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第24話 絵本

 二人は樹の根元へ戻った。  王子が絵本を開く。  最初の頁には、一人の魔法使いが描かれていた。  黒い外套。  顔は塗り潰されている。  周囲には、糸で吊られた人々。 『むかしむかし、あるところに、とても悪い魔法使いがいました』  王子は声に出して読んだ。 『魔法使いは、誰よりも強い力を持っていました。火も、水も、風も、空も、魔法使いの言うことを聞きました』  頁をめくる。  悪い魔法使いが指を振っている。  町の人々は、全員同じ笑顔で踊っていた。 『けれど、悪い魔法使いは、それだけでは満足しませんでした』 『人々の身体を動かし、心を変え、国中の者を自分の人形にしてしまったのです』  王子の指が止まった。  城の使用人たちを思い出した。  同じ笑顔。  同じ声。  同じ歩幅。 「どうしました?」  ヨシュアが尋ねる。 「何でもない」  頁をめくった。 『悪い魔法使いは、人々が苦しんでいることに気づきませんでした』 『皆が笑っているので、幸せなのだと思っていたのです』  王子は隣を見た。  ヨシュアは絵本を見つめている。  いつもと変わらない穏やかな表情だった。 「似てるね」  王子が言う。 「何がですか?」 「ヨシュアの魔法に」 「そうでしょうか」 「人を笑わせるところ」 「あの方々は、テオを悲しませましたから」 「うん」 「私は、テオに笑ってほしかっただけです」 「わかってる」  王子はヨシュアの肩へ寄りかかった。  白い髪が頬へ触れる。 「ヨシュアは、悪い魔法使いじゃないよ」 「どうして、そう思うのですか?」 「僕を助けてくれたから」  ヨシュアは答えなかった。  王子の頭へ頬を寄せる。 「続きを読みましょうか」 「うん」  今度は、ヨシュアが絵本を受け取った。  朗読する声が、静かな図書室へ響く。 『その国には、よい魔法使いも住んでいました』  頁の中に、白い衣を着た魔法使いが現れる。  胸元には鈴の形をした飾り。 『よい魔法使いは、悪い魔法使いへ言いました』 『人の心は、その人だけのものです。あなたが勝手に変えてはいけません』 『けれど、悪い魔法使いには、その言葉の意味がわかりませんでした』  黒い魔法使いは首を傾げている。 『皆が笑っているのに、何が悪いのですか』 『皆が私を好きなら、誰も悲しまないでしょう』 『よい魔法使いは、悪い魔法使いと戦いました』  頁いっぱいに、光が描かれている。  白と黒。  星。  炎。  割れた城。  倒れる人々。 『戦いは七日と七晩続きました』 『最後に、よい魔法使いは自分の命を削り、悪い魔法使いを石の中へ封じました』  次の頁には、大きな石碑が描かれていた。  上から、小さな銀の鈴がぶら下がっている。  王子の身体が強張った。 「これ」 「どうしました?」 「知ってる」  鈴。  石碑。  あの日、城の奥で見つけたものと同じだった。  か細い音に呼ばれ、幼い手を伸ばした。  触れた瞬間、世界が暗くなった。  黒いもやが飛び出した。  母が倒れた。 「テオ」  ヨシュアの腕が肩へ回る。 「読むのをやめますか?」  王子は頁を見つめた。  石碑の絵。  封じられた悪い魔法使い。 「母上を殺した魔法使いの話かな」 「似ていますね」 「同じ鈴だ」 「昔の出来事をもとにした絵本なのかもしれません」  王子は自分の胸元を掴んだ。  布の下で心臓が速く打っている。 「やめましょう」  ヨシュアが本を閉じようとする。  王子はその手を押さえた。 「最後まで読む」 「無理をしなくても」 「知りたい」  ヨシュアはしばらく黙っていた。  やがて、閉じかけた絵本を開く。 『よい魔法使いは、鈴へ最後の魔法をかけました』 『心の清らかな者には、この音が聞こえるでしょう』 『けれど、決して鈴に触れてはいけません』 『悪い魔法使いが、再び世界へ戻ってきてしまうからです』  王子は唇を噛んだ。  