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第1話

朱鷺という男は、普通の社会人とはかけ離れた生き方をしていた。 日の出ている内は眠っているか煙草を片手に気ままに過ごし、街が闇夜に包まれると時折家から出て行って、数時間で帰って来る。 今日もまた、彼は夜中に出て行って夜中の内に帰って来た。 嘘の様に整ったその顔には、数滴の血がこびり付いている。 「……起きてたのか」 リビングに入って来た朱鷺は、ソファで手持ち無沙汰そうに座っている月緋に視線をやり、そう言う。 まぁ吸血鬼なら夜は起きてるか、と一人納得した様に視線を動かし、朱鷺は煙草を咥えて火をつけ、月緋の隣に腰を下ろした。 「……当たり前じゃん。朱鷺が帰ってくんの、ずっと待ってたんだから」 隣に腰掛けた朱鷺の重みとふわりと広がった紫煙の匂いに、胸の奥が小さく締め付けられる。 咥え煙草の横顔を見つめながら、視線は自然と頬にこびり付く小さな赤へと吸い寄せられていった。 鉄の匂い。 朱鷺が仕事を終えて帰ってきた証拠だ。 (……今日も、無事に帰ってきた) いつか自分もその手で消されるかもしれないという恐怖と、それ以上に溢れ出す愛おしさが混ざり合って、息が苦しくなる。 月緋はゆっくりと手を伸ばし、朱鷺の頬についた血に親指の腹でそっと触れた。 そのまま指先で血を拭い、唇に運んで舐めとる。 「……朱鷺の血じゃない。他人の匂いがして、なんか嫌」 不満げに眉をひそめ、そのまま朱鷺の首筋に額を預けるようにしてぎゅっと体にすがりついた。 伝わる体温と煙草の匂いに、ようやく安堵の吐息が漏れる。 「ねぇ、朱鷺……。俺を置いてどっか行かないでよ。……ずっと、俺の隣で煙草吸ってて」 殺し屋の鋭い気配を纏ったままの朱鷺に擦り寄り、縋るような目で見上げた。 「……お前、それどっかのおっさんの血だぞ。舐めるなよ」 ごく自然に拭った血を舐めた月緋を見て、朱鷺は若干引いたようにそう言う。 殺し屋ではあるが、衛生観念はしっかりあるらしい。 朱鷺はゆっくりと煙を吐き出し、ちらりと月緋に視線をやる。 距離感のおかしい奴だ、と思った。 当たり前のように触れて来て、当たり前のように血を舐める。 吸血鬼ってのは、皆こんなもんなのか? 「仕事なんだから仕方ないだろ。仕事がなきゃその煙草すら吸えないしな」 朱鷺はそう言って月緋から視線を外し、また煙草を咥えた。 「おっさんとかどうでもいいし……。朱鷺についてたのが嫌だっただけ」 ぶつぶつと文句を言いながら、月緋は朱鷺の首筋に頬を寄せた。 引かれてるのも、呆れられてるのも分かってる。 でも、こうやって朱鷺の体温を感じてないと、いつかこの綺麗な人がどこか遠くへ消えてしまいそうな気がして怖くなる。 煙草の煙が目の前をかすめて、甘いような苦いような香りが鼻腔をくすぐる。 煙草を咥え直した朱鷺の横顔は相変わらず現実味がないくらい整っていて、息が止まりそうになった。 「……仕事なのは分かってるよ。でも、帰ってきたら俺のことだけ見てればいいじゃん」 朱鷺が咥えている煙草を指先で軽く突っつくと、上目遣いで朱鷺を見つめた。 心臓がうるさいくらい脈打っている。 「煙草代くらい俺がどうにかするからさ……。俺の隣からいなくならないでよ、朱鷺」 朱鷺の服の裾を掴んで、甘えるように必死な体温を押し付けた。 ぶつぶつと重いことを言っている月緋の声を右から左に聞き流し、朱鷺は煙を吐き出した。 この吸血鬼を拾って、一ヶ月程が経っただろうか。 路地裏で死にかけてたこいつをたまたま見付け、連れて帰って手当をした。 吸血鬼ってのは便利な体をしている。 死にかけてた癖に、数日であっという間に傷一つ無くなった。 けれど、無くなったにも関わらず我が物顔でここに居座っている。 「煙草代くらいどうにかするって、どうやってどうにかするんだよ。