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第6話 はじめての優しさ

 スープは、驚くほど温かかった。  温かいというだけでなく、鶏肉の味と、野菜の甘みがした。  それぞれの味がする食事を、王子は久しぶりに口にした。  柔らかなパンをちぎり、スープへ浸す。 「おいしいですか?」  向かいに座ったヨシュアが尋ねる。  食事をしているあいだ、何度目になるかわからない質問だった。 「はい」 「本当に?」 「はい」 「よかった」  ヨシュアは毎回、初めて聞いたように喜んだ。  王子はもう一口、スープを飲んだ。  身体の内側へ温かさが広がっていく。 「ヨシュアは、食べないのですか」 「私は大丈夫です」 「お腹が空かない?」 「空くこともありますよ」 「今は?」  ヨシュアは少し考えた。 「テオが食べているところを見ているほうが楽しいですね」  王子は匙を止めた。  見られていると食べにくい。  けれど、嫌ではなかった。  食べるのが遅いと急かすでもなく、残すなと睨むでもない。ヨシュアは王子が一口飲むたび、本当に嬉しそうに笑う。  王子は皿の半分ほどを食べたところで、匙を置いた。 「もう、いっぱいです」 「承知しました」  ヨシュアは残った量を確かめた。  怒られると思い、膝の上で手を握る。 「初めにしては、少し多く作りすぎましたね。次から気をつけます」 「残しても?」 「かまいません」 「本当に?」 「本当です」  ヨシュアは林檎を煮た小皿を差し出した。 「こちらを一口だけ試しますか? お腹がいっぱいなら、明日でも」  甘い匂いがする。  王子は迷った末、小さな一切れを口へ入れた。  舌の上で、柔らかな果肉がほどける。  砂糖と香辛料の甘さが広がった。 「……好きです」  その言葉は、考えるより先に出た。  ヨシュアが目を見開く。  次の瞬間、満面の笑みになった。 「では、明日も作りましょう」  王子も笑った。  今度は、口元を隠さなかった。      *  食事のあと、ヨシュアは大きな浴槽へ湯を満たした。  古い浴室は長く使われていなかったが、金色の火で温められ、壁の汚れも魔法で落とされた。  王子は一人で入るつもりだった。  けれど、伸びきった髪をどう洗えばよいのかわからず、浴槽の中で困っていると、扉の向こうから声がした。 「お手伝いしましょうか?」 「大丈夫です」 「承知しました」  ヨシュアは入ってこなかった。  しばらくして、王子は絡まった髪へ指を引っかけた。  強く引いたため、頭皮が痛む。 「ヨシュア」  小さく呼ぶ。  すぐに返事がした。 「はい」 「髪だけ、お願いしてもいいですか」 「もちろんです」  ヨシュアは長い布を持って入ってきた。  王子が身体を隠すのを待ち、浴槽の後ろへ回る。 「触れますね」  前置きをしてから、濡れた髪をすくった。  指先は驚くほど優しかった。  絡まりを無理に引かず、端から少しずつ解いていく。泡立てた石鹸を馴染ませ、頭皮をゆっくりと洗った。  王子は目を閉じた。  誰かに髪を洗ってもらうのは、母が死んで以来だった。 「痛くありませんか?」 「はい」 「痒いところは?」 「ありません」 「お湯は熱くないですか?」 「ちょうどいいです」  何度も確かめられる。  そのたびに、自分がどのように感じているかを考えなければならなかった。  今まで、痛いか、熱いか、嫌ではないかと尋ねられたことはない。  尋ねられて初めて、自分にも答える権利があるのだと知った。 「ヨシュア」 「はい」 「どうして、僕の名前を知っているのですか」  髪を梳く指が、一瞬だけ止まった。 「ずっと知っていましたよ」 「ずっと?」 「ええ」 「どこで?」  ヨシュアは再び髪を洗い始めた。 「遠いところで、聞いたのです」 「僕に会ったことがある?」 「今日が初めてです」 「では、誰に聞いたのですか」 「それは――」  ヨシュアは楽しそうに声を弾ませた。 「もう少し仲よくなってからのお話にしましょう」 「どうしてですか」 「秘密があったほうが、楽しいでしょう?」  王子は納得できなかった。  しかし、もう少し仲よくなってから、という言葉は嫌ではなかった。  今日だけではない。  