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第2話
お気に入りの朱鷺の黒いパーカーの袖をぎゅっと握りしめて、月緋はほんの少しだけ開いたドアの隙間から、朱鷺の仕事部屋の中を覗き込んだ。
朱鷺は自分の家の中でいちいち鍵をかけるなんて面倒くさいことはしない。
そうと分かっていても、まるでいつでも入ってきていいと言われているような、都合のいい錯覚を抱いてしまう。
部屋の奥、デスクに座る朱鷺の背中が見えた。
普段ソファで煙草を燻らせている時とは、纏っている空気がまるで違う。
銃を分解してパーツを磨いているのか、冷たい金属音が部屋に響いている。
今の朱鷺の横顔は、完全に冷徹な殺し屋のそれだ。
近寄り難いほどの冷たい空気に、吸血鬼である俺でさえ本能的な恐怖を覚える。
でも。
恐怖と一緒に、どうしようもない愛おしさと独占欲が跳ね上がる。
あの冷たい目が俺を捉えた瞬間にどう変化するのか、それが見たい。
「……朱鷺。仕事、忙しいの?」
月緋は音を立てないように部屋に入ると、そっと朱鷺の座っている背中に近づいた。
そして、朱鷺の細い肩に後ろから顎を乗せるようにして、デスクの上の物騒な物を盗み見ながら態と甘えた声を出す。
「……部屋に帰ってこないから、寂しくて死んじゃうかと思った。ねぇ、俺のこと、忘れてないよね……?」
「……ん、なんだ、起きてたのか」
朱鷺は顔だけちらりと月緋の方に向け、またすぐに手元に戻した。
口調こそいつも通りだが、表情は殺し屋のそれだ。武器を手にしている時の癖なのだろう。
「今日はこの後仕事だ。今は……見りゃ分かると思うが、メンテナンス中だ」
手入れを終えたパーツを慣れた手付きで組み直しながら、そう言う。
「……何かいるもんあるか?帰り、コンビニぐらいしか開いてないだろうが、必要なもんがあるなら買ってきてやる」
そう言ってまた月緋にちらりと視線をやり、小さく笑った。
「……ん、なんだ、起きてたのか」
朱鷺はちらりと一瞬だけ俺の方を見て、またすぐに手元の黒い金属へと戻した。
口調はいつも通りに気怠げなのに、纏っている空気が完全に人を殺す側の人間のそれだ。
小気味よく響く金属音。
慣れた手つきで銃のパーツを組み直していく朱鷺の指先は、迷いがなくて酷く美しい。
俺がすぐ近くにいるのに、それすら視界に入っていないかのように冷たい顔をしている朱鷺に、胸の奥が鋭く痛む。
「今日はこの後仕事だ。今は……見りゃ分かると思うが、メンテナンス中だ」
仕事。
つまり、これから誰かの命を奪いに行くということだ。
その事実に、吸血鬼であるはずの俺の身体が本能的な恐怖で小さく震える。
いつだって、その手で俺の心臓を躊躇なく撃ち抜ける男なのだと、改めて突きつけられているみたいだ。
「……なんかいるもんあるか?帰り、コンビニぐらいしか開いてないだろうが、必要なもんがあるなら買ってきてやる」
不意に金属音が止み、朱鷺がまたちらりとこちらに視線を向けた。
そして、本当に微かに、俺だけに向けられる不器用な優しさを滲ませて、朱鷺は小さく笑った。
「……もう、なんなのそれ……。そんな顔して、そんな物騒なもの弄りながら、なんでそんな優しいこと言うの……?」
俺は後ろからその細い首筋に、両腕をきつく絡ませた。
朱鷺の背中に自分の胸をぴったりと押し付け、その規則正しい心音にそっと耳を澄ませる。
「必要なもの……?俺が欲しいのは朱鷺だけだし、朱鷺がいない時間は一秒だって必要ないよ。……あ、でも、血の代わりになるお肉とかレバーとか売ってるなら、朱鷺が選んだやつ買ってきてよ。朱鷺が俺のために買ってきたやつなら、血じゃなくても何だって美味しく食べてあげる」
耳元で我儘に囁きながら、月緋は朱鷺の手元にある、組み上がった漆黒の銃をじっと見つめた。
「……ねぇ、朱鷺。これから、その銃で悪い子を殺しに行くの? ……俺も連れていってよ。朱鷺の邪魔は絶対にしないから。朱鷺が誰かを殺すところ、俺、一番近くで見てみたい……。朱鷺の目が一番冷たくなる瞬間を、俺にも頂戴……?」
朱鷺は少し考える様に視線を動かした。
コンビニに肉塊やレバーは売っていないだろう。
俺が言ったのは飲み物だとか暇つぶし本だとか、そういう類の話だったのだが。
「……肉は、明日どっかで買って来てやる」
朱鷺はそう言って組み立て終わった銃をデスクの上に置き、ポケットの中から煙草取り出し咥えて火をつけた。
俺も連れてけ、という月緋の言葉に、朱鷺はほんの少し眉を寄せる。
「……連れてくわけないだろ。邪魔……危ないだろ。家で大人しくしてろ」
殺すところを近くで見たいなんて、好奇心を湧かせる部分が間違っている。
そんなもん見てどうする。
やはりこいつの思考回路は理解出来ない、と朱鷺は呆れた様に煙を吐き出した。
「……肉は、明日どっかで買って来てやる」
