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第16話 魔法使いの城

 庭へ出た日から、王子の世界は少しずつ広がっていった。  最初は、部屋と庭だけだった。  朝になるとヨシュアがカーテンを開け、王子を起こす。二人で朝食をとり、天気がよければ庭へ出る。  青い花を探し、空を泳ぐ魚を追いかけ、生垣の動物たちとかくれんぼをする。  王子の足は、日に日に速くなった。  初めの頃は庭を半周しただけで息を切らし、帰りにはヨシュアの背を借りていた。それが一周になり、二周になった。  ある日、銀色の魚を追いかけて噴水を回り込むと、魚は急に向きを変えた。  王子の鼻先を掠め、ヨシュアのほうへ飛んでいく。 「ヨシュア、そっちへ行った!」  王子は走りながら叫んだ。  ヨシュアが目を見開いた。  ほんの一瞬、捕まえるべき魚のことを忘れたように、王子を見つめる。 「早く!」 「はい!」  ヨシュアは両腕を広げた。  銀色の魚がその間をすり抜ける。 「あっ」 「何をしているんだ!」 「申し訳ありません。見惚れてしまいました」 「魚に?」 「いいえ」  ヨシュアは嬉しそうに笑った。  それ以上は何も言わず、魚を追って走り出す。  王子もその背中を追った。  自分の言葉から丁寧さが消えていたことには、気づかなかった。      *  庭を歩けるようになると、次は城の中だった。 「探検をしましょう」  ヨシュアは、いつものように突然言った。 「この城は、もう知っています」 「本当に?」 「八年も住んでいますから」 「では、東の塔の最上階に何があるか、ご存じですか?」  王子は黙った。  離宮へ移された日から、ほとんど自室を出なかった。  厨房へ行ったことも、浴室以外の一階を歩いたことも、ヨシュアが来るまでは一度もない。  城に八年住んでいたのではない。  一つの部屋に、八年閉じ込められていただけだった。 「東の塔には、何があるのですか」 「それを確かめるのが、探検というものですよ」  ヨシュアは王子へ外套を着せた。 「城の中なのに?」 「探検家には外套が必要です」 「どうして」 「格好がよいからです」  深い青の外套には、以前より多くの星が刺繍されていた。  王子の背が少し伸びたため、仕立て直されている。  腰には小さな鞄を提げた。中には水筒と、林檎を挟んだパン、それから方位磁針が入っていた。 「城の中で迷うのですか」 「迷うかもしれません」 「ヨシュアがいるのに?」 「私が先に迷うかもしれませんよ」 「王宮魔導士なのに?」 「方向感覚と魔法は関係ありません」  ヨシュアも白い外套を羽織った。  王子のものと同じ星が、裾へ縫い取られている。  二人は並んで部屋を出た。  廊下には誰もいなかった。  王子が歩く時間には、使用人を近づけない決まりができているらしい。  以前は、そのほうが安心した。  今は、少し静かすぎると思うことがある。 「皆は、どこにいるのですか」 「お仕事中ですよ」 「見かけないけど」 「テオを怖がらせないよう、離れていただいているのです」 「もう、そんなに怖くない」 「そうですか?」 「ヨシュアがいるから」  ヨシュアは足を止めた。 「どうしたの?」 「いいえ」  金色の瞳が柔らかく細められる。 「とても嬉しいことを言っていただいたので」  王子は先へ歩いた。  何をそれほど喜ばれたのかわからない。  けれど、ヨシュアがついてくる足音を聞いていると、口元が緩んだ。      *  東の塔の最上階には、空があった。  扉を開けた先に、床がない。  壁も、天井もなかった。  星空だけが、どこまでも広がっている。  王子は入口で足を止めた。  あと一歩進めば、暗い空へ落ちるように見える。 「ヨシュア」 「大丈夫ですよ」 「床がない」 「あります」 「見えない」 「見えないだけです」  ヨシュアは先に足を踏み出した。  白い靴が、星空の上へ着く。  波紋が広がった。  夜空が水面のように揺れ、無数の星が足元から舞い上がる。 「ほら」  ヨシュアが手を差し出した。  王子は、その手を取った。  恐る恐る足を下ろす。  たしかに、何かがある。  透明な床。  歩くたび、星が足元からこぼれた。 「夜まで待たなくても、星を見られます」  ヨシュアは両手を広げた。 「ここは、テオの星空です」 「作ったの?」 「少しだけ、空を借りました」  ヨシュアが指を鳴らす。  遠くに星が集まり、大きな熊の形になった。  片方の目だけが青く輝いている。  王子は息を呑んだ。 「熊です」 「ええ」 「僕の?」 「世界に一匹しかいない熊ですから」  星の熊が歩き出した。  四本の足で夜空を踏み、王子の前へ来る。  鼻先を差し出した。  触れると、星が指の間で明滅する。  温かかった。 「名前をつけますか?」  ヨシュアが尋ねた。 「この子は、熊です」 「それが名前ですか?」 「ずっと、そう呼んでいました」 「では、熊ですね」  ヨシュアは星の獣へ頭を下げた。 「初めまして、熊」  王子は笑った。 「変な挨拶」 「名前をいただいたのですから、必要でしょう?」  星の熊が背を低くした。  乗れと言っているらしい。  王子はヨシュアに支えられ、その背へ跨った。 「ヨシュアも」 「私は歩きますよ」 「一緒に乗れる」 「では、失礼して」  ヨシュアが後ろへ乗る。  白い腕が、王子の身体を支えるように回った。  星の熊は夜空を駆け出した。  二人を乗せ、星座の間を走る。  流星の群れを追い越し、月の輪をくぐり抜けた。  王子は何度も笑った。  声を上げるたび、背後のヨシュアも笑った。  その日から、東の塔は二人の星空になった。

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