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第3話

朱鷺は煙草を咥えたまま、手元の端末に表示された文字を見て眉を寄せた。 都内の高級ホテル。最上階の屋外プールを貸し切って行われる、招待制のパーティー。 主催者は二十代の女。 職業、インフルエンサー。 朱鷺は興味なさそうに画面をスクロールした。 依頼内容はそこに来るインフルエンサーの殺害。依頼人もインフルエンサー。よくある同業者同士の嫉妬とかもつれとかそんなもんだろう。 招待制のパーティなので、朱鷺個人では乗り込めない。 なので、依頼人のインフルエンサーの女が朱鷺をパートナーとして連れて行くという流れになる。 朱鷺は心底面倒そうに煙を吐き出し、横にいた月緋に視線をやった。 「今夜女と仕事に行く。お前も来るか?」 今日も今日とて、朱鷺は圧倒的に言葉が足りていなかった。 「……は?」 喉から、低く地を這うような声が漏れる。 女と、仕事に行く? パーティー? 「ちょっと待って……。今、なんて言ったの?」 ソファに座っていた俺の身体から、一瞬にして殺気が立ち上る。 完全にハイライトの消えた紅い瞳が、朱鷺の手元にある端末の画面へと向けられた。 画面に映る、いかにも人目を引くような今風の着飾った女の顔写真。 「女と、行くんだ……。しかも、パーティー。朱鷺、その女の腰に手を回したり、楽しそうにグラスを傾けたり、恋人のフリをして優しく微笑みかけたりするわけ……?」 俺はソファから音もなく立ち上がると、朱鷺の逃げ道を塞ぐようにして、彼の上に覆い被さるように両手をソファの背もたれへと突いた。 「行く。行くに決まってるじゃん……! 留守番なんて絶対にしない。そんなの、パーティー会場の人間と一緒に行く女全員の首を噛みちぎって血の海に変えてって言ってるようなもんだよ……っ」 牙が、嫌な音を立てて鳴る。 狂おしい程の独占欲が、新しい燃料を投下されて激しく燃えていた。 「ねぇ、朱鷺。どんな格好をしていくの? まさか、その女に合わせたお揃いのスーツとかじゃないよね? ……ねぇ、その女、今どこにいるの? 任務が始まる前に、俺がその女の心臓、抉り出してきちゃ駄目かな……?」 顔を寄せ、潤んだ、狂気に染まった紅い瞳で朱鷺の綺麗な金の瞳をじっと睨みつける。 月緋は重苦しい愛執と嫉妬を隠そうともせず、その薄い唇に触れる手前で、荒い吐息が唇の端から漏れた。 目の前で突然メンヘラ化し始めた月緋に怪訝な視線をやり、朱鷺は煙草の灰を灰皿に落とした。 「プールっつってんだから、水着に決まってんだろ。その辺は依頼人が用意して来るらしい」 そう言って、また煙草を咥える。 「全員殺したら大事になるだろ。つーか依頼人は殺すな。金貰えなくなるだろ」 一人殺す時点で大事になるのは確定している。気にするべきはそこではない。 「依頼人の女とは、中に入ったら別行動だ。俺はさっさとターゲットを殺して帰る。その後は知らん」 朱鷺は端末の画面を閉じてポケットに突っ込み、煙草を灰皿で揉み消した。 「……は? み、ずぎ……っ!?」 水着。 つまり、朱鷺の白い肌や、細い鎖骨や、引き締まった身体のラインが、ほぼ剥き出しの状態で衆目に晒されるということだ。 しかもその水着は、朱鷺をパートナーとして連れて行くその依頼人の女が用意してくる……? 「全員殺したら大事になるだろ。つーか依頼人は殺すな。金貰えなくなるだろ」 「気にするべきはそこじゃないでしょ……!!」 朱鷺の優先順位は、どこまでも報酬と効率だ。 プロとしては誠実だけど、俺の心臓への配慮が絶望的に足りていない。 「依頼人の女とは、中に入ったら別行動だ。