の隅には、空になった水差しが置かれている。
喉が渇いていた。
空腹も感じていた。
それでも王子は、誰かを呼ぼうとは思わなかった。
呼んだところで、来ない。
何度も呼べば、うるさいと怒鳴られる。
それよりも怖いのは、相手が本当にやって来ることだった。
人が来れば、身を縮めなければならない。目を合わせず、言われたことへ素早く頷き、相手が立ち去るまで息を潜める。
だから、一人のほうがよかった。
少なくとも、一人でいるあいだは間違えずに済む。
王子は膝の間へ顔を伏せた。
腕の中には、一匹の熊がいた。
片方の耳が取れかかり、茶色だった毛は灰色にくすんでいる。右の目は黒い釦だが、左には青い石が縫いつけられていた。本来の目がなくなったとき、王子が自分で直したのだ。
不格好な熊だった。
けれど、捨てることはできなかった。
柔らかな手が、この熊を差し出してくれたことを覚えている。
誰の手だったのかも。
どんな声で、何を言ってくれたのかも。
忘れてはいけないと思う。
そうでなければ、あの人がこの世にいた証拠までなくなってしまう。
「……お母様」
呼んでみても、返事はなかった。
代わりに窓が鳴った。
風に押された硝子が、かたかたと枠を叩いている。
王子は熊の頭へ額を押しつけた。
八年前から、夢の中の母はいつも背を向けている。
追いかけても届かない。
声を上げても振り返らない。
そして最後には、あの日と同じように倒れる。
白いドレスの裾へ、赤いものが広がっていく。
そのたび、王子は鈴の音を聞いた。
ちりん。
ひどく小さな、透き通った音。
幼い自分だけに聞こえた、あの音を。
「お前が封印を解いた」
母を運び出した兵士が言った。
「お前が悪い魔法使いを解き放ったから、王妃様は殺されたんだ」
その兵士は泣いていた。
だから、嘘を言っているはずがなかった。
もし鈴に触れなければ、母は死ななかった。
もし音を追いかけなければ。
もし自分が生まれていなければ。
母は今も王都の城で、父や兄たちと暮らしていただろう。
悪い魔法使いは封じられたままで、誰も不幸にはならなかった。
だから王子は、自分がここにいることを正しいと思っていた。
古びた離宮で、一人きり。
それが、自分に与えられた罰なのだ。
空腹で腹が小さく鳴った。
王子は顔を上げ、部屋の向こうにある扉を見た。
今から覗けば、食事が置かれているかもしれない。ノックを忘れただけかもしれなかった。
そっと寝台を降りる。
裸足の裏に、冷たい床の感触が伝わった。
熊を寝台へ残しかけ、思い直して抱き上げる。一人で廊下へ出るときには、いつもそうしていた。
扉の前で耳を澄ませた。
物音はしない。
王子は取っ手を握った。
ゆっくりと回し、身体が通るだけの隙間を作る。
廊下には誰もいなかった。
食事の盆もなかった。
王子は、ほっとしたのか落胆したのか、自分でもわからなかった。
部屋へ戻ろうとしたとき、遠くから声がした。
「こちらで間違いありませんか?」
王子は息を呑んだ。
男の声だった。
聞いたことがない。
「で、ですから、あちらには……」
答えたのは、食事を運んでくる下男の一人だった。
普段は王子の前でも舌打ちを隠そうとしない男が、今は妙に掠れた声を出している。
「あちらには?」
「悪魔の子が、おります」
王子の指から力が抜けた。
扉がわずかに軋む。
慌てて閉めようとしたが、廊下から聞こえてきた声に手を止めた。
「存じていますよ」
男は明るく答えた。
まるで、今日は天気がよいですね、とでも言うように。
「その方に会いに来たのですから」
靴音が近づいてくる。
こつ、こつ、と、石造りの廊下へ軽やかな音が響いた。
「お待ちください」
下男が止めようとする。
「近づくのは危険です。何をされるか」
「あなたは何かされたのですか?」
「い、いえ、私は……」
「では、大丈夫でしょう」
靴音は止まらなかった。
逃げなければならない。
王子は扉を閉め、鍵をかけようとした。
しかし、焦るほど指が動かない。木製の閂を持ち上げたところで、向こう側から扉が押された。
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