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第29話 迷子

 図書室を出たあと、王子は一度も振り返らなかった。  暗い階段を上る。  燭台の火が、一つずつ足元を照らす。  降りてきたときにはヨシュアと手を繋いでいた。笑い声が石壁へ反響し、どちらが先に図書室へ着くか競うように歩いた。  今は、一人だった。  自分の足音しか聞こえない。  海になった貯蔵庫へ出る。  色鮮やかな魚たちが近づいてきたが、王子が手を振ると、怯えたように散っていった。  歌う貝も、口を閉ざす。  ヨシュアが作った海。  ヨシュアが作った魚。  ヨシュアが作った歌。  城にあるものは、どれもヨシュアの魔法でできていた。  王子が望んだから。  あるいは、望むだろうとヨシュアが決めたから。  階段を上り、城の廊下へ出る。  そこには、使用人たちが並んでいた。  男も、女も。  若者も、老人も。  全員が同じ笑顔で立っている。 「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」  声が重なった。  王子は足を止めた。 「僕が来ることを知っていたの?」 「お待ちしておりました、殿下」 「誰に命じられた?」 「お待ちしておりました、殿下」  同じ答えだった。  手前にいた女の顔に、見覚えがある。  ヨシュアと初めて厨房へ行った日、王子の姿を見て洗濯物を落とした侍女だった。  あのときの顔には、恐怖があった。  今は何もない。 「僕のことが、怖い?」 「いいえ、殿下」 「嫌い?」 「いいえ、殿下」 「好きなの?」 「はい、殿下」  笑顔が変わらない。 「名前は?」  女は答えなかった。 「君の名前だよ」 「私は、殿下へお仕えする者でございます」 「それは名前じゃない」 「私は、殿下へお仕えする者でございます」  何度尋ねても、同じだった。  女自身が忘れたのか。  ヨシュアが奪ったのか。  もう、確かめる方法はない。 「行っていい」 「はい、殿下」  使用人たちは動かなかった。 「仕事へ戻って」 「はい、殿下」  誰も動かない。  王子は指先へ魔法を集めた。 「戻れ」  青い光が廊下へ広がる。  使用人たちが一斉に振り返った。  同じ歩幅で歩き出す。  それぞれ別の方向へ向かい、曲がり角の向こうへ消えた。  王子は、自分の手を見た。  人には魔法を使わない。  そう決めていた。  けれど今、自分も彼らを動かした。  ヨシュアと同じように。 「……ごめん」  謝る相手は、もうそこにいなかった。 ###  自室へ戻る。  扉を開けると、古い熊とアルバが寝台に並んでいた。  変わらない部屋。  暖炉には金色の火。  卓上には、誕生日のために用意された小さな冠。  壁には、四年間で集めたものが飾られている。  銀色の魚の鱗。  最初に浮かせた小石。  王子が描いた絵。  ヨシュアと揃いで作った髪飾り。  すべてに思い出があった。  どれも嘘ではない。  王子は寝台へ腰を下ろした。  古い熊を抱き上げる。  右目は黒い釦。  左目は、王子が縫いつけた青い石。  母からもらった、最後のもの。 「お母様」  声にすると、胸が痛んだ。  ヨシュアが殺した。  その事実は、何をしても変わらない。  たとえ封印へ戻される恐怖があったとしても。  人間の心を理解できなかったとしても。  母を殺したことが正しくなるわけではない。  王子は熊の腹へ顔を埋めた。  謝りたかった。  けれど、何を謝ればよいのかわからない。  鈴へ触れたこと。  ヨシュアを解放したこと。  母を殺した相手に救われたこと。  笑い合ったこと。  愛されたことを、嬉しいと思ってしまったこと。  真相を知った今も。  ヨシュアが名前を呼ばなかったことを、何より苦しいと感じていること。 「僕は、どうすればいい」  熊は答えなかった。  昔から、何も答えない。  それでも、王子が何を言っても笑顔を変えない使用人たちより、ずっと人間らしく見えた。  扉の向こうに、人の気配はない。  ヨシュアは追ってこなかった。  来るなと言ったから。  名前を呼ぶなと言ったから。  何でも望みどおりにすると約束した魔法使いは、こんなときまで約束を守っている。  それが腹立たしかった。 「ヨシュア」  呼んでみる。  返事はない。  いつもなら、どれほど遠くにいてもすぐに現れる。  王子はもう一度呼ぼうとした。  やめた。  今、自分から呼べば許したことになる気がした。  許せるはずがなかった。  熊を抱いたまま横になる。  アルバが隣へ倒れた。  目を閉じても、眠れない。  鈴の音がした。  ちりん。  八年のあいだ、夢の中で聞き続けた音。  これまでは母の死を告げる音だった。  今は違う。 『誰でもよい』 『誰か』 『どうか、ここに気づいて』  暗い石の中から、形も名前も失った何かが呼んでいる。  その願いを聞いたのが、たまたま自分だった。  特別だったからではない。  心が清らかだったからでもない。  ただ、音が届いた。  手を伸ばした。  それだけだった。  それだけのことを、ヨシュアは何百年、何千年もの孤独の結末にした。  自分のすべてを捧げる理由にした。 「勝手だ」  王子は呟いた。 「本当に、勝手だよ」  返事はない。  そのことが、また苦しかった。

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