俺はさっさとターゲットを殺して帰る。その後は知らん」 朱鷺はそれだけ淡々と説明すると、手元の端末の画面を閉じてポケットに突っ込み、短くなった煙草を灰皿の底で揉み消した。 「……別行動、なんだ。触ったり、しないんだね……?」 朱鷺の言葉の真意を理解した瞬間、纏っていた殺気が嘘のように霧散していく。 けれど別の問題がすぐに頭をもたげて、俺は朱鷺のパーカーの胸元を縋り付くように握り締めた。 「でも、水着は駄目!! 絶対に嫌!! 朱鷺のその身体を、有象無象の人間共の目に晒すなんて耐えられない……! 依頼人の女が用意した水着なんて、どんな変な形してるか分かんないじゃん……!!」 脳裏に変なデザインの水着を着せられて、プールサイドで気怠げに佇む朱鷺の姿が浮かぶ。 そんなの、周囲の人間全員が釘付けになってしまうに決まっている。 「絶対ついていく。水着なんて着せない。朱鷺がプールサイドを歩く時は、俺が大きなバスタオルで朱鷺の身体を頭から足の先まですっぽり包んで、一瞬だってみんなに見せないようにガードしてあげるから!」 ソファから立ち上がろうとする朱鷺の細い腰に、背後から腕を回して抱きついた。 「ねぇ朱鷺、置いていかないで……。女の用意した水着なんて、本当はズタズタにしてやりたいくらいなんだから……!一緒に行って、一番近くで見てていいって言ってよ……!」 朱鷺の唯一の例外であるという特権を盾に、俺はどこまでも我儘に朱鷺のその背中に冷たい体温を押し付けた。 「水着は丈長めにしろって言ってあるから大丈夫だろ。そうじゃなきゃ得物仕込めないしな」 朱鷺は面倒そうにそう言って、月緋に視線をやる。 「着いて来るのは構わない。だが、バスタオルはやめろ。目立って仕方ないだろ」 突っ込むところはそこではない。 「もう行くぞ。なるべく今時っぽい格好をしとけ。そうしないと入口で弾かれる」 朱鷺はそう言って、着替える為に自室へと向かった。 「今時っぽい格好、って……」 残された月緋は、リビングで一人自分の服装を見下ろした。 お気に入りの、朱鷺の黒いオーバーサイズのパーカー。 暗殺の現場にはこれ以上ないほど馴染むけれど、ナイトプールというきらびやかな空間においては、今時っぽいとは程遠い、ただの不審な重荷でしかない。 「……朱鷺のパートナーの女に負けないくらい、お洒落しろってことだよね」 月緋は唇の端を吊り上げ、赤い瞳を細めた。 朱鷺を連れていく女がいかにも高級そうなブランド物のドレスや水着で着飾ってくるのなら、俺だって吸血鬼の意地がある。 朱鷺の横に並び立つのに相応しい、夜のプールサイドに溶け込むような極上の装いを用意してやる。 数分後自室から出てきた朱鷺は、すでに依頼人の女と合流するためのエスコート役としての私服に着替えていた。 「お待たせ、朱鷺」 クローゼットから引っ張り出してきたシースルー素材を取り入れた変形デザインのシャツに、細身のダメージデニムを合わせる。銀髪を少しラフにかき上げ、あえてその異質な美貌を剥き出しにする。 高級ホテルの客層に紛れ込むための、俺なりの今時っぽい攻撃的なドレスコードだ。 朱鷺はその姿をちらりとみて、まぁ、それなら弾かれはしないだろと短く呟き、玄関へと歩き出した。 夜の帳が降りた都心の高級ホテル。 朱鷺を値踏みするであろう全ての視線を、この紅い瞳で威嚇し、焼き尽くしてやる。 朱鷺の後ろに付き従いながら、月緋は静かに牙の飢えを研ぎ澄ませていった。 今回の仕事場になるホテルの近くの道で、朱鷺は依頼人であるインフルエンサーの女と合流した。 女は男二人で現れたことに若干驚いた様だったが、朱鷺がこいつのことは気にしなくていいと素っ気なく言うと、渋々納得した様だった。 