ヨシュアには明日も、その次の日もここにいるつもりがある。 「逃げませんよ」  心を読んだように、ヨシュアが言った。 「テオ、貴方の傍にいます」  王子は目を閉じたまま頷いた。      *  浴室から戻ると、部屋はさらに変わっていた。  暖炉の前には、柔らかな敷物が広げられている。寝台には新しいシーツと厚い毛布が用意され、窓には深い青色のカーテンが掛かっていた。  小さな卓上には、林檎の煮物と水差しが置かれている。 「いつの間に」 「お風呂へ入っているあいだに、皆さんへ運んでいただきました」  王子は辺りを見回した。  寝台の上に、見覚えのないものがある。  白い兎のぬいぐるみだった。  長い耳に、紫色のリボン。片目を閉じ、笑っているような顔をしている。 「これは?」 「贈り物です」 「僕に?」 「はい」  王子は寝台へ近づいた。  兎を持ち上げる。  新しい布は柔らかく、腹には綿がたっぷりと詰められていた。腕の中へ抱くと、古い熊より一回り大きい。 「僕は、もう十四になります」 「存じていますよ」 「ぬいぐるみで遊ぶ年ではありません」  そう言いながらも、兎を置くことができなかった。  ヨシュアは古い熊へ目を向けた。 「その子が一人では寂しそうでしたから」  王子は腕に抱いていた熊と、新しい兎を見比べた。 「……これは、大切なものです」 「ええ」 「新しいものがあっても、捨てません」 「もちろんです」  ヨシュアは迷わず頷いた。 「その熊は、その熊です。代わりを用意したつもりはありません」  王子は顔を上げた。 「違うと、わかるのですか」 「違うものは、違いますから」 「でも、汚れています」 「長く一緒に過ごしてきた証拠ですね」 「目も揃っていません」  右は黒い釦。  左は青い石。  不格好な顔をしている。 「とても素敵です」  ヨシュアは笑った。 「テオが直してあげたのでしょう?」 「……はい」 「では、世界に一匹しかいない熊ですね」  胸の奥が、また痛んだ。  けれど今度は、ひび割れるような痛みではなかった。  長く触れられなかった場所を、優しく撫でられたような痛みだった。 「この兎も、ここに置いていいですか」  王子が尋ねる。 「もちろん」 「熊の隣に?」 「喜ぶと思いますよ」  王子は二匹を寝台へ並べた。  古びた熊と、真新しい白兎。  大きさも色も揃っていない。  それでも、並んで座っている姿は悪くなかった。 「もう一匹くらい必要でしょうか」  ヨシュアが呟いた。 「いりません」 「犬はどうです?」 「いりません」 「猫は?」 「置く場所がありません」 「では、お部屋を広げましょう」 「そういう問題ではありません」  ヨシュアは真剣に考え込んでいた。  その顔がおかしくて、王子は笑った。  声を立てて笑った。  自分の笑い声を聞くのは、ひどく久しぶりだった。  ヨシュアが、目を細める。  金色の瞳に、暖炉の火が映っている。 「ようやく笑ってくださいましたね」  王子は返事をしなかった。  代わりに、寝台へ腰を下ろす。  新しい毛布は柔らかかった。  身体が沈み込むような寝台に、熊と兎を抱いて横になる。  ヨシュアが毛布を胸元まで掛けた。 「眠るまで、ここにいても?」 「好きにしてください」 「では、そうします」  暖炉のそばから椅子を運び、寝台の横へ座る。  王子は目を閉じた。  温かな部屋。  満たされた腹。  洗われた髪。  新しい寝具。  隣にいる人の気配。  あまりにも多くのものが一度に与えられ、すべて夢のように思えた。  眠って目を覚ませば、元の冷たい部屋へ戻っているかもしれない。 「ヨシュア」 「はい」 「明日も、いますか」 「いますよ」 「僕が眠っているあいだに、帰りませんか」 「帰りません」 「本当に?」 「本当です」  白い指が、布団から出ていた王子の手へ触れた。  強くは握らない。  ただ、ここにいると伝えるように、指先を重ねる。 「おやすみなさい、テオ」  名前を呼ばれ、王子は目を閉じた。 「……おやすみなさい、ヨシュア」  その夜、王子は八年ぶりに、鈴の音を聞かずに眠った。

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