無一文の癖に。バイトでもするか?」 朱鷺はそう言って、揶揄うように小さく笑った。 「何笑ってんの……! 俺、朱鷺のためならなんだってできるし……っ」 自分の言葉が軽く流されていると分かっていても、朱鷺のその小さな笑みに心臓が跳ねてしまう。 悔しいのに、呆れたように笑うその顔があまりにも美しくて目が離せない。 バイトなんてしたこともないし、そもそも吸血鬼の俺が人間社会でどう働くのかなんて見当もつかない。 だけど、朱鷺に無一文とバカにされたままでいるのも、どこか遠い世界の存在みたいに割り切られているのも嫌だった。 「バイトでもなんでもする……。朱鷺が俺の隣でじっとしててくれるなら、なんだってする。……でも、俺が外で働いてる間に他の奴のところ行ったりしたら絶対に許さないから」 服の裾を握りしめる手にぎゅっと力を込める。 朱鷺から漂う冷たさと血の匂いは、俺に"この男は簡単に人を殺せる殺し屋だ"と、嫌でも思い出させた。 一歩間違えれば、その手が俺の首を容赦無く切り裂くかもしれない。 その恐怖が背筋を駆け上がる。 けれどそれ以上に、この男の瞳に自分が映っていることの快感が上回ってしまう。 月緋は首筋に預けていた額を少し離すと、朱鷺の煙草を咥えたままの唇に自分の唇を近づけた。 煙を直に吸い込むように息を潜め、赤く揺れる瞳でじっとその顔を見つめる。 「ねぇ朱鷺……。俺が稼いできた金で吸う煙草、美味しいか試してみたくない? だから……、試すまでは俺のこと殺さないで、ここに居させてよ……」 縋りつくような重苦しい熱を孕んだ視線を送りながら、月緋は朱鷺の膝の上に擦り寄るように体を寄せた。 「どんな金で買おうが、煙草は煙草だ。それ以上でも以下でもないだろ。つーか、近い。顔焦げるぞ」 朱鷺はそう言って月緋の顔を軽く押し退け、煙草の灰を灰皿に落とす。 不満気な顔をしている月緋にまたちらりと視線をやり、ゆっくりとソファの背もたれに背中を預けた。 勝手に居座る程図太い根性をしている割には、こちらの顔色を伺うようなことを言う。 変な奴だ、と朱鷺は思った。 「別に殺すとも出てけとも言ってないだろ。バイトがどうのも冗談だ。俺は金には困ってない。かと言って仕事を辞めるつもりもないがな」 わざわざ拾って手当をした奴を殺すなんて無駄にも程があるだろうと朱鷺は小さく鼻を鳴らし、また煙草を燻らせた。 押し退けられた額を両手で押さえながら、月緋は不満げに唇を尖らせた。 「朱鷺が手当してくれるなら、焦げても別にいいもん」 煙がゆらゆらと揺れるのを視線で追いながら、朱鷺の言葉を頭の中で反芻する。 金には困ってない。 仕事を辞めるつもりもない。 その淡々とした言葉に"追い出す気はない"という甘さが含まれているだけで、胸の奥が熱くなった。 朱鷺にとっては、ただ気まぐれに拾ったペットのようなものなのかもしれない。 でも俺にとって朱鷺は、世界の全てだ。 月緋は再び朱鷺の腰に腕を回してぴったりと体に抱きついた。 今度は突き放されないように、朱鷺の胸元にゆっくりと顔を埋める。 「……ねぇ朱鷺。仕事辞めないのはいいけど……帰ってきたらちゃんと、俺にご褒美ちょうだい」 朱鷺の規則正しい心音。 俺がこうして縋りつこうが、朱鷺の心音は少しもリズムを崩さない。 「俺、大人しく待ってたんだからさ……。朱鷺の匂い、もっと欲しい。……首噛ませてくれないなら……、代わりに、キスしてよ」 少しでも、崩したい。 挑発するようにそう言って、朱鷺の膝の上に置かれた無防備な手に指を絡めた。 朱鷺は煙草を灰皿に押し付け、怪訝な顔で月緋を見やった。 どこをどう飛躍させたらその発想になるのか。 思考回路が一切理解出来ない。 「嫌だけど」 朱鷺は短くそう言い、呆れたように小さくため息を吐いた。 「それより、明日買い出しに行くぞ。お前、自分の服とか何も無いだろ。