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第28話 あなたが私の王子様

 声が震える。 「人々があなたをそう呼び始めたのは、私が来る前です」 「でも、ほかの呼び方を消した」  ヨシュアは黙った。 「父上も、兄上たちも、もう僕を名前で呼べない」 「はい」 「世界中で、ヨシュアしか」 「はい」 「僕自身は、覚えてる」 「あなたは名前を知る他人ではありませんから」  以前、想像したとおりの理屈だった。  ヨシュアにとって、王子本人は数に入っていない。 「あなたはテオです」  金色の瞳が細められる。 「そして、私はあなたをテオと呼ぶ者です」  その言葉は、四年前と同じだった。  四年前には救いだった。  今は、首へ巻かれた鎖のように聞こえた。 「使用人たちも?」  王子は尋ねた。 「最初は、笑顔だけだったよね」 「ええ」 「今は、どうなってる」 「テオを怖がらないようにしました」 「答えて」  ヨシュアは少し考えた。 「身体の動きも。言葉も。感情も。私が整えています」 「本人たちの意思は?」 「必要ありません」 「戻せる?」 「戻してほしいですか?」 「戻せるのかと聞いてる」  ヨシュアは微笑んだ。 「完全には、難しいかもしれません」  息が止まった。 「どうして」 「長く使わないものは、形を失いますから」  石の中で身体も顔も失ったヨシュアが言う。 「彼らは、もう自分で考えることを忘れています」 「ヨシュアが忘れさせたんだ」 「はい」 「僕が、笑ったから?」 「あの方々を使うと、テオが笑ってくださったので」 「だから、続けたの?」 「ええ」  王子は顔を覆った。  庭師の踊り。  劇場。  姫を助ける王子。  同じ台詞。  同じ笑顔。  二度目も、三度目も、疲れずに演じ続ける人々。  自分は拍手した。  面白いと言った。  もう一度見たいと頼んだ。 「私がしたことです」  ヨシュアが言う。 「テオが苦しむ必要はありません」 「でも、僕のためにしたんだろ」 「はい」 「僕も笑った」 「ええ」 「止めなかった」 「止める必要などありませんでした」  ヨシュアは立ち上がった。  一歩近づく。  王子は魔法を構えた。 「来ないで」  ヨシュアは止まった。  頬の傷から流れた血が、顎へ届いている。  治そうとしない。 「僕の心に、魔法は使ってない?」 「使っていません」 「本当に?」 「約束しましたから」 「名前を奪った」 「心ではありません」 「父上を脅した」 「あなたではありません」 「僕の周りから、全部なくした」 「あなたを傷つけるものだけです」 「その結果、僕にはヨシュアしかいない」  ヨシュアは答えなかった。  金色の瞳が、嬉しそうに揺れた。  それを見て、王子は理解した。 「最初から、そのつもりだったの」 「いいえ」  ヨシュアは首を振った。 「最初から考えていたわけではありません」  絵本を胸へ抱く。 「ただ、あなたに嫌われそうなものを一つずつ取り除きました」 「人も?」 「ええ」 「外の世界も?」 「必要ですか?」 「質問に答えて」  ヨシュアは、優しく微笑んだ。 「あなたが望まないと思ったものは、すべて」 「僕が望んでいるか、聞かなかった」 「聞けば、我慢なさったでしょう?」 「当たり前だ」 「あなたはお優しいですから」 「勝手に決めるな!」  魔法が図書室を揺らした。  本棚が軋み、紙の葉が嵐のように舞う。  ヨシュアの白い髪も、衣服も、風に激しくなびいた。  それでも彼は笑っていた。  王子を初めて見つけた日と同じように。  底抜けに明るい、優しい笑顔で。 「どうして笑っていられるんだ」 「嬉しいからです」 「何が」 「あなたが、私に怒ってくださることが」  ヨシュアの声が震えた。 「怖がって黙るのではなく、言葉をぶつけてくださる。魔法まで向けてくださる」  胸元から、押し花を取り出す。  王子が作った、白い花。  乾いた花びら。  金色の芯。 「四年前のあなたには、できなかったことでしょう?」  王子は何も言えなかった。 「立派になられましたね、テオ」 「その名前で」  声が詰まる。 「僕を呼ぶな」  ヨシュアの笑顔が、初めて崩れた。  ほんの少し。  泣き出しそうな顔に見えた。 「……それだけは」  ヨシュアは押し花を握った。 「それだけは、どうか許してください」 「僕の名前だ」 「はい」 「ヨシュアのものじゃない」 「ええ」 「なら、呼ぶな」  長い沈黙が落ちた。  紙の葉が、床へ降り積もる。  ヨシュアは俯いた。 「承知しました」  小さな声だった。  王子は踵を返した。  図書室の出口へ向かう。  足が震えている。  逃げなければならないのか。  どこへ。  城の外へ。  父のもとへ。  けれど父は、もう名前を覚えていない。  使用人たちは自分の意思を失っている。  外の世界が、今どうなっているのかも知らない。  四年間、城の外へ出ようと考えたことすらなかった。 「お待ちください」  ヨシュアの声が追ってくる。  王子は振り返らなかった。 「来るな」  足音は止まった。 「一つだけ」  ヨシュアが言う。  声から、演じていた明るさが消えていた。 「これだけは、知っていてください」  王子は鉄扉の前で立ち止まった。 「私は、あなたの人格を愛していたわけではありません」  胸を掴まれたような痛みが走る。 「私は、石の中から救い出してくださった王子様を愛しました」  ヨシュアの声は、静かだった。  絵本を読む声。  長い物語の結末を告げる声。 「あなたが何を好むのか。何を嫌うのか。どんな顔で笑うのか。最初は、何も知りませんでした」 「もういい」 「それでも、あなたに会いたかった」 「聞きたくない」 「だって、あなたが私を解放したんです」  王子は振り返った。  ヨシュアは図書室の中央に立っていた。  白い髪。  金色の瞳。  王子に愛されるために作った姿。  胸元には、枯れた花。  頬には、王子の魔法でついた傷。  その両方を、同じように大切そうに抱えている。 「あなたが鈴を鳴らした」  ヨシュアは微笑んだ。 「あなたが石の中から、私を見つけてくださった」  目に涙が浮かんでいた。 「だから、あなたが私の王子様なのです」  王子は扉を開けた。  暗い階段を上がる。  背後から、もう名前は呼ばれなかった。  そのことが、真実を知ったどの瞬間よりも苦しかった。

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