朱鷺は少し考えるように視線を動かした後、呆れたようにそう呟いた。
明日、どっかで買ってきてやる。
そのぶっきらぼうな約束が嬉しくて、愛おしくて、無意識に絡めた腕に力が入った。
静かに鈍い音を立てて、銃がデスクの上に置かれた。
人を殺すための冷たい鉄の塊。
それを置くと同時に、朱鷺はいつも通り新しい煙草を咥え、火を灯した。
ゆっくりと、紫煙が部屋の重苦しい空気に混ざり合っていく。
「連れてくわけないだろ。邪魔……危ないだろ。家で大人しくしてろ」
細く吐き出された煙の向こうで、朱鷺は呆れたように金の瞳を細めた。
邪魔と言いかけて、すぐに危ないと言い換えたその不器用な言葉選びに、俺の心臓はまた甘く跳ねる。
俺は、人間なんて一捻りにできる吸血鬼なのに。
朱鷺からしてみれば、俺は銃弾一発で死なないにしても、外に出せば日差しで灼かれそうになったり、こうして自分の後ろで喚き散らしたりする、ただの手のかかる化け物でしかないのだ。
その無自覚な優しさが、たまらなく愛おしい。
けれど、殺すところを見たいという俺の言葉は、決して一時的な好奇心なんかじゃない。
「危なくないもん……。俺、朱鷺が思ってるよりずっと強いよ? 人間の撃つ弾なんて、避けようと思えば避けられるし……。邪魔もしないって言ったじゃん」
月緋は朱鷺の首筋に顔を埋めたまま不満げに唇を尖らせ、じっとデスクの上の銃を見つめた。
「見てどうする、って顔してるね。……どうもしないよ。ただ、朱鷺が命を奪う瞬間を、俺が見たいだけ。それで、その後すぐ俺の匂いで他の奴の死の匂いなんて上書きしてあげたいの」
朱鷺の背後からそっと手を伸ばし、煙草を持っていない方の手に指を絡める。
背中越しに伝わる心音は、やはり何の変化も無かった。
「お留守番なんて嫌だなぁ……。朱鷺がいない部屋なんて、冷たくて、寂しくて、凍えちゃいそう。ねぇ、本当に連れてってくれないの?」
朱鷺がこれから向かう誰かの死に場所と、自分が待つこの家の境界線。
そのどちらもすべてを独占したくて、俺は首筋に額を押し付け、我儘な吐息を漏らした。
本当に、言ってることが一々重い。
普通人を殺してる顔なんて見たくないだろ。
吸血鬼ってのは、どいつも皆そんなもんなのか?
しかも匂いの上書きってなんだ。
俺は仕事の後そんなに血やら死体の匂いがするのか?
だとすると、怪しまれたら面倒だし帰りにふらふらコンビニに寄ることも出来ない。
朱鷺の頭の中には、様々な疑問符が浮かんだ。
「……まぁなんでもいいが、俺はもうそろそろ出る」
考えることを放棄して、そう言う。面倒になったらしい。
「着いて来るなら着いて来てもいいが。……お前は目立つからな。目立たないようにしろよ」
そういえばこいつは傷もすぐ治るし、人間よりも遥かに身体能力は高い。
それなら別に危なくもないか、と朱鷺は考え直し、もしかしたら役に立つかもしれないと同行を許可した。
しかし、月緋は銀髪の長身。そんなのと二人で歩いてたら目立ってしょうがない。
殺し屋が目立ってどうする。
自分の金髪は棚に上げて、朱鷺はそう言った。
「え……っ、本当に!? いいの!?」
連れていってくれないと半分諦めていた月緋は、朱鷺からのまさかの許可に歓喜でその肩を跳ねさせた。
けれど、朱鷺は歩き出す前に俺の派手な銀髪をじろりと見やる。
「お前は目立つからな」
自分の金髪のことは完全に棚に上げて、朱鷺は至極真面目な顔でそんな文句を言う。
「目立つって……朱鷺に言われたくないよ。朱鷺だって、歩いてたらみんなが振り返るくらい、すっごく綺麗なのに」
俺は朱鷺の後ろ姿を見て、ふふ、と喉の奥で小さく笑った。
朱鷺が俺の存在を仕事の邪魔として完全に排除するのではなく、目立つからという物理的な理由で難色を示しているのが、なんだか妙に可笑しくて、愛おしい。
「大丈夫だよ、朱鷺。目立たないように、パーカーのフード深く被っていくから。移動中も、ずっと朱鷺の後ろの影に隠れて、大人しくついていく。……ね、だから置いていかないで? 朱鷺が引き金を引くその瞬間、俺に見せてよ」
月緋はそう言って、朱鷺のジャケットの裾をそっと指先で摘んだ。
捨てられるのを恐れる子供のように、けれどその瞳には朱鷺を独占したいという狂信的な輝きを宿して、静かにその背中を見つめた。
「引き金は引かないと思うけどな」
朱鷺は煙草を吸い終えると、灰皿に煙草を押し付け、デスクの上に置かれていた銃のホルスターをアペンディックスに固定し、いつも通りの気怠げな口調でそう言う。
「銃はあまり好きじゃない。音も出るし、殺してる感覚が薄いだろ?だからこいつは最終手段だ」
デスクの上に置かれていたダガーとスイッチナイフもそれぞれ取り出しやすい位置に収め、玄関へと歩き出す。
「今日のターゲットは家で殺るから尚更だな。ほら、行くなら早く来い」
朱鷺は靴を履いてコツコツとつま先を鳴らし、月緋の方を見た。