出て行く気が無いなら買っておけ。金なら出してやる」 拾ってそのまま居着いているので、当たり前に月緋の私物はこの家に無い。 それ故に月緋はこの一ヶ月、当然のように朱鷺の服を着て生活していた。 別に着るのは構わないが、必要最低限しか服が無いので洗濯が間に合わない。 朱鷺は分かったか?と言うように月緋に視線をやり、新しい煙草を咥えた。 嫌だけど、と一蹴されたことに、一瞬だけ苦い感情が広がる。 しかし、直後に朱鷺の口から飛び出した言葉に、思考が完全にフリーズした。 「……買い出し? 俺の、服……?」 朱鷺が新しい煙草に火を付ける一連の動作を、俺は目を丸くしてじっと見つめた。 朱鷺の言った言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。 (俺の服が無いから買いに行く……? 金を出してやる……?) この一ヶ月、俺が着ていたのは全部朱鷺のクローゼットから勝手に引っ張り出してきた服だ。 朱鷺の匂いが染み付いた部屋着。 それに包まれているだけで朱鷺に所有されているように思えて心地良かった。 俺の勝手な解釈だとしても、満たされていた。 けれど今、朱鷺は俺のために服を買うと言っている。 それはつまり、これからも俺をここに置いておくつもりだって、朱鷺自ら認めたってことだ。 「……ふふ、あははっ……!」 狂気じみた笑いが、喉から漏れ出した。 首筋を噛ませてくれなくても、キスしてくれなくても、そんな冷たい拒絶なんて一瞬で吹き飛ぶくらいの歓喜が全身を駆け巡る。 本当に、朱鷺は俺を捨てる気なんてないんだ。 月緋は朱鷺の胸元に埋めていた顔を上げると、今度は逃がさないと言わんばかりに、朱鷺の膝の上に乗り上げる形で抱きついた。 「分かった、分かったよ朱鷺……! 行く、絶対、一緒に行く……!」 朱鷺の首に、閉じ込めるように腕を回す。 興奮で揺れる赤い瞳が、朱鷺の金色の瞳を至近距離で捉えて離さない。 「朱鷺が全部選んで。朱鷺が俺に着せたい服、全部。……でも、朱鷺の服着てるのも好きなんだけどな。朱鷺の匂いがしてさ……」 月緋は態とらしく朱鷺の耳元に唇を近づけ、吐息をかけるように囁いた。 「朱鷺が、俺のことをここに繋ぎ止めてるって思っていいんだよね? 朱鷺が俺を飼うって決めたんだよね? ……俺がもし逃げようとしても、その時は、朱鷺の手で俺を殺してくれる?」 恐怖と陶酔が混ざり合い、視界がゆらゆらと溺れているように揺れる。 その隠し切れない熱を帯びた視線で、月緋は朱鷺の横顔を見つめ続けた。 「……」 またしても話が飛躍している。 出て行く気が無いなら服くらい自分のを買えと言っただけなのに、何故飼うだの殺すだのという話になるのか。 こいつ、俺のことを何だと思ってるんだ? 奴隷商人か何かだと勘違いしてないか? 「……まぁ何でもいいが、とにかく今日はもう大人しく寝ろ」 考えることが面倒になったのか、朱鷺は適当にそう言って煙を吐き出す。 そして、とっととベッドに行け、とでも言うように月緋に呆れたような視線を向けた。 「……もう。すぐそうやって流すんだからさ」 完全に面倒くさいという顔をして煙を吐き出した朱鷺に、俺は不満げに声を漏らした。 けれど、回した腕を解く気なんてさらさら無い。 むしろ、朱鷺が俺のぶっ飛んだ問いかけを"何でもいい"と雑に片付けたことすら、都合の良い肯定に聞こえてしまう。 朱鷺は、否定しなかった。 殺すとも、飼わないとも、出て行けとも言わなかった。 それだけで、胸の中の黒くて重い感情は、満ち足りた熱で破裂しそうになる。 「寝ろって言われてもさ……、朱鷺が帰ってきたばっかりなのに、俺だけ一人で部屋に戻れるわけないじゃん」 膝の上に乗ったまま、月緋朱鷺の首筋に頬を寄せた。 煙の匂いと、朱鷺の少し低い体温。 