10 / 34

第10話 優しいあなた

 光の向こうには、庭があった。  窓から何度も見ていたはずなのに、外から見る庭はまるで違う場所だった。  朝露を載せた草が、一面に輝いている。  石段の隙間には小さな苔が生え、ひび割れた石畳を蔓草が横切っていた。長く水の止まっている噴水には鳥が集まり、積もった枯れ葉の中で、何かを探すように嘴を動かしている。  風が吹いた。  青い髪が額から持ち上がる。  土と草、それから微かな花の匂いがした。  部屋へ届いていたものより、ずっと濃い匂いだった。  空は高い。  窓枠に切り取られていない空が、頭上から地平まで続いている。  王子はヨシュアの腕の中で、息をすることも忘れて見つめた。 「眩しいですか?」  尋ねられ、目を細める。 「少し」 「戻りましょうか」 「いいえ」  答えはすぐに出た。 「もう少し、見たいです」 「はい」  ヨシュアは足を止めた。  急かすことなく、王子が飽きるまで同じ場所に立っている。  風が白い髪を揺らしていた。  光を受けた銀の髪は、輪郭がぼやけるほど明るい。王子を抱く白い衣装も、朝日の中では淡く輝いて見えた。 「ヨシュア」 「何でしょう?」 「下ろしてください」 「歩けそうですか?」  王子は地面を見た。  玄関の前には、三段の石段がある。  それほど高くはない。  けれど、この先へ足を置けば、本当に外へ出たことになる。 「わかりません」 「では、試してみましょう」  ヨシュアはゆっくり腰を屈めた。  革靴の底が、一番下の石段へ触れる。  王子はヨシュアの肩へ手を置いたまま、もう片方の足も下ろした。  両足で立つ。  膝に力が入らなかった。  身体が揺れ、ヨシュアの胸元へ倒れかかる。  すぐに腰を支えられた。 「大丈夫ですか?」 「はい」 「急がなくてよいのですよ」 「歩けます」 「ええ」  ヨシュアは手を離さなかった。 「もちろんです」  王子は一歩を踏み出した。  革靴の下で、細かな砂が音を立てる。  もう一歩。  外套の裾が風に揺れる。  背後には、開いたままの大扉がある。  振り返れば、すぐに戻れる。  そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。 「青い花は、どこですか」 「こちらですよ」  ヨシュアが手を差し出した。  王子はその手を取る。  二人は並んで庭へ向かった。      *  庭へ続く石畳は、雑草に半分ほど覆われていた。  王子は草を踏まないように、残っている石の上を選んで歩いた。 「踏んでも大丈夫ですよ」 「枯れます」 「草は、そう簡単には枯れません」 「でも、痛いかもしれない」  ヨシュアは足元を見た。  それから、王子の顔を見る。 「テオは、優しいですね」  王子は返事をしなかった。  優しいと言われる資格があるのかわからなかった。  人を殺した者を、優しいとは呼ばないだろう。  ヨシュアの言葉は、ときどき間違っている。  けれど、間違いだと告げるのは惜しい気がした。  石畳の先に、青い花が見えた。  窓辺の鉢に咲いたものと同じ、小さな星の形をした花だった。 「あれです」  王子は、繋いでいた手を離した。  気づけば、自分から前へ進んでいた。  石畳を外れ、草の間へ足を置く。  革靴の下で柔らかな葉が沈んだ。  花の前へしゃがみ込む。  指先で、そっと花びらに触れた。  窓辺のものより冷たい。  朝露が指についた。 「本当に、咲いています」 「ええ」 「僕が見ていないときも?」 「もちろんです」 「夜も?」 「夜には花を閉じます。朝になると、また開きますよ」  王子は花を見つめた。  誰にも見られなくても咲く。  誰も世話をしなくても。  荒れ果てた庭の片隅で、朝が来るたびに花を開く。 「強いですね」 「そうですね」  ヨシュアは王子の隣へ屈んだ。 「摘みますか?」 「いいえ」 「お部屋へ持って帰れますよ」 「ここに咲いているほうがいいです」 「では、そうしましょう」  ヨシュアは、花へ触れなかった。  王子が残すと決めたものを、そのままにしておいた。  朝日が、青い花を照らしている。  鳥の声がする。  王子は目を閉じ、風を吸い込んだ。  胸の奥まで、冷たい空気が入ってくる。 「寒いですか?」 「少し」 「外套を厚くしましょうか」 「このままで大丈夫です」 「無理をしてはいけませんよ」 「無理ではありません」  王子は目を開けた。 「外は、寒いものなのでしょう?」 「季節によりますね」 「なら、この寒さも外の一部です」  ヨシュアが笑った。 「なるほど」 「変ですか?」 「いいえ。テオの言うとおりです」  王子は青い花から手を離した。  立ち上がろうとすると、ヨシュアが腕を差し出す。  その腕を借りて、ゆっくりと立った。

ともだちにシェアしよう!