「銃はあまり好きじゃない。音も出るし、殺してる感覚が薄いだろ? ……だから、こいつは最終手段だ」
「……え」
その言葉の響きに、背筋を冷たい刃物でなぞられたような、強烈な戦慄が駆け抜けた。
殺してる感覚が、薄い。
普通の人間なら、できるだけ自分の手を汚さずに命を奪いたいと思う筈だ。
それなのに、朱鷺は違うのだ。
朱鷺は呆然とする俺を置いてスタスタと部屋を出て、玄関へと歩き出した。
その背中を追いかけるように、俺も慌ててパーカーのフードを深く頭に被りながら玄関へと向かった。
「今日のターゲットは家で殺るから尚更だな。ほら、行くなら早く来い」
玄関口で、朱鷺は履き慣れた黒い靴につま先を入れ、コツコツと床を鳴らしている。
その金の瞳は、すでに夜の闇に同化するような冷徹さを取り戻していた。
家で殺る、ということは、至近距離で標的の命をその手で直接奪うということだ。
「っ……うん、行く、行くよ朱鷺……!」
俺は胸の奥から湧き上がるどうしようもない昂振と熱い吐息を抑えきれず、朱鷺のすぐ隣へと駆け寄った。
フードの隙間から銀髪を少しだけ覗かせながら、朱鷺に寄り添う。
「銃を使わない朱鷺の仕事……。ねぇ、それって、もっと凄いものが見られるってことだよね? 朱鷺のその綺麗な手が、誰かの命をじわじわと奪っていくところ……俺、瞬きもしないで全部、この目に焼き付けるから」
玄関の鍵が開けられ、外の冷たい風が肌を撫でる。
月緋は朱鷺の後ろ姿を見つめながら、言い様の無い興奮に口元を歪ませた。
「……お前、なんか勘違いしてるだろ。俺は快楽殺人鬼じゃないからな」
コツコツと夜道を歩きながら、朱鷺は不服そうにそう言った。
明らかに殺しを楽しんでいる異常者だと思われている気配を察知して、月緋にジロリと視線を向ける。
「殺してる感覚が薄いっつったのは、殺す奴への手向け的なやつだ。弾なんかで殺すより、手を汚して殺す方がそいつの命に誠実だろう」
そう言って、また視線を前に戻す。
殺ってることには変わりないのだが、朱鷺の中にはそういう拘りがあるらしい。
「殺してる感覚が薄いっつったのは、殺す奴への手向け的なやつだ。弾なんかで殺すより、手を汚して殺す方がそいつの命に誠実だろう」
朱鷺の口から淡々と紡がれたその言葉に、俺は小さく息を呑んだ。
誠実。
他人の命を奪うという行為に対して朱鷺が抱いているのは、歪んだ快楽なんかじゃない。
むしろ逆だ。
命という重いものを奪うからこそ、自分の手でその重みを直接受け止める。
それが、朱鷺が殺し屋として生き抜く中で築き上げた、絶対的な拘り。
冷徹な仕事のその根底にあるのは、驚くほど純粋で、残酷なまでの敬意だった。
「せ、いじつ……っ」
胸の奥が、さっきまでの興奮とはまた違う、もっと深くて重い情動で激しく締め付けられる。
やっぱり朱鷺は、ただ冷徹なだけじゃない。
食に興味がなくて、自分の命にさえ執着がなさそうな癖に、他人の命の終わり際に対してだけは、そんなにも生真面目で、恐ろしいほどの誠実さを持ち合わせている。
「……朱鷺って本当に、どこまでもずるいよ……」
月緋はフードをさらに深く引き下げ、朱鷺のジャケットの袖を小さく摘む。
「快楽殺人鬼なんかより、そっちの方がずっとタチが悪いよ……。そんな風に命を扱ってる朱鷺が、死にかけてた俺を気まぐれに拾ってくれたんだ。それってさ……朱鷺にとって、俺の命は誠実に奪う価値すらないものだったの? それとも……」
月緋の声が闇夜に溶け、コツコツと二人の足音だけが響く。
月緋は一度呼吸を整えると、朱鷺のその横顔をゆっくりと見つめ直した。
「……それとも、殺したくないくらい……特別になっちゃった?」
重苦しく歪んだ愛を込めて、摘んだ指先に力を込めた。
「……お前を拾ったのは、」
朱鷺はそこまで口に出して、続きを言うのを躊躇う様に口を噤んだ。
あの路地裏。
死にかけていた吸血鬼。
朱鷺は、仕事以外の殺しはしない。
殺しもしないが、死にかけていた奴を誰彼構わず拾うようなお人好しでも断じて無い。
「……もうすぐ着くぞ。今日のターゲットは男女二人だ。吸血鬼ってのは、壁すり抜けたりは出来ないのか?」
誤魔化す様にそう言って、朱鷺は前を向いたまま小さく息を吐いた。
「……お前を拾ったのは、」
朱鷺はそこまで口に出して、止めた。
その僅かな間の、どこか言い淀むような表情の動き。
いつも気怠げにしている朱鷺が、ほんの一瞬だけ見せたその揺らぎが、俺の胸の奥を激しく掻き乱した。
ただの気まぐれじゃなかった。
朱鷺の中に、俺を拾い、生かすことを選んだ何かが確かにあるのだと、その沈黙が雄弁に語っている。
けれど、朱鷺はそれ以上核心に触れるような言葉を繋げようとはしなかった。
「……もうすぐ着くぞ。今日のターゲットは男女二人だ。吸血鬼ってのは、壁すり抜けたりは出来ないのか?」
あからさまに話題を逸らすように、朱鷺はふんと小さく鼻を鳴らした。