仕事のひりついた気配が少しずつ薄れていくのを感じながら、俺は朱鷺の服の襟元を指先で弄る。 「ねぇ朱鷺。服を買っても、家で二人でいる時はこれからも朱鷺の服着ていい?」 少しだけ上目遣いになって、朱鷺の横顔を見つめる。 朱鷺の視線がどれだけ冷たくても、どれだけ呆れられていても構わない。 この綺麗な瞳に映っているのが、今この瞬間、俺だけであるという事実が震えるほど愛おしい。 「……朱鷺が寝るなら、俺も一緒に寝る。ベッドまでついて行く」 逃がさないように抱きつく腕に少しだけ力を込めて、月緋は朱鷺の耳元で満足げに小さく笑った。 「そろそろ行くぞ」 翌日の夕方頃、朱鷺は当たり前のように隣に張り付いている月緋にそう声をかけた。 煙草を灰皿に押し付け、ソファの前のローテーブルに適当に置かれていた財布を取りパーカーの腹ポケットにぶち込んで立ち上がる。 「この時間帯なら、お前も外に出れるだろ」 そう言って、ちらりと月緋に視線をやる。 吸血鬼の生態にまるで興味の無い朱鷺でも、日差しに弱いという一般的な吸血鬼論は知っていたらしい。 ゆっくりとリビングの窓に近付き、締め切られていたカーテンを少し開け日が出ていないことを確認すると、朱鷺はそのまま玄関へと歩き出した。 「……ん、待って。今行く、すぐ行くから……!」 ソファから立ち上がった朱鷺の動きに合わせて、弾かれたように跳ね起きた。 朱鷺が玄関へ向かう後ろ姿を、慌てて追いかける。 「待ってよ朱鷺、置いてかないで……!」 玄関で靴を履く朱鷺の背中に張り付いて、そのパーカーの裾を掴んだ。 朱鷺から漂ういつもの煙草の匂いと、夕暮れの冷たい空気。 今から朱鷺の時間を独り占め出来るかと思うと、狂おしい程の全能感が全身を駆け巡った。 「……ねぇ朱鷺。手を繋いで歩いていい? ……だめなら……、せめて服の裾、こうやって掴んでてもいい?」 朱鷺の横顔を見つめながら、掴んだ手を離す気がないことを主張するようにさらに指先に力を込めた。 朱鷺は月緋の行動に若干眉を寄せたが、振り払うことはしなかった。 しかし、手を繋ぎたいという月緋の言葉に応じることもなかった。 家を出てからというもの、朱鷺の人並外れた顔立ちと金糸の様な金髪は、嫌でも人目を引いた。 隣の月緋も正真正銘人並み外れた美しい顔立ちをしているので、兎にも角にも周りからの視線が鬱陶しい。 声を掛けられても一切合切全てを無視し、これだから外は嫌いだ、と朱鷺は面倒そうに舌打ちをした。 やっとの思いで適当な服屋に辿り着く。 さっさと店内に入り込むと、朱鷺はどこか真剣な表情で服を物色した。 自分の服は正直どうでもいい。どうせ血で汚れるからだ。血が目立たず動きやすければ何でもいい。 けれど、月緋の服は違う。 こいつは別に仕事で汚れもしなければ派手に動くこともない。 それならば、折角元が良いのだしそれなりの服を着せてやった方がいいだろうと朱鷺は考えた。 隣で朱鷺が小さく舌打ちをするたび、歪んだ歓喜で満たされた。 街を歩けば、誰もが朱鷺の浮世離れした美貌に目を奪われる。 道行く人間共が羨望や好奇の視線を向けてくるのがたまらなく不快で、朱鷺を誰の目にも触れさせたくないという醜い独占欲が渦巻く。 それと同時に、朱鷺がその有象無象の視線を全て無視し、俺の手を振り払わずに許してくれているという事実が、全能感を加速させていく。 (朱鷺はお前らなんか、端から視界に入ってねぇんだよ。塵屑共が) 心の中で周囲の人間を見下しながら、俺は朱鷺のパーカーの裾を離さないよう指先に力を込め続けた。 ショッピングモール内の一番目につく場所にあったセレクトショップ。 朱鷺はそこに迷いなく入り、並んだラックの前で足を止め、どこか真剣な表情で服を選び始めた。 朱鷺の服は、いつも適当で無頓着だ。 どうせ血で汚れるからと言って、こだわりなんてまるでなさそうに着ているのを俺は知っている。 