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第27話 忘れられた名前

 頁を開く。 『悪い魔法使いは、守護者を殺しました』 『そして、遠くへ逃げました』 『身体を持たない悪い魔法使いは、考えました』 『王子様に、会いに行かなくては』 『自分を救ってくれた王子様に』 「僕は、ヨシュアを救ったつもりなんてない」 「わかっています」 「わかってない」 「今は、わかっていますよ」  ヨシュアの声が柔らかくなる。 「けれど、あの頃の私には、それ以外の物語が思いつかなかったのです」  黒いもやが、森を漂う挿絵。  人の姿を真似ようとして、何度も崩れている。 『悪い魔法使いは、王子様に怖がられない姿を考えました』 『白い髪』 『金色の瞳』 『明るい笑顔』 『優しい声』 『王子様が好きになってくれそうなものを、一つずつ選びました』  王子はヨシュアを見た。 「この姿は」 「あなたのために作りました」 「僕に会ったこともないのに?」 「遠くから、少しだけ見ていました」 「いつから」 「あなたが六歳の頃から」  王子は息を止めた。 「見ていた?」 「いつもではありませんよ」 「離宮に送られたことも?」 「知っています」 「食事をもらえなかったことも。部屋が寒かったことも?」 「あとで知りました」 「あとで?」 「身体を作ることに夢中で、細かなところまで見ていなかったのです」  ヨシュアは困ったように眉を下げた。 「私にとっては、ほんの少しの準備期間でしたから」 「八年だ」 「ええ」 「僕は八年、あの部屋にいた」 「人の八年がそれほど長いものだと、当時は知りませんでした」  ヨシュアの目に、初めて痛みに似たものが浮かんだ。 「そのことは、後悔しています」  母を殺したことではなく。  王子を待たせたことだけを。 『悪い魔法使いは、王様のところへ行きました』 「身体ができたあと、父上に会ったの?」 「はい」  王都の城。  玉座へ座る王。  その前に立つ、白い魔法使い。 『自分と王子様の暮らしを、邪魔しないでください』 『悪い魔法使いは、丁寧にお願いしました』 「お願い?」 「ええ」 「父上が、素直に聞いたの?」 「最初は、難しいと仰いました」  絵の中で、王が剣を抜いている。  次の頁では、玉座の間の兵士たちが全員倒れていた。  王だけが玉座に縫いつけられ、白い魔法使いが頬へ手を添えている。 『悪い魔法使いは、王様と長いお話をしました』 『王子様へ近づかないこと』 『二人の暮らしを邪魔しないこと』 『離宮で起きることへ、二度と口を出さないこと』 『王様は、すべて約束しました』 「父上は、僕を捨てたんじゃないの?」 「離宮へ送ったのは、陛下です」 「そのあとは」 「私が近づかないようお願いしました」 「脅したんだろ」 「テオを守るためです」 「父上から?」 「あなたを八年も放置した方です」 「それでも!」  王子は言葉に詰まった。  それでも父だ。  そう続けてよいのかわからない。  父は王子を救わなかった。  八年間、一度も会いに来なかった。  ヨシュアに脅されるより前から。 「父上は、僕の名前を覚えていた?」  ヨシュアの指が、頁を止めた。 「覚えていましたよ」  静かな返事だった。 「あなたのお兄様方も。昔の乳母も。王都には、覚えている方が何人もいました」 「では、どうして」 「私がいただきました」  王子はヨシュアを見つめた。 「何を」 「あなたのお名前を」  絵本の頁に、王家の系譜が描かれている。  第一王子。  第二王子。  その下に、第三王子。  名前の部分だけが白く抜け落ちていた。 『悪い魔法使いは、王子様のお名前を、自分だけの宝物にしました』 『王様から』 『兄たちから』 『城の者たちから』 『本や手紙からも』 『名前を知る権利を、すべて奪いました』  王子の耳に、初めて名前を呼ばれた日の声が蘇る。 『やっとお会いできましたね、テオ』  扉の向こう。  八年ぶりに聞いた名前。  あれだけで、ヨシュアを信じた。  自分を悪魔の子ではなく、人間として呼んでくれる、ただ一人の人だと思った。 「どうして」 「誰にも呼ばせたくなかったからです」  ヨシュアは笑っていた。  悪意のない、穏やかな笑みだった。 「あなたを傷つけた者たちが、その名前を口にするなんて、許せませんでした」 「母上がつけてくれた名前だ」 「ええ。とても美しい名前です」 「ヨシュアのものじゃない」 「あなたのものです」 「なら」 「そして、その名を呼ぶのは私です」  王子は後ろへ下がった。  最初の夜。  暖炉。  埃の鼠。  柔らかな食事。  洗われた髪。  白い兎。  名前を呼ばれながら眠った日々。  すべてが変わっていく。  救われたと思っていた。  取り戻したと思っていた。  けれど、自分の名前を世界から最後に奪ったのは。 「僕を、悪魔の子にしたのは」

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