金髪の隙間から覗くその金の瞳は、すでに前方の暗がりに佇む、静かな邸宅へと向けられている。
「壁をすり抜ける、って……。何それ、お化けか何かと勘違いしてない?」
月緋は朱鷺の横顔を見つめながら、少しだけ唇を尖らせて囁き返した。
朱鷺の後ろに付き従いながら、深く被ったパーカーのフードをさらに手で引き下げる。
「俺は吸血鬼だから、壁はすり抜けられないよ。……でも、鍵を壊さずに開けることくらいなら人間の何倍も器用にできるし、気配を完全に消して、天井裏からでも、窓の隙間からでも影に溶けて忍び込むことなら簡単。朱鷺がそこから入れって言うなら、どんな狭い隙間からでも入ってあげる」
目的の邸宅に近付くにつれ、夜の空気が張り詰めた緊張感で満たされていくのが分かった。
「ねぇ、朱鷺。拾った理由の続き……今夜の仕事が全部終わって家に帰ったら、教えてくれる?」
朱鷺のジャケットの裾を指先でそっと引きながら、月緋は赤い瞳を細め、小さな声で囁いた。
「朱鷺が誰かを殺す手も、冷たい体温も、全部全部、俺だけのものなんだから。……行こう? 朱鷺の誠実な仕事、俺に一番近くで見せてね」
壁をすり抜けることは出来ないのか、と、朱鷺は若干ガッカリしていた。
月緋が壁をすり抜けられれば、鍵をこじ開けたりする手間が省けて楽だと思ったのだが。
流石の吸血鬼もそこまで万能ではないらしい。
朱鷺は邸宅の裏側へと回り込み、手馴れた様子でリビングの窓の鍵を開ける。
ターゲット二人は二階の寝室でお楽しみ中のはずだ。
ターゲットの男女は、どっかの会社の社長とその愛人だ。そしてここは愛人宅。
依頼人は社長の妻。よくある男女関係のもつれだ。
窓を開けて音も無く中に入り込み、リビングから迷い無く二階への階段を上がっていく。
寝室の扉の前に着くと、ポケットからホルスターに収められたダガーを抜き取り、月緋にここにいろという様に視線をやった。
扉をほんの少しだけ開けて中を確認する。
薄暗い部屋の中に、聞きたくもない気色悪い声と、オッサンのだらしない身体が見える。
予想通りお楽しみの真っ最中の様だ。
朱鷺は少し体を屈めてオッサンの背後に忍び寄り、背中側から心臓部にダガーを突き刺した。
そして流れる様な動作で女の口を自分の手で塞ぎ、ポケットからスイッチブレードを取り出して刃を出し、躊躇無く喉元を切り裂く。
「よし。もう出てきていいぞ」
朱鷺はブレードに付いた血を雑に払い、折りたたんでポケットに仕舞う。
そしてダガーをオッサンから引き抜き、何事も無かった様に月緋に声をかけた。
壁をすり抜けられないと知った時の、朱鷺のあの心底ガッカリしたような目。
万能の道具みたいに俺の能力を使おうとする現金なところが、なんだか殺し屋らしくなくて小さく笑ってしまった。
裏手に回り込み、朱鷺が手慣れた動作でリビングの窓を開ける。
微かな金属音が響いた瞬間には、もう朱鷺の身体は音もなく室内の闇へと溶け込んでいた。
俺もその影を追うように、一切の足音を消して邸宅へと忍び込む。
二階から聞こえてくる、ひどく不快で、生々しい人間の声。
本当にくだらない。
男の醜いだらしない身体と、女の嬌声。
こんな下俗な生き物のために朱鷺のあの綺麗な手が汚されるのかと思うと、吐き気がした。
寝室の扉の前。
朱鷺はホルスターからダガーを抜き、俺にここにいろと視線で命じた。
その金の瞳の冷たさに、身体が強張る。
命令に従ってその場に身を潜めながらも、俺はドアの僅かな隙間から、その一瞬を貪るように見つめた。
──凄かった。
朱鷺の動きには、一切の無駄も、迷いもなかった。
どさりと、ベッドが重く沈む音。
シーツにじわじわと広がっていく、赤黒い人間の血。
「よし。もう出てきていいぞ」
朱鷺は刃についた血を雑に払うと、それを折りたたんでポケットに仕舞った。
そして、死体からダガーを躊躇なく引き抜き、何事もなかったかのように俺に声をかける。
その声の、どこまでも平坦で気怠げな温度。
目の前で二人の人間を屠ったばかりだというのに、朱鷺の呼吸は一つも乱れていない。
金髪の隙間から覗く金の瞳は、揺らぎ一つも見当たらなかった。
「っ……あ……は、すごい……。すっごく、綺麗、朱鷺……っ」
月緋は死体に目もくれず、朱鷺の元へと駆け寄った。
部屋に充満する、新鮮な鉄の匂い。
けれど、こんな安っぽい人間の血の匂いなんてどうでもいい。
俺の鼻腔を満たすのは、朱鷺の身体から立ち上る濃密な死の気配だ。
「誠実に殺すって、こういうことなんだね……。あんな奴らのために朱鷺の綺麗な手が汚れちゃうのは、すっごく気に入らないけど……。でも、今の朱鷺、世界中の何よりも美しかったよ……!」
月緋は朱鷺の前に跪くようにして、ダガーを持つ冷たい手首をそっと両手で包み込んだ。
陶酔した赤い瞳で朱鷺を見上げながら、血汚れた指先にゆっくりと唇を寄せる。
