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第5話 好きなもの、嫌いなもの

 王子は顔を背けた。  頬が熱い。  笑ったところを見られたことが、ひどく恥ずかしかった。  灰色の鼠たちは部屋中の埃を集めると、一列に並んで暖炉へ向かった。一匹ずつ金色の炎へ飛び込み、音もなく消えていく。  最後の鼠だけが、炉の前で振り返った。  王子へもう一度お辞儀をして、炎の中へ飛び込む。  同時に、部屋が明るくなった。  汚れていた窓硝子は透き通り、午後の日差しが差し込んでいる。床から埃は消え、染みのついていた敷物も本来の色を取り戻していた。  壁紙の剥がれや窓枠の隙間は残っている。  けれど、朝までとはまるで違う部屋だった。 「いかがでしょう?」  ヨシュアが尋ねた。 「……きれいです」 「明日には壁と窓も直しましょう。今日はこれ以上魔法を使うと、驚かせてしまいそうですから」  もう十分に驚いている。  そう言おうとしたとき、腹が鳴った。  先ほどよりも大きな音だった。  王子は寝間着の上から腹を押さえた。  ヨシュアは笑わなかった。 「お食事にしましょう」  扉の外へ顔を向ける。 「食材を厨房へ運んでください」  廊下で待っていた下男が、弾かれたように返事をした。 「ただちに!」  足音が遠ざかっていく。  王子は不思議に思った。  あの男が、誰かの命令へあれほど素早く従う姿を見たことがなかった。 「ヨシュア」  初めて名前を呼ぶ。  ヨシュアが勢いよく振り返った。 「はい!」  待ち構えていたような返事だった。 「使用人ではなく、あなたが作るのですか」 「もちろんです」 「王宮魔導士なのに?」 「王宮魔導士は料理をしてはいけませんか?」 「そういう決まりはないと思います」 「では、問題ありませんね」  ヨシュアは繋いでいた手をようやく離した。  指先から温もりが消える。  王子はわずかな寂しさを覚え、そんな自分に驚いた。  会ったばかりの相手なのに。 「すぐに戻ります」  ヨシュアは、その気持ちを見透かしたように言った。 「どこへ?」 「厨房です。お食事を作るには、お鍋が必要でしょう?」 「僕も、行っては駄目ですか」  口にしてから、王子は俯いた。  なぜそんなことを言ったのだろう。  厨房には使用人がいる。部屋の外へ出れば、誰かと顔を合わせるかもしれない。  それに、ヨシュアが一人で行きたいと言えば、それまでだ。 「かまいませんよ」  ヨシュアは嬉しそうに微笑んだ。 「では、ご一緒しましょう」  再び手が差し出される。  王子は少し迷ってから、その手を取った。      *  王子が部屋の外へ出ると、廊下の端に女が立っていた。  年嵩の侍女だった。  洗濯物を抱えたまま動かず、こちらを見ている。  王子と目が合った途端、女は顔を強張らせた。  抱えていた布が床へ落ちる。 「悪魔――」  女の唇から、掠れた声が漏れた。  王子はヨシュアの手を離そうとした。  部屋へ戻らなければ。  自分が歩けば、皆を怖がらせる。  だが、ヨシュアは王子の手を包み直した。 「ご挨拶を」  侍女へ、にこやかに告げる。  女は震えていた。  ヨシュアを見て、それから王子を見る。 「第三王子殿下に、ご挨拶を」  言葉は優しい。  けれど、侍女の顔から血の気が引いた。  女は洗濯物を拾うこともせず、その場へ膝をついた。 「ご、ご機嫌麗しゅうございます、殿下」  王子は答えられなかった。  使用人からそのような挨拶を受けたのは、母が生きていた頃以来だった。 「行きましょうか、テオ」  ヨシュアが促す。  侍女は、名前を聞いても何の反応も示さなかった。  顔を伏せたまま、早く通り過ぎてほしいと願っている。  王子はヨシュアに手を引かれ、女の横を歩いた。  背中へ視線が突き刺さる。  振り返らなくても、恐れられているのがわかった。 「やはり、部屋で待っています」  王子は小声で言った。 「どうしてですか?」 「皆が怖がります」 「怖がらせておけばよいのですよ」  ヨシュアは明るく答えた。 「でも」 「あなたを粗末に扱うより、ずっと健全です」  聞いたことのない考え方だった。  王子は隣を見上げた。  ヨシュアは笑っている。  金色の瞳に怒りはない。  ただ、本当に何も問題はないと思っているようだった。 「それに」  ヨシュアは、繋いだ手を軽く揺らした。 「今は私も一緒です」  その一言で、王子は部屋へ戻るのをやめた。      *  厨房では、もっと多くの使用人が怯えた。  王子が入った途端、包丁を落とす者がいた。鍋の蓋を取り落とし、床へ派手な音を響かせた者もいた。  ヨシュアが「作業を続けてください」と言うと、皆は一斉に動き始めた。  王子がいないふりをするように、誰もこちらを見なかった。  ヨシュアは調理台の前へ立った。  白く華やかな上着を脱ぎ、近くにいた料理人へ差し出す。料理人は震える両手で受け取った。  黒い立襟の服に、金色の鎖や紫の宝石がいくつも揺れている。 「何が食べたいですか?」  問われ、王子は困った。 「なんでも」 「なんでも、が一番難しいのですよ」 「では、いつものもので」 「いつものものとは?」 「パンと、スープです」 「どんなスープでしょう」 「薄いものです」  ヨシュアは首を傾げた。 「何が入っていますか?」 「……お湯と、塩」  厨房が静まった。  使用人たちは手を動かしているが、誰も音を立てない。  ヨシュアも黙っている。  王子は間違えたと思った。 「すみません」 「なぜ謝るのです?」 「変なことを言ったから」 「変なのは、そのようなものを食事と呼んでいた方々です」  ヨシュアは笑った。 「今日は、鶏肉と野菜のスープにしましょう。柔らかなパンも焼きます。それから、林檎を甘く煮て――」 「そんなに食べられません」 「では、少しずつ」  ヨシュアは腕まくりをした。  白い袖を肘まで折り上げる。 「たくさん食べる必要はありません。好きなものを見つければよいのです」 「残したら、怒りませんか」 「怒りません」 「料理を作ったのに?」 「ええ」 「嫌いだと言っても?」 「次は作らないようにします」  王子はヨシュアを見つめた。  冗談を言っている様子はない。  ヨシュアは野菜を手に取り、楽しそうに鍋の準備を始めている。 「好きなものを、見つける……」  小さく繰り返す。  好きなものを選んでよい。  嫌いなものは残してよい。  そんなことを言われても、どうすればいいのかわからない。  けれど、少しだけ試してみたいと思った。

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