それなのに、今こうして俺の服を選ぶ朱鷺の瞳には、はっきりとした熱が宿っていた。 朱鷺の細く長い指先が、いくつかのシャツやジャケットの生地を滑っていく。 (朱鷺が、俺に着せるものを本気で考えてくれてる……!) そう気付いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。 俺は朱鷺の腕にそっと自分の腕を絡め、擦り寄るように肩を預けた。 「ねぇ、朱鷺……。朱鷺が俺に着せたいやつなら、俺、なんでも着るよ……? 朱鷺が選んでくれた服しか着たくない。朱鷺の好みに合わせて、お人形みたいに飾ってくれてもいいよ……」 服に向けられたままのその瞳を覗き込む。 朱鷺が見せる、ほんのわずかな拘り。 それが俺に向けられているというだけで、俺はどこまでも狂っていられた。 「朱鷺が選んでくれた服を着たら……、もっと、朱鷺のものになれた気がするのかな。ねぇ朱鷺、これ着たら俺のこと、沢山褒めてくれる……?」 縋るような視線を注ぎながら、絡めた腕にそっと力を込めた。 服一つで大袈裟な奴だ、と朱鷺は月緋に呆れたような視線をやる。 こちらを見ている暇があるなら少しは自分で選ぶなりしたらどうだと朱鷺は思ったが、金を出すのはこちらなので遠慮くらいはするか、と納得したようにまた視線をラックに戻した。 良さげな服を上下共に片っ端から手に取り、朱鷺はレジへと山の様な量の服を持って行く。 朱鷺と月緋は似たような体格をしている。 こいつの服をそれなりに買っておけば、仕事で何かしら普通の服を着なければいけない場合に借りれるし、買っておいても損は無いだろうと朱鷺は考えた。 「お前、俺がいないと暇だとか文句言うだろ。暇つぶしになるもんでもついでに買ったらどうだ?家に入るもんなら何でもいいぞ」 支払いを終え大量の紙袋を腕にぶら下げながら店から出ると、朱鷺は余りにも大雑把過ぎることを言いながら、気怠げにショッピングモール内を歩いた。 相も変わらず周りからの視線が煩い。 更にヤニ切れになってきたのか、ポケットの中の煙草の箱を意味も無くカツカツと爪で叩いている。 完全に中毒者のそれだ。 しかし、月緋を置いて喫煙所に向かうことも、さっさと家に帰ると言うこともなかった。 「で、どうすんだ?」 朱鷺は隣を歩く月緋に視線をやり、短くそう言った。 大量のブランド紙袋を両手に下げた朱鷺の横で、俺は誇らしげに目を細めた。 朱鷺が手を汚して稼いだ金が、俺の身に纏うものに変わる。 なんて悍ましくて、なんて最高なのだろうか。 けれど、朱鷺の口から出た突拍子も無い大雑把すぎる提案に、俺は目を瞬かせた。 「暇つぶし……? え、家に入るやつなら、何買ってもいいの……?」 広大なショッピングモール内を、朱鷺の隣を陣取ったまま歩く。 周りの人間共の鬱陶しい視線は相変わらずだ。 「あの二人、モデルかなんか?」 「ヤバくない?」 という声が聞こえてくるたび、俺は朱鷺の腕をさらに強く抱きしめて、周囲を冷たく威嚇した。 ふと隣を見ると、朱鷺の少し疲弊したような横顔が目に入る。 パーカーの腹ポケットの中で、カツカツと爪で煙草の箱を叩く規則的な音。 ヤニ切れでイライラしている時の朱鷺の癖だ。 重度のヘビースモーカーな朱鷺にとって、煙草の吸えないこのショッピングモールは苦痛でしかないはずだ。 喫煙所に行けばいいのに。 さっさと、帰るぞって俺の首根っこを掴んで帰宅すればいいのに。 朱鷺は、どちらもしなかった。 イライラと箱を叩きながらも、俺の歩幅に合わせて、俺の暇つぶしのための買い物を優先しようとしてくれている。 (……なに、それ。ずるいよ……) 殺し屋のくせに、無自覚に優しい。 無意識の毒のような甘さが、俺の心臓をどこまでも深く締め付けて離さない。 俺は歩みを止め、朱鷺の手首をそっと掴んだ。 「暇つぶしの道具なんて、いらない」 きっぱりとそう言い、朱鷺の金色の瞳をじっと見つめた。 