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第4話 魔法のネズミ
王子の手を握ったまま、ヨシュアはしばらく動かなかった。
温かな指が、触れている。
ただ、それだけだった。
強く掴まれることも、どこかへ引かれることもない。王子が離したければ、いつでも離せるほどの力だった。
それなのに、王子は手を引けなかった。
「どうしましょう」
ヨシュアが言った。
金色の瞳が、王子の頭から爪先までをゆっくりと眺める。
「お食事が先でしょうか。それとも、お風呂でしょうか。お部屋もなんとかしたいですし……ああ、でも、その前に」
ヨシュアの顔が近づいた。
王子は反射的に身を固くした。
白い指先が額へ伸びてくる。
殴られる。
そう思って目を閉じた。
けれど、触れたのは指ではなかった。
柔らかな髪が頬をくすぐり、額に何か温かいものが重なった。
一瞬のことだった。
ヨシュアはすぐに顔を離した。
「やはり、少し熱がありますね」
額と額を合わせていたのだと、遅れて気づいた。
王子は目を見開いた。
ヨシュアは何事もなかったように考え込んでいる。
「空腹と冷えのせいでしょう。まずは身体を温めて、それから消化のよいものを――」
「死にませんか」
「はい?」
「僕に触って」
王子は重なったままの手を見た。
「呪われませんか」
ヨシュアは瞬きをした。
それから、繋いだ手を持ち上げる。
王子の手の甲へ、今度は唇が触れた。
ごく自然な動作だった。
「どうでしょう」
ヨシュアは首を傾げた。
「何か起こるでしょうか?」
「わかりません」
「では、確かめてみましょう」
「確かめる?」
「私が呪われるかどうか、しばらくこのままで」
ヨシュアは指を絡めた。
先ほどよりも深く繋がれる。
王子は息を止めた。
「それは、危ないです」
「そうですか?」
「僕は、悪魔の子だから」
「テオ」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸の奥が大きく揺れた。
「私は、あなたを怖いと思いません」
ヨシュアは笑っていた。
「ですから、あなたも私を怖がらなくてよいのですよ」
無理な話だと思った。
白い髪の青年は、まだ出会ったばかりの他人だ。見たことのないほど美しい姿をして、誰も知らないはずの名前を知っている。
怖くないはずがなかった。
けれど、その恐怖は、使用人たちに感じるものとは違っていた。
近づいてほしくないのではない。
近づいてきた相手が、いつか離れていくことが怖かった。
「さて」
ヨシュアは立ち上がった。
それでも手は離さない。
「まず、寒いのをなんとかしましょう」
空いているほうの手を、暖炉へ向けた。
王子は慌てて周囲を見た。
「薪がありません」
「必要ありませんよ」
ヨシュアが指を鳴らした。
乾いた音が一つ、室内へ響く。
次の瞬間、暖炉の中に火がともった。
赤い炎ではない。
淡い金色の火だった。
何もない空間から生まれた炎は、薪も炭もない炉の中で、花びらのように揺れている。
すぐに柔らかな熱が広がった。
冷えきっていた部屋の空気が、春の日差しを含んだように温かくなる。
王子は暖炉を見つめた。
「今のは……魔術ですか」
「いいえ」
ヨシュアはあっさり答えた。
「魔法です」
王子の身体が強張った。
魔法。
人の心や身体へ直接触れ、自然の理を曲げる力。
かつて国中を混乱へ陥れたため、王国では固く禁じられている。魔術の教師から、その名を口にすることさえ慎むよう教えられた。
そして母を殺したのも、悪い魔法使いだった。
「魔法は、いけないものです」
「そうなのですか?」
「禁じられています」
「誰に?」
「父上に。国の法律にも、そう書いてあります」
ヨシュアは感心したように頷いた。
「なるほど。では、陛下には内緒にしましょう」
「そういう問題では……」
「テオは寒くなくなりましたか?」
問われ、王子は口を閉ざした。
凍えていた指先に、少しずつ感覚が戻っている。握られた手は、汗ばむほど温かい。
「……はい」
「では、よい魔法です」
あまりにも簡単に言われ、何も返せなかった。
魔法は悪いものだ。
そう教えられてきた。
けれど、目の前の火は誰も傷つけていない。冷えた身体を温め、凍えていた王子の手を動かせるようにしただけだ。
「おや」
ヨシュアが屈み込んだ。
その視線の先には、床に落ちた埃がある。
「こちらも、きれいにしましょう」
また指を鳴らす。
風が吹いた。
窓から入り込む冷たい風ではない。温かな空気が床を撫で、積もっていた埃を巻き上げた。
王子は咳き込みそうになり、口元を押さえた。
けれど、埃は煙のように広がらなかった。
一つの塊になって宙へ浮かび、くるくると渦を巻いている。
渦は小さくなり、やがて灰色の鼠へ姿を変えた。
丸い耳と細長い尻尾を持つ、埃の鼠だった。
鼠は空中を駆けた。
剥がれかけた壁紙を蹴り、天井近くの蜘蛛の巣を尻尾で絡め取る。寝台の下へ潜り込み、何年も溜まっていた汚れを引きずり出した。
一匹だった鼠は二匹になり、三匹になった。
それぞれが部屋中を走り回り、埃を集めていく。
王子は呆然と見つめた。
灰色の鼠の一匹が、王子の足元で立ち止まる。
後ろ足で立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
そのまま、王子の裸足へ鼻先を近づける。
「噛みませんか」
「噛みませんよ」
ヨシュアが答えた。
「お掃除が好きな子たちです」
鼠は王子の足の甲を、小さな前足で二度叩いた。
まるで、そこを退いてほしいと言っているようだった。
王子が横へ避けると、鼠は満足そうに頷き、足跡がついていた場所を尻尾で掃き始めた。
「……ふふ」
声が漏れた。
自分が笑ったのだと気づき、王子は慌てて口元を押さえた。
ヨシュアが振り返る。
金色の瞳が輝いていた。
「今、笑いましたね」
「笑っていません」
「笑いました」
「違います」
「では、もう一度笑ってくだされば、最初の一度は数えないことにしましょう」
「笑いません」
「残念です」
そう言いながら、ヨシュアは嬉しそうだった。
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