2 / 6
第2話 はじめまして
「あれ?」
男の声が、すぐそばでした。
「開きませんね」
王子は両手で閂を押さえた。
心臓が激しく鳴っている。
下男が何かを言った。
小さすぎて、よく聞こえなかった。おそらく、鍵をかけたまま放っておけばいい、と伝えたのだろう。
「おかしいですね。王子様のお部屋を訪ねるのに、どうして扉を閉ざされなければならないのでしょう」
王子様。
そう呼ばれたのは、いつ以来だろう。
王子は閂を握ったまま動けなかった。
「殿下」
扉越しに、男が呼びかける。
「突然お訪ねして、申し訳ありません。私、怪しい者ではありませんよ」
怪しい者は、皆そう言うのではないかと思った。
口には出さなかった。
「お会いしたいのですが、開けていただけませんか?」
王子は黙っていた。
「困りましたね」
声はちっとも困っていなかった。
「扉を開けるのは簡単なのですが、勝手に入って嫌われるのは避けたいところです」
王子は眉を寄せた。
ずいぶん妙なことを言う男だった。
この部屋へ入るのに、王子の許しを求めた者などいない。兵士も使用人も、外から鍵を開け、必要があれば勝手に入ってきた。
嫌われることを気にする者もいなかった。
むしろ皆、王子のほうから嫌われることを望んでいるように見えた。近づくな、話しかけるな、顔を見るなと、繰り返し命じられてきた。
「……どうして」
久しぶりに声を出したため、喉が痛んだ。
「はい?」
「どうして、僕に会いたいのですか」
扉の向こうが静かになった。
王子は後悔した。
尋ねてはいけなかったのかもしれない。
けれど、男はすぐに答えた。
「ずっと、お会いしたかったからです」
迷いのない声だった。
王子は閂を見つめた。
会いたかった。
自分に。
「嘘です」
「嘘ではありません」
「僕が誰か、知らないから」
「存じていますよ」
「僕は――」
悪魔の子です。
そう続けようとした。
だが、言葉になる前に、男が呼んだ。
「テオ」
世界から音が消えた。
王子は呼吸を忘れた。
腕に抱いていた熊が落ちた。
床へぶつかる鈍い音が、ひどく遠くから聞こえた。
今、何と。
誰を呼んだ。
その名前を、最後に聞いたのはいつだっただろう。
思い出せない。
母が死んだあと、誰も呼ばなくなった。
父も、兄たちも、乳母も、教師も、兵士も、使用人も。
第三王子。
あれ。
あの子。
忌み子。
そして、悪魔の子。
皆がそう呼んだ。
自分でも、声に出さなくなった。
口にすれば、二度と母の声で思い出せなくなるような気がしたから。
「どうして……」
喉が震えた。
「どうして、その名前を知っているのですか」
「どうして、と申されましても」
男は不思議そうに言った。
「あなたのお名前でしょう?」
王子は閂から手を離した。
扉は開かなかった。
向こうの男は、本当に勝手に入ろうとはしなかった。
「お顔を見ても?」
尋ねられ、王子は床に落ちた熊を拾った。
腕の中へ強く抱き締める。
怖かった。
けれど、それ以上に、もう一度名前を呼ばれたかった。
王子は震える手で閂を持ち上げた。
一歩下がる。
扉はすぐには開かなかった。
男は王子が十分に離れるまで待っていたらしい。
やがて、古い蝶番がゆっくりと軋んだ。
薄暗い部屋へ、廊下の光が差し込む。
光の中に、一人の青年が立っていた。
最初に見えたのは、白い髪だった。
雪よりも柔らかく、月の光よりも眩しい。肩を越えて流れる髪の一部は後ろで緩く束ねられ、細い鎖や紫色の飾りが編み込まれている。
青年は白を基調とした長衣をまとっていた。
黒い立襟に、濃紺と紫の布。胸元や袖には金の刺繍が施され、動くたび、耳飾りと宝石が小さな光を散らした。
ひどく華やかだった。
色褪せた離宮には、似つかわしくないほど。
物語の本から、挿絵だけが抜け出してきたように見えた。
青年の後ろには、先ほどの下男が立っている。
顔は真っ青だった。
目を見開き、何かに怯えるように青年の背を見つめている。王子と目が合うと、下男はすぐに顔を伏せた。
「そこで待っていてくださいね」
青年が振り返らずに言った。
穏やかな声だった。
下男はびくりと肩を跳ねさせた。
「はい」
返事だけは、ひどく素直だった。
青年は部屋へ足を踏み入れた。
王子は一歩退いた。
すると青年はすぐに立ち止まった。
「ああ、申し訳ありません。これ以上は近づかないほうがよろしいですか?」
金色の瞳が、まっすぐ王子を見つめている。
嫌悪も、恐怖もなかった。
好奇心と、隠しきれない喜びがあった。
贈り物の箱をようやく開けられる子供のような、きらきらとした眼差しだった。
「僕が、怖くないのですか」
「まさか」
「母を殺したんです」
「いいえ」
青年は即座に否定した。
王子は俯いた。
「僕が封印を解きました。だから、悪い魔法使いが母を――」
「それでも、あなたが殺したことにはなりません」
強い口調ではなかった。
諭すようでも、慰めるようでもない。
ごく当たり前の事実を告げる声だった。
王子は返す言葉を持たなかった。
八年間、一度も聞いたことのない考え方だった。
「でも、僕が鈴に触らなければ」
「そうですね」
青年はあっさり頷いた。
胸の奥が冷たくなる。
やはり、この男も同じなのだと思った。
ところが青年は、にっこりと笑った。
「あなたが鈴に触れなければ、私はここへ来られませんでした」
ともだちにシェアしよう!