「俺の暇つぶしは、朱鷺が帰ってくるのを待つことと、朱鷺のこと考えてることだけだから。ゲームとか本とか、そんな余計な物があったら、朱鷺のことを考える時間が減っちゃうじゃん。そんなの絶対やだ」 朱鷺のポケットの中に手を忍び込ませ、無意味に箱を弄るその手に自分の手を重ねた。 「それに……朱鷺、煙草吸いたくてイライラしてるでしょ。俺に気を遣って喫煙所行かないの?」 にやりと笑ってみせると、俺は朱鷺の耳元にそっと唇を寄せた。 周りの視線なんて、もうどうでもいい。 朱鷺の意識が俺に向いているなら、ここがどこだろうが、俺には関係無い。 「帰ろ、朱鷺。お家帰って、煙草吸いなよ。……俺、朱鷺が煙草吸ってる横で、さっき買ってもらった服一枚ずつ朱鷺に見せながら着替えてあげる。だから、早く帰ろ?」 縋るように、誘惑するように。 朱鷺の返事も待たず、服の裾を引いた。 買い物を終えて家に辿り着く頃には、朱鷺は文字通りぐったりとしていた。 暇つぶしの道具は不要だと月緋が言ったのを、いや、それでも、なんて朱鷺が食い下がる筈も無く、言葉通りに受け取ってそのまま真っ直ぐ帰宅した。 しかし、苦手な人混みや終始注がれる周りからの視線、極め付けの圧倒的なヤニ不足。 殺し屋としては一流だが、朱鷺は普通の人間として過ごすには余りにも不向きだった。 朱鷺は荷物をリビングに雑に置くと、すぐさまソファに座り煙草を咥えて火をつける。 その途端に、眉間に刻まれていた皺が分かりやすく解けていく。 「……マジで死ぬかと思った」 朱鷺は煙を肺いっぱいに吸い込み、深呼吸をするかのようにゆっくりと吐き出した。 「お疲れ様、朱鷺……」 荷物をまとめた紙袋を床に置くと、俺は吸い寄せられるようにソファへと歩み寄った。 紫煙を吸い込み、ぐったりと脱力しながら煙を吐き出す朱鷺の横顔。 疲労とヤニ切れから解放されたその無防備な表情が、息を呑むほど美しくて胸が小さく締め付けられる。 (やっと帰って来れた。朱鷺と俺だけの場所に) 月緋は朱鷺の隣に腰を下ろすと、その膝の上に倒れ込むように身を預けた。 朱鷺の細い太ももに頭を乗せ、煙草を燻らせるその整った顔を見上げる。 「人混み、ほんとウザかったね……。あいつら、朱鷺のこと見すぎなんだよ。俺、ずっとイライラしてた。朱鷺のことどこかに隠したくて、仕方なかった……」 吐き出された煙を追いかけるように視線を動かし、うっとりと目を細める。 「でも、俺のために買いに行ってくれたんだよね……。ありがとう、朱鷺。……ねぇ、朱鷺の膝、すごく落ち着く。煙草吸い終わるまで、こうしてていいでしょ?」 さっきまでは俺だけを捉えてくれていた筈のその瞳が、今はまた煙草に向けられている。 それが無性に悔しくて、そっと手を伸ばし煙草を持っている朱鷺の手首に指先で触れた。 「ねぇ朱鷺……。煙草吸って少し落ち着いたら、俺が服着るの……ちゃんと見ててくれる?」 朱鷺の気怠げな体温を感じながら、月緋は甘えるように太ももに頬をすり寄せた。 月緋が買ってきた服を次から次へと着ていく様を、朱鷺は煙草を燻らせながら気怠げに眺めていた。 上質な仕立ての黒いシンプルなTシャツ、身体のラインを上品に拾うサマーニット、肌の白さを際立たせるシースルー素材を取り入れた余所行きのシャツ、その他諸々。 見立て通り、朱鷺の選んだ服はどれも月緋の派手な髪色と瞳、そして人間離れしたその容姿を良く引き立たせていた。 こちらの反応を伺うようにちらちらと視線を向けて来る月緋に視線を合わせ、いいじゃん、と朱鷺は短く言って、小さく笑った。 「……本当? 本当に似合ってる……!?」 朱鷺の口から出た"いいじゃん"という軽いひと言と、その唇に浮かんだ小さな笑み。 たったそれだけで、簡単に胸の奥が甘い熱で満たされていく。 