心の清らかな者。  自分には、音が聞こえた。  それでも鈴へ触れた。  悪い魔法使いを解き放った。 「僕は、清らかだったのかな」 「もちろんです」 「でも、封印を解いた」 「子供だったのでしょう?」 「六歳だった」 「ならば、悪いのは子供の手が届く場所へ鈴を置いた方です」  ヨシュアは当然のように言った。 「テオは何も悪くありません」 「母上は死んだ」 「あなたが殺したのではありません」 「それでも」  王子は目を閉じた。  ヨシュアの肩へ、さらに身体を預ける。  白い腕が背中を抱く。  ゆっくりと撫でられた。 「僕が鈴に触れなければ、ヨシュアにも会わなかった」 「そうですね」 「それは、嫌だ」  自分でも、ひどいことを言っていると思った。  母が生きている過去と。  ヨシュアに会えた現在。  どちらかを選べと言われても、もう答えられない。 「ごめんなさい、母上」  小さく呟く。  ヨシュアは何も言わなかった。  ただ背中を撫で続けていた。  やがて呼吸が落ち着く。 「最後を、読んで」  王子が頼む。  ヨシュアは絵本へ目を戻した。 『こうして、悪い魔法使いは永遠に封じられました』 『人々は自分の心を取り戻し、国には笑顔が戻りました』 『本当の笑顔です』 『よい魔法使いの子供たちは、鈴を守り続けました』 『悪い魔法使いが、二度と目を覚まさないように』  最後の挿絵には、明るい町が描かれていた。  人々は、それぞれ違う顔で笑っている。  泣いている者も。  怒っている者も。  誰かと手を繋ぐ者もいた。  絵本の悪い魔法使いは、どこにもいない。 「終わり?」  王子が尋ねる。 「そのようですね」 「よい魔法使いは、死んだの?」 「命を削ったとありますから」 「悪い魔法使いは、ずっと一人で石の中に?」 「ええ」 「永遠に?」 「きっと」  王子は最後の頁を見つめた。 「少し、かわいそうだね」 「悪い魔法使いが?」 「うん」 「大勢を人形にしたのですよ」 「それでも、永遠は長すぎる」  ヨシュアの肩から顔を上げる。 「ヨシュアが言ってた。百年も千年も、よくわからないって。でも、ずっと一人だったら、きっと長いよ」  ヨシュアは王子を見た。 「テオなら、どうしますか?」 「何を?」 「悪い魔法使いを見つけたら」  金色の瞳が、近くにある。  試すような色はなかった。  ただ、答えを待っている。 「鈴には触らない」  王子は言った。 「母上のことがあるから」 「そうですね」 「でも」  絵本の最後の頁へ触れる。  人々が笑う町。  誰にも見えない、石の中の魔法使い。 「話くらいは、聞くかもしれない」 「どうして?」 「本当に悪い魔法使いなのか、本人に聞かないとわからないから」  ヨシュアは目を細めた。 「お優しいですね」 「ヨシュアが、そうしたから」 「私が?」 「皆が悪魔の子だと言っても、ヨシュアだけは僕に会いに来た」  王子は再び、白い肩へ寄りかかった。 「だから僕も、そうするかもしれない」 「そうですか」  ヨシュアの声は、ひどく静かだった。  紙の葉が囁く。  古い図書室に、二人しかいない。  王子は少し眠くなっていた。  朝から歩き続け、何冊もの本を読んだ。  それに、絵本のせいで昔のことを思い出しすぎた。 「眠ってもいい?」 「どうぞ」 「帰らないで」 「どこにも行きませんよ」  ヨシュアの膝へ頭を預ける。  白い指が青い髪を撫でた。 「おやすみ、ヨシュア」 「おやすみなさい、テオ」  王子は目を閉じた。  すぐに寝息が聞こえ始める。  ヨシュアはしばらく、その顔を見つめていた。  やがて片手で絵本を持ち上げる。  王子が最後だと思った頁を、静かにめくった。  厚い紙が、音を立てた。  物語は、まだ終わっていなかった。

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