その指を、手のひらを舌先で愛おしそうに舐め上げながら、月緋は朱鷺の瞳に再び自分という存在を刻み込もうと、熱い吐息を漏らした。
「うえ、お前それこいつらの血だぞ?汚ねーだろ。やめとけよ」
今まさに二人の人間の命を終わらせた男の顔とは思えない程にドン引きした様子で、朱鷺は月緋の舌を振り払った。
そしてダガーの血をシーツで大雑把に拭い取ると、ホルスターに収めてポケットへと押し込む。
「これからこの家を荒す。この状態だと色々と怪しまれるからな。強盗殺人に見せかける。適当に荒らして適当に金品をとって窓を割って帰る。お前も手伝え」
朱鷺はそう言って、引き出しやクローゼットを乱雑に開けて物を散らばしていく。
「金品は帰りに海でも寄って捨てる。周辺に捨てたら見付かるかもしれねーからな」
引き出しの中にあった高級時計をポケットの中に雑に放り込んで、朱鷺は悪戯っぽく小さく笑った。
「うえ、お前それこいつらの血だぞ? 汚ねーだろ。やめとけよ」
今まさに二人の人間の命を終わらせたばかりの男とは思えないほど、朱鷺は本気でドン引きした様子で俺の頭を無造作に押し戻した。
あまりにも直球な嫌悪の示され方に、俺は唇を尖らせて朱鷺を見上げた。
「えー、ケチ……。俺はただ、朱鷺の手に付いたものを綺麗にしてあげようとしただけなのに。別に、こんな奴らの血が舐めたかった訳じゃないし……」
不満げにぶつぶつと文句を言う俺を完全に無視して、朱鷺はすでに次の仕事へと頭を切り替えていた。
「これからこの家を荒す。この状態だと色々と怪しまれるからな。強盗殺人に見せかける。適当に荒らして適当に金品をとって窓を割って帰る。お前も手伝え」
朱鷺はそう言うや否や、迷いのない足取りで部屋の高級そうなチェストへと近付き、引き出しを次々と引き抜いては床へと中身をぶちまけ始めた。
クローゼットの扉も開け放たれ、中にかかっていた仕立ての良さそうな服が無残に床へと散らばっていく。
怨恨や暗殺といった本質から警察の目を逸らすための、単純かつ完璧な事後処理。
「強盗殺人……。ふーん、人間の警察って、そんなので騙されちゃうんだ。面白いね」
月緋は朱鷺の鮮やかな手際に感心しながら、パーカーの袖を捲り上げた。
朱鷺が、手伝えと言ってくれた。
はじめての共同作業だ。
それだけで、さっきの不機嫌なんて簡単にどこかへ吹き飛んでしまった。
朱鷺の指示通り、俺も適当な棚に手をかけ、中に入っていた書類や小物を床へと叩きつけた。ガラスの置物が砕ける高い音が、寝室に不協和音を響かせる。
「金品は帰りに海でも寄って捨てる。周辺に捨てたら見付かるかもしれねーからな」
引き出しの奥から見つけ出したらしい成金趣味の高級時計を、朱鷺は自分のポケットの中に雑に放り込んだ。
そして、どこか悪ガキのように悪戯っぽく笑う。
その笑顔を見た瞬間、俺の心臓がまた大きく跳ねた。
人を殺し、その証拠を隠滅するために部屋を荒している最中だというのに、朱鷺はまるで子供みたいにどこか楽しそうに笑っているのだ。
冷酷な殺し屋の顔と、気怠げで不器用な同居人の顔。
そして今見せた、危ういほどに綺麗な少年のような笑顔。
そのどれもが朱鷺の本質で、そしてその全てを今、俺が独占している。
「海、行くんだ……。朱鷺と、夜の海。それ、すっごく素敵じゃん。デートみたい」
俺は床に置かれていたジュエリーボックスを蹴飛ばし、中から零れ落ちた宝石たちを靴の先で踏み躙る。
「周辺に捨てたら見つかるかもって、本当に用意周到だね。捨てるのはどうでもいいけど……、朱鷺が海を見てる横顔、俺、一番近くで見たいな」
深く被ったフードの隙間から、赤い瞳を朱鷺へと向ける。
「ほら、こっちの棚も全部ひっくり返しといたよ。早くここを片付けて、二人きりで海に行こうよ、朱鷺。……それとも、もっと激しく、死体も何も分からなくなるくらい、この部屋壊しちゃう?」
海に行って物を捨てると言っただけなのに、どこをどう飛躍させたらデートになるのか。
本来のデートがどんなもんなのか興味も無いので知ったことではないが、少なくとも証拠品の投棄はしに行かないだろう。
朱鷺は一階に降りてリビングを適当に荒らしながら、そう思った。
「あまりデカい音は立てるなよ。周りに気付かれたら面倒だ」
派手に音を立てながら好き勝手に部屋を荒らしている月緋にそう声を掛け、リビングに飾られていたセンスの無い高級そうな置物を手に取る。
家中が粗方ぐちゃぐちゃになったところで、朱鷺は月緋を連れ侵入した窓から抜け出し、外側から窓を叩き割った。
これで、もうこの家に用は無い。
「よし。帰るぞ」
朱鷺はセンスの無い置物をボールの様に手で弄びながら、いつも通り気怠げにそう言った。
「っ、ふふ……あはは! 本当に朱鷺って、やることが大胆でめちゃくちゃだね……っ」
月緋は足元に散らばった硝子の破片を踏み躪りながら、弾んだ声を漏らした。