着ていた上着の袖をぎゅっと握りしめたまま、朱鷺の隣にふらふらと舞い戻る。 煙草の煙がゆっくりと揺れる中、朱鷺の足元に膝をつき、縋りつくように見上げた。 「朱鷺が選んでくれたんだから、似合わないわけがないよね。……俺、一生この服しか着たくないな。朱鷺が良いって言ってくれた服しか、着たくない……」 気怠げに煙草を燻らせる朱鷺の瞳に、今ははっきりと俺の姿が映っている。 有象無象の人間共に向けられる無関心な視線じゃない。 朱鷺が俺のためだけに選んだ服を、それを身に纏う俺を、ちゃんと見つめてくれている。 俺はそっと手を伸ばし、朱鷺の膝の上に無造作に置かれたその細い手首を両手で包み込んだ。 「ねぇ朱鷺……。俺、朱鷺のお人形になれた? 朱鷺の好みの服を着て、朱鷺の家で大人しく帰りを待って……、俺、ちゃんと朱鷺のお気に入りになれてる……?」 朱鷺の美しい顔立ちを見つめながら、赤く揺れる瞳に歪んだ陶酔と独占欲を滲ませる。 「……ねぇ、お願いだから……、もっと俺のこと、見てよ。仕事のことも、煙草のことも忘れて……、俺だけを、見ててよ……」 その気怠げな視線も、少し冷たい手も、簡単にするりと抜けてどこかへ行ってしまう。 これだけ重苦しい感情をぶつけても朱鷺には少しも響いていないのだと思うと酷く虚しくて、それでも、どうしようも無いほど愛おしい。 「……服、脱がせてくれてもいいんだよ? 朱鷺が俺に買ってくれた服なんだから……。全部、朱鷺の好きなようにしてよ」 月緋は擦り寄るように朱鷺の膝に頬を預け、少しでもその心の中に居場所が欲しいと、掴んだままの手首にほんの少し力を込めた。 「……人形ってなんだよ。俺は別に人形なんかに興味は無い。お前はお前だろ」 朱鷺はそう言って、ゆっくりと煙を吐き出した。 縋るように手首を掴むその手を、振り払うことが出来ない。 変な奴だと、理解出来ないと思うのに。 どうでもいいとは、不思議と思わない。 殺し屋に情はいらないと、そうやって生きてきた。 それなのに、今自分がしているこの行動は、なんだ。 朱鷺は諦めたように月緋の銀髪を軽く撫で、静かに煙草を燻らせた。 頭の上に乗せられた、朱鷺の細くて冷たい手のひら。 髪を柔らかく撫でるその感触に、一瞬呼吸の仕方を忘れた。 「お前はお前だろ」 煙混じりの吐息と一緒に落とされたその言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。 人形みたいに、従順な愛玩物になれば満足してもらえると思ってた。 そうすれば、繋ぎ止められると思ってた。 愛してもらえるかもしれないと、思っていた。 それなのに、朱鷺は俺を"俺"としてそのまま認めるようなことを、余りにもいつも通りのその口調で、言ってのけた。 (……ずるいよ。本当に、ずるい……) 言ってることの意味を追おうとするたび、頭が熱くなる。 俺の重苦しい感情も、狂ったような依存も、全部わけが分からないと呆れ顔で受け流すくせに、その言葉の裏には、いつも確かな優しさが滲んでいる。 「お前はお前だろ、なんて……、そんな言い方ずるいじゃん……! 俺がどれだけ朱鷺に狂わされてるか、全然分かってない……!」 震える声で文句を言いながら、月緋はゆっくりと顔を上げた。 「……人形じゃなくていいなら、このままでいいなら……、ずっと朱鷺の隣にいさせて。俺を、突き放さないで……」 赤く潤んだ瞳で朱鷺の顔を見上げ、小さく息を吐き出す。 ゆっくりと流れる煙すら、最早愛おしい。 「……ねぇ、朱鷺。煙草吸い終わるまで……、ううん、吸い終わっても、こうやって撫でてて。朱鷺の手が離れるの、嫌だ……」 甘えるように。 縋りつくように。 月緋は朱鷺の膝の上に頭を乗せたまま体を丸め、流れる煙にそっと手を伸ばした。

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