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第3話 魔法使い

「……あなたが?」 「はい」  それ以上は説明しなかった。  青年は王子の腕の中へ目を向けた。 「かわいらしい熊ですね」  王子は反射的にぬいぐるみを隠した。  十四歳にもなって、そんなものを抱いていると笑われる。  取り上げられるかもしれない。 「触りませんよ」  青年は両手を見せた。  白い指には、いくつもの指輪がはめられている。 「あなたの大切なものなのでしょう?」  王子は答えなかった。  青年はそれ以上、熊について尋ねなかった。  代わりに室内を見回す。  火のない暖炉。  剥がれた壁紙。  埃の積もった床。  空の水差し。  寝台の脇には、昨夜の食事を載せていた盆が残っている。  青年の笑顔が、ほんの一瞬だけ消えた。  けれど王子が気づいたときには、金色の瞳はまた楽しげに細められていた。 「お食事は?」 「まだです」 「朝から?」  王子は頷いた。 「水は?」  空の水差しへ視線を向ける。  青年もそれを見た。  背後で、下男が小さく息を呑んだ。 「そうですか」  青年は静かに言った。  声は優しいままだった。 「では、まずは温かいお食事にしましょう。そのあと、お湯を用意して、お部屋も整えなければ。寝具も替えたほうがよさそうですね。服も必要ですし、髪もきれいにしたいところです。ああ、でも、一度にすべてしてはお疲れになりますね」  一人で次々と話しながら、指を折って数えている。  王子は戸惑った。 「あの」 「はい?」 「誰が、するのですか」 「私が」  青年は当然のように答えた。 「あなたが?」 「はい」 「どうして?」  青年は目を丸くした。  それから、何か重大な失敗に気づいたように両手を打った。 「私としたことが、まだ名乗っておりませんでした!」  くるりと身を翻し、部屋の中央へ立つ。  長い裾と銀の髪が、踊るように広がった。  青年は片手を胸へ添え、王侯へ謁見する騎士のように深く頭を下げた。 「私の名はヨシュアと申します」  顔を上げる。  白い髪の隙間から、金色の瞳が笑っていた。 「本日よりこちらでお仕えすることになりました、王宮魔導士です」  王宮魔導士。  聞いたことのない役職だった。  そもそも、安全な魔術を扱う者は魔術師と呼ばれる。魔導士という古めかしい言葉を名乗る者など、少なくとも王子は知らなかった。 「父上が、あなたを?」 「ええ。陛下とは、よくお話ししてまいりました」  青年は朗らかに答えた。  後ろに立つ下男が、なぜかいっそう青ざめた。 「父上は……僕のことを、何か」 「もちろん」  ヨシュアは微笑んだ。 「あなたが穏やかに暮らせるよう、私へすべて任せると仰ってくださいました」  胸の奥で、何かが小さく軋んだ。  すべて任せる。  父は自分に会いに来るのではなく、知らない男へ預けることを選んだらしい。  悲しむべきなのかもしれない。  けれど、今さら悲しむほどの期待は残っていなかった。 「安心してください」  ヨシュアが言った。 「私は、いなくなりませんから」  王子は顔を上げた。 「どうして」  本日、何度目になるかわからない問いだった。 「どうして、そんなことを言うのですか」 「あなたにお会いするために来たからです」  ヨシュアは一歩だけ近づいた。  王子は退かなかった。 「あなたのお食事を作り、お部屋を整え、朝にはお目覚めをお手伝いして、夜にはよい夢をご覧になれるようお話をするために来ました」  さらに一歩。  金色の瞳が近づいてくる。 「寒い日には暖炉へ火を入れましょう。晴れた日には外へ出て、雨の日には部屋の中で遊びましょう。欲しいものがあれば、何でも用意します。行きたい場所があれば、どこへでもお連れします」  ヨシュアは王子の前で膝をついた。  そうして初めて、二人の目の高さが同じになった。 「誰にもあなたを傷つけさせません」  白い手が差し出される。  王子の手を無理に取ろうとはしなかった。  ただ、掌を上へ向け、待っている。 「私が、あなたを幸せにします」  そんな約束をしてはいけない、と王子は思った。  幸せというものが何なのか、王子にはわからない。  知らないものを与えると言われても、信じられるはずがなかった。  それなのに、胸が痛かった。  ずっと凍っていた場所へ温かなものを注がれ、ひび割れていくような痛みだった。 「僕は、悪魔の子です」  最後に確かめる。  ヨシュアは笑った。 「いいえ」  そして、宝物へ触れるような声で名前を呼んだ。 「あなたはテオです」  王子の目から、涙が一粒こぼれた。  なぜ泣いたのかわからなかった。  泣いてはいけないと思って顔を伏せる。けれど、涙は次々と頬を伝った。 「おや」  ヨシュアは困ったように眉を下げた。 「早速泣かせてしまいました。これはいけませんね」 「違い、ます」 「違うのですか?」 「わからない……」  声が崩れた。  腕の中の熊を抱き締めても、涙は止まらない。  ヨシュアは手を差し出したまま、待っていた。  王子は何度も迷った。  この手を取れば、何かが変わってしまう。  罰を受けながら一人で死んでいくはずだった自分が、変わることを望んでしまう。  それは、許されないことかもしれない。  けれど。  もう一度だけ、名前を呼んでほしかった。  王子は恐る恐る手を伸ばした。  指先が、白い掌へ触れる。  ヨシュアの手は温かかった。  握り締められることも、引き寄せられることもない。王子が自分から重ねるのを待って、そっと指を包んだ。 「初めまして、テオ」  ヨシュアは、心の底から嬉しそうに笑った。 「今日から私が、あなたのお世話係です!」

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