硝子が砕ける高い音も、朱鷺が躊躇なく日常を壊していくその瞬間も、まるで極上の映画を見ているようで、胸の奥がずっと甘く痺れている。
「帰るって言っても、まずは海行くんでしょ? そのポケットに入ってるダサい時計、早く捨てに行こうよ」
月緋は被っていたフードを少しだけ直しながら、朱鷺の手元で弄ばれているこれまたダサい置物を盗み見る。
小さく顔を顰めると、あっという間に視線を外して朱鷺の空いている方の手に指を絡めた。
「ねぇ、歩きながらでいいからさ……さっきの教えてよ。"お前を拾ったのは"って、朱鷺が言いかけた言葉の続き。俺、気になって今夜眠れなくなっちゃいそう。……それとも海に着いたら、波の音に紛れさせてこっそり教えてくれる?」
夜の闇の中、朱鷺の金髪が街灯に反射して金細工のように煌めく。
その横顔を食い入るように見つめ、朱鷺が鬱陶しいと突き放すのすら楽しみにしながらその隣を歩き続けた。
朱鷺は海までの道を歩きながら、手に持っている置物に視線を落とした。
気色の悪い蛙の置物。目が合うだけで呪われそうだ。
「……お前を拾った理由は、ちゃんとある。でもそれは、お前にとって聞いて楽しいもんじゃない」
蛙の置物を睨み付けたまま、そう言う。
「波の音に紛れさせて、とか一々薄ら寒い言い回しするなよ。女子高生かよ」
朱鷺は月緋にちらりと視線をやり、小さく笑う。
その顔は殺し屋のものではなく、年相応の、まだどこか幼さの残る様な笑顔だった。
「女子高生、って……酷いなぁ。俺、そんなにロマンチックなおねだりしてた?」
不満げにそう言いつつも、朱鷺が向けてくれたその表情に心臓が跳ね上がった。
けれど、その笑顔の前に朱鷺が口にした言葉が、胸の奥に棘のように突き刺さって離れない。
『……お前を拾った理由は、ちゃんとある。でもそれは、お前にとって聞いて楽しいもんじゃない』
聞いて楽しいもんじゃない。
その冷静で現実的な響きに、吸血鬼としての本能が、わずかに警鐘を鳴らす。
「聞いて楽しいもんじゃない……」
フードの奥で、月緋の赤い瞳が暗く深く沈んでいく。
楽しいもんじゃないって、何?
裏社会の都合?
それとも、いつか俺を殺すための理由?
「……別に、楽しくなくたっていいよ。朱鷺が俺を拾ったのが、ただの気まぐれじゃなくて、ちゃんと理由があったって分かっただけで、俺はすっごく嬉しいもん。それがどんな理由だったとしても……俺の命を拾うって決めたのは、朱鷺なんだから」
海が近付いて来るにつれて、潮の匂いが夜風に混ざり、遠くから重い波の音が聞こえ始める。
俺は歩みを緩めず、朱鷺の手のひらを握り締めながら、その横顔を見つめた。
「ねぇ朱鷺。俺、これでも吸血鬼だよ? 人間の言う楽しいとか正しいなんて価値観、最初から持ってないの。だから、どんな理由でも、何でもいい。……朱鷺の中で、俺の存在は何なのか、知りたい」
波の音がだんだんと近くなる。
誰もいない夜の海岸線が見えてきた。
「ほら、もう海に着いちゃうよ。……朱鷺の秘密、教えて」
我儘に、懇願するように囁く。
どんな残酷な真実が待っていようと、朱鷺が俺を生かし、今この手を振り払わないという事実だけで、俺はどこまでも幸福になれるのだから。
砂浜を歩き、朱鷺は慣れた手付きで蛙を海に投げ込んだ。
普段から証拠隠滅の方法は海への不法投棄なのだろう。
海の生き物からしたら迷惑この上ない。
「お前を拾ったのは、お前が路地裏で死にかけてたからだ」
月緋の頭には、疑問符が浮かんだことだろう。
圧倒的に言葉が足りていない。
それは既知の情報だ。
「……いや、今のは語弊があるな。お前が死にかけてたのが、"路地裏"だったからだ」
朱鷺は少し考え直すように視線を動かすと、そう言い直してポケットから時計を取り出し、また海に投げ込んだ。
重く響く波の音に混ざって、鈍い水音が響く。
朱鷺の腕から放たれた証拠品は、夜の海へと吸い込まれて消えた。
「お前を拾ったのは、お前が路地裏で死にかけてたからだ」
「……は?」
そんなこと、俺だって朱鷺だって百も承知の既知の情報だ。
はぐらかされたのかと思い俺が少しだけ赤い瞳を尖らせた、その時。
「……いや、今のは語弊があるな。お前が死にかけてたのが、"路地裏"だったからだ」
朱鷺は、簡潔にそう言い直した。
「路地裏、だったから……?」
朱鷺の口から出たその言葉の意味を頭の中で反芻して、俺は動きを止めた。
ただ俺が死にかけていたからじゃない。
朱鷺が重要視したのは、"俺"じゃない。
俺が倒れていた"場所"。
「……それって、どういう意味……? 朱鷺にとって、あの路地裏は何か特別な場所だったの……? 」
波の飛沫が風に舞って、袖を濡らす。
月緋は朱鷺のその冷たい手のひらを、逃がさないように両手でそっと包み込んだ。
「ねぇ、朱鷺。言葉が足りないよ。それだけじゃ、朱鷺の言いたいこと全然分かんないもん……。路地裏だったら、誰でも良かったの? それとも、路地裏で死にかけてる奴は、拾わなきゃいけない理由があったの……?」
