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第31話 呼んで、触れて、抱きしめて

 王子の足は、城の敷地へと戻る。  ヨシュアの目が見開かれた。 「僕が戻ると思ってた?」 「いいえ」 「それでも、待ってたの」 「はい」 「いつまで?」 「いつまでも」  その言葉に嘘はない。  人間の八年を少しだと思う者だ。  この門の前で百年でも千年でも、王子の帰りを待っただろう。 「おかしいよ」 「存じています」 「ヨシュアが認めるんだ」 「テオに教えていただきましたから」  名前を呼ばれた。  王子は息を止めた。  ヨシュアも、自分が呼んだことに気づいた。  顔色が変わる。 「申し訳――」 「もう一度」  王子は言った。 「はい?」 「名前」  金色の瞳が大きく見開かれる。 「呼んで」 「……よろしいのですか」 「僕が頼んでる」  ヨシュアの唇が震えた。 「テオ」  胸の穴へ、声が落ちる。  四年前。  閉ざされた部屋の扉越しに聞いた名前。  あのときと同じ声。  けれど、もう意味は違っていた。 「もう一度」 「テオ」 「もっと」 「テオ……」  ヨシュアは名前を呼んだ。  何度も。  奪った名前を。  自分だけのものにした名前を。  それでも、王子が望む声で。 「テオ」  王子はヨシュアの胸元を掴んだ。  白い服を引き寄せる。  額が触れるほど近づいた。 「僕は、ヨシュアを許さない」 「はい」 「母上を殺したことも」 「はい」 「僕の名前を奪ったことも」 「はい」 「皆を壊したことも」 「はい」  ヨシュアは逃げなかった。 「でも、僕も笑った」 「あなたのせいではありません」 「僕が決める」  王子は強く言った。 「僕も笑った。見ないふりをした。ヨシュアが僕のためにしてくれたことだから、止めなかった」 「私がしたことです」 「それでも、僕は共犯だ」  使用人たちを戻せと頼めた。  城を出たいと言えた。  父に会いたいと。  外の世界を見たいと。  そのたび、ヨシュアは叶えたかもしれない。  けれど王子は望まなかった。  二人だけの庭が心地よかった。  誰にも悪魔の子と呼ばれない城が好きだった。 「僕には、ヨシュアしかいなかったから」  ヨシュアの顔が歪んだ。  喜びと、痛みが同時に浮かぶ。 「それは、私が――」 「最後まで聞いて」 「はい」 「ヨシュアしかいなかった。今も、たぶんそうだ」  名前を呼べる者。  好きな食べ物を知っている者。  眠れない夜に髪を撫でる者。  王子の笑顔だけを、自分の喜びにする者。  そして母を殺し、世界を奪い、人々を人形にした者。  すべてがヨシュアだった。  優しい部分だけを選ぶことはできない。  悪い魔法使いだけを切り離すこともできない。 「でも、これからは違う」  王子は胸元から手を離した。 「ヨシュアが僕を選ぶんじゃない」 「では」 「僕がヨシュアを選ぶ」  風が吹いた。  青い髪と白い髪が、同じ方向へ揺れる。 「ここに残る」  ヨシュアは動かなかった。  言葉を理解できていないように、王子を見つめている。 「僕が決めた」 「私と?」 「うん」 「ずっと?」 「人間のずっと、だけど」 「それでも」  ヨシュアの手が伸びる。  触れる直前で止まった。 「抱き締めても?」  王子は、その腕を自分から掴んだ。  身体へ巻きつける。 「今さら聞くの」 「嫌われたくありませんから」 「もう嫌いだよ」  ヨシュアの身体が強張った。 「でも、好きだ」  声にすると、ひどく歪んだ言葉だった。  嫌いで。  許せなくて。  それでも好きだった。  ヨシュアの腕に力が入る。  王子の身体が、痛いほど強く抱き締められた。 「苦しい」 「申し訳ありません」  腕が緩む。 「離せとは言ってない」 「では、どうすれば?」 「僕が苦しくないくらいに抱いて」  ヨシュアは少しずつ力を調整した。  王子は白い肩へ顔を埋めた。  花と香草の匂い。  初めて抱き上げられた日と同じ。 「ヨシュア」 「はい」 「僕のことを、まだ王子様だと思ってる?」 「はい」 「人を止める魔法を使った」 「存じています」 「皆が壊れてると気づいても、逃げなかった」 「はい」 「母上を殺した相手を、好きだと言った」  ヨシュアは黙っていた。 「絵本の王子様なら、そんなことはしない」 「そうですね」 「それでも?」 「それでも、あなたが私の王子様です」  王子はヨシュアから身体を離した。  金色の目を見つめる。 「僕が王子様だから、好きなの?」  四年前なら、ヨシュアは迷わず頷いただろう。  石の中から救ってくれた王子様。  それだけで十分だった。  けれど今、ヨシュアは答えなかった。

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