朱鷺の金の瞳を覗き込む。
聞いて楽しいもんじゃない、と朱鷺は言った。その言葉の本当の意味が、じわじわと現実味を帯びて迫ってくる。
それでも、朱鷺の深淵に触れたい。
狂おしい程の独占欲が、胸の奥で激しく暴れていた。
朱鷺は、葛葉の手を振り払うことも握り返すこともせず、ただその包まれた自分の手を見ていた。
そして視線を落としたまま、ゆっくりと口を開く。
「……まぁ、話すと長くなるから端折るが、弟が殺されたんだ。"路地裏"で」
朱鷺は静かにそう言った。
「駆け付けた時には、もう死んでた。眉間に一発。中学の時だった。その横にもう一人死んでてな。殺し屋がターゲットを始末してる現場にたまたま居合わせちまった弟は、口封じで殺されたらしい」
やり方が殺し屋の手口だったっていうのは、殺し屋になってから分かったことだがな、と朱鷺はほんの少し肩を竦める。
「だから、路地裏に落ちてたお前を、あの時救えなかった弟に重ねた。……俺の自己満足だ。怒ってくれていい」
朱鷺はそう言って、自嘲する様に小さく笑った。
「弟が殺されたんだ。"路地裏"で」
潮騒の音が、一瞬遠のいた気がした。
朱鷺は、俺の手を振り払うことも、握り返すこともしなかった。
ただ、血で汚れた自らの手のひらと、それを必死に繋ぎ止めようとしている俺の手の境界線を、じっと見つめていた。
中学生だった朱鷺。
まだ何者でもなかったはずの彼が、薄暗い路地裏で目にした、眉間を撃ち抜かれた肉親の亡骸。
そこから彼が、なぜ殺し屋としての生業に身を投じることになったのか。
その全てのピースが、今この潮騒の響く暗闇の中で、かちりと音を立てて繋がってしまった。
「……俺の自己満足だ。怒ってくれていい」
朱鷺はそう言って、自嘲するみたいに小さく笑った。
怒っていい?
自らを悪とし俺に判決を求めるような言葉を、朱鷺はあっさりと差し出してきた。
「っ……、なに、それ……」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。
朱鷺の手を包んでいた指先が、感情の奔流に耐えかねて細かく震え出した。
聞いて楽しいもんじゃないと、朱鷺は言った。
その言葉に嘘はなかった。
俺がどれだけ朱鷺に狂信的な愛を捧げこの世で唯一の特別になりたいと願っても、朱鷺が俺を拾った最初の引き金は、俺自身ではなく別の誰かの死だった。
化け物の俺が、人間の、しかもとっくに死んで腐ってしまったガキの代わりにしかなっていなかった。
抑えきれない独占欲が。
吸血鬼の、プライドが。
強烈な嫉妬と絶望が、脳髄を灼く。
けれど、それ以上に。
「怒るわけ、ないじゃん……!バカじゃないの、朱鷺……!!」
月緋は朱鷺の手を強く握り締め、そのまま彼の細い身体を壊してしまいそうなほどの力で砂浜へと押し倒した。
激しく砂が舞い、朱鷺の金色の髪が砂浜に乱雑に広がる。
剥き出しになった赤い瞳は、怒りではなく、狂気にも似た圧倒的な恋慕と陶酔で爛々と輝いていた。
「身代わりだって、自己満足だって、そんなのどうでもいい! 理由なんて、なんだっていいんだよ……! 朱鷺がその自己満足のおかげで、あの時俺を拾ってくれたなら……、俺にとっては、その死んだ弟のおかげで朱鷺に出会えたってことじゃん……っ!!」
荒い吐息が、朱鷺にかかる。
朱鷺は、突然押し倒されたというのに恐怖するでもなく、ただ驚いたよう僅かに目を見開いて俺を見上げていた。
その瞳に映る俺の顔は、きっと情けない程に歪んで、泣き出しそうな程に必死で、どうしようもなく狂っているのだろう。
「怒ってほしいなら、もっと酷いこと言ってよ……! 弟の代わりに、俺を一生朱鷺の側で飼い殺してよ! 誰かを救いたくて、弟の代わりに俺を拾ったって言うなら……、これから死ぬまで、俺の姿を見て、俺の名前を呼んで、俺のことだけ考えて生きていってよ……!!」
視界が歪み、奥歯がかたかたと音を立てる。
俺の激情を全て掻き消すように、波の音だけがが響いていた。
「ねぇ、朱鷺……。その弟は、朱鷺に血をねだったりしないでしょ? 朱鷺をこんな風に、狂うほど愛して、我儘に困らせたりしないでしょ……? だから、……もう重ねるのなんてやめて。俺は、朱鷺に拾われた、……朱鷺だけの、俺なんだから……!」
一人の殺し屋の、剥き出しの過去と孤独。
それを知ってしまった今、俺の独占欲は手が付けられない程に膨れ上がっていた。
朱鷺の過去の傷跡さえも、俺の全てで、俺の愛という呪いで、融かして塗り替えてしまいたかった。
「俺は、誰かを救いたいなんて大それた考えは持っちゃいない。お前を救いたかったわけじゃない。……救われたかったのは、俺だ」
あの時、弟を一人で行かせなければ。
あの時、もっと早く異変に気付いて弟を探しに行っていたら。
あの時、もっと早くあの路地裏に着いていたら。
そうしたら、弟はまだ、隣で笑っていたかもしれない。
変えられない過去を、起こってしまった出来事を、何も出来なかった自分を、何十回も、何百回も責め続けていた。
そんな時、路地裏で死にかけていた月緋を見付けた。
考えるより早く体が動いていた。
俺は、こいつではなく、あの日無力さを痛感し、ただ立ち尽くすしか出来なかった自分を救いたかったんだ。
けれど、今も俺は救われてなんかいない。
後悔も復讐心も、何一つ薄まっちゃいない。
それはそうだ。月緋は、弟ではないのだから。
そんなことはとっくに気付いていた。
それでも月緋を手放さなかったのは、"身代わり以上の何か"を月緋の中に見たからだ。
「……今はお前を、弟の代わりとは思ってないよ」
そう言った朱鷺の金色の瞳は、どこまでも切なく、月緋自身を肯定するように細められていた。
「……救われたかったのは、俺だ」
朱鷺の口から、酷く透明な声が零れ落ちる。
その言葉が、俺の脳髄を、心臓を、激しく揺さぶった。
救いたかったんじゃない、救われたかった。
こいつを助ければ、あの日の自分も少しは救われるんじゃないか。
そんな、悲しいくらいに不器用な、殺し屋の祈り。
だけど、俺は弟じゃない。
俺は、その死んだガキじゃない。
それなのに。
それなのに、朱鷺は俺を追い出さなかった。
居場所を与え、自分の服を着せ、今こうして、自分の最悪な過去の深淵まで全部、俺に晒してくれている。
「……今はお前を、弟の代わりとは思ってないよ」
朱鷺が、そっと金の瞳を細めた。
その瞳に宿っていたのは、他人の命を奪うときの冷徹な光なんかじゃない。
どこまでも切なくて優しい、朱鷺の精一杯の温かさだった。
「っ……、あ……ぁ……」
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
嫉妬も、絶望も、歪んだ独占欲も、朱鷺のその瞳を見た瞬間に、全てが灰になって消えた。
あぁ、ずるい。
本当に、ずるい男だ。
身代わりなんかじゃない。
朱鷺は、過去の亡霊に囚われたままでも、俺という存在を、俺自身を見てくれていたんだ。
「……だったら、もう、絶対に手放さないでよ……っ」
月緋は朱鷺の手首を縛り付けていた力を緩め、そのまま彼の胸元に、縋り付くようにして顔を埋めた。
服が砂まみれになって擦れる音。
確かに感じる、朱鷺のいつもと変わらない心音。
「朱鷺がまだ救われてないなら……、後悔も、復讐心も消えないなら、全部そのままでいい。俺が、その全部を愛してあげる。朱鷺を苦しめる過去も、傷も、俺が全部、この牙で噛み砕いて、俺の血肉にしてあげるから……!」
堪えきれずに零れ落ちた涙が、朱鷺の胸元を濡らす。
「俺は弟の代わりにはなれないけど、朱鷺を一生狂わせる、朱鷺だけの吸血鬼にはなってあげられる。……ねぇ、朱鷺。朱鷺の心を、俺の愛で、全部めちゃくちゃに塗り潰してあげるから。……だから、だから、もう二度と……、俺以外の男のことで、そんな目、しないで……!」
朱鷺が過去から逃れられないというのなら、俺は喜んでその過去ごと、彼の人生の全てをこの身で侵食し、独占してしまおう。
それが、朱鷺に拾われ、朱鷺に生かされた俺にだけ許された、命懸けの我儘だ。
朱鷺の首筋に、愛おしさを全て込めて、涙に濡れた唇を落とした。
「……俺以外の男にそんな目するなって。弟だぞ」
朱鷺はそう言って、呆れた様に小さく笑った。
月緋のその言葉は、妙に耳心地が良かった。
下手な同情の言葉や共感の言葉なんかよりも、朱鷺の心の中に静かに根を下ろした。
「帰るぞ。身体中砂だらけで気持ち悪い」
月緋の涙が、生温く胸元を濡らす。
朱鷺はその存在を確かめる様に、ほんの少しだけ月緋の震える体を抱きしめ返した。
「帰るぞ。身体中砂だらけで気持ち悪い」
朱鷺はそう言うと、ほんの少しだけ俺の背中を包むように腕を回した。
「っ……、あ……」
ほんの一瞬。
ほんの数秒だけ、朱鷺は腕の中にいる俺の存在を、確かめるように、優しく抱きしめ返してくれた。
冷たくて細い腕。
生きている。
弟の代わりなんかじゃない。
今ここにいる俺という存在を、朱鷺はきっと、欲してくれている。
「……うん。帰ろ、朱鷺。家に帰ったら、朱鷺の身体についた砂も、血の匂いも、俺がぜーんぶ、綺麗に上書きしてあげる」
朱鷺の胸元に顔を埋めたまま、俺は我儘に、甘えるように囁いた。
砂浜から立ち上がった朱鷺は相変わらずの気怠い顔に戻っていたけれど、その顔を見ても今はもう捨てられるかもしれないという不安はない。
暗い夜道を二人で歩く。
過去も未来も、ゆっくりと侵食していく。
俺の愛だけで、全てを食い尽くす。
それが朱鷺にとって呪いとなるのか、救いとなるのか。
どちらになろうが、俺には関係の無いことだった。
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