女から水着を受け取り、ホテルへと歩き出す。 女は朱鷺と月緋に興味津々といった様子でペラペラと話しかけて来ていたが、朱鷺は女を通行証代わりにして中に入り込むと、あっという間に女を置き去りにして個室の更衣室へと消えた。 「お前の分の水着はない。けどまぁ、プールサイドにいりゃあ私服でも追い出されはしないだろ。知らねーけど」 朱鷺は面倒そうに水着に着替えながら、そう言う。 水着の下の太ももには、いつものダガーがバンドで固定されていた。 鏡の前に立ちダガーがしっかり隠れていることを確認すると、行くぞ、と言うように月緋に視線を向けた。 「いいよ、俺は水に入るつもりなんてないし。……それより、あの女、朱鷺のことずっと値踏みするみたいに見てて本気でイラついた。任務が終わったら、やっぱりあの女の喉笛も一緒に噛みちぎっていい?」 シャツを脱いだ朱鷺のしなやかで青白い背中を見ながら、月緋は不満を隠さずに呟く。 「ダメに決まってんだろ。金にならない仕事はしない」 朱鷺はいつもの気怠げな口調でそれを却下すると、用意された丈の長い黒の水着に脚を通した。 そして、自分の太ももへと手を伸ばす。 そこにはあらかじめ、伸縮性のある黒いバンドが巻かれていた。 朱鷺はそのバンドの隙間へ、ダガーを迷いなく固定する。 水着の裾が長めのおかげで、普通に立っていればその凶器の膨らみは完璧に隠れる。 鏡の前に立つ朱鷺の姿を、俺は息を呑んで見つめていた。 濡れたような金髪、はだけた鎖骨から広がる美しく引き締まった胸板、そして無駄な脂肪の一切ない細身のスタイル。 大人の色気と少年の危うさが奇跡的なバランスで同居しているその姿は、どこからどう見ても、ナイトプールに現れた最高に罪な金髪イケメンそのものだった。 まさかその太ももに暗殺用の刃が仕込まれているなんて、誰も気づきはしないだろう。 「……やっぱり、外に出したくない。朱鷺のそんな格好、変な男や女が群がってくるに決まってるじゃん……!」 俺は更衣室の壁に朱鷺を軽く押し込むようにして、彼の剥き出しの肩に自分の冷たい指先を這わせた。 「ねぇ、朱鷺、本当にバスタオル巻いちゃダメ……? 目立ってもいいじゃん、俺がずっとこうして、朱鷺の身体を誰の目にも触れさせないように隠しててあげるから……っ」 俺は彼の金の瞳に懇願するように視線を絡ませ、嫉妬と独占欲で胸を焦がし始めていた。 「だから、ダメに決まってんだろ。殺し屋が目立ってどうすんだよ」 言ってることは間違っていない。 しかし、バスタオルを巻かれていなくても朱鷺は目立つので、バスタオルは最早関係ない。 「水中で殺すとすぐ騒ぎになる。そうなると、室内に連れ込むか物陰に連れ込むかしかねーな」 めんどくせぇ、と朱鷺は舌打ちをし、ぶつくさと文句を言う月緋を置き去りにして更衣室から出た。 「室内に、連れ込む……? 物陰に、二人きりで……?」 俺の喉から、ひび割れた声が漏れる。 朱鷺に触れていた指先が、怒りと嫉妬のあまり細かく震え出した。 連れ込む? 今回のターゲットは女だ。 朱鷺のこの姿を見た標的は、間違いなく下俗な欲望のままに朱鷺を誘惑してくるだろう。 そして朱鷺はその女を油断させて確実に殺すために、自らその誘いに乗るフリをして、二人きりの密室へと足を踏み入れるんだ。 いくらビジネスだと分かっていても、朱鷺が自分以外の誰かにそんな視線を向けさせ、あまつさえ物陰で身体を密着させるかもしれないという可能性だけで、俺の吸血鬼としての本能が理性を消し飛ばすほどの勢いで狂いそうになる。 けれど、朱鷺は俺を置き去りにしたまま更衣室のドアノブに手をかけ、躊躇なくプールサイドへと足を踏み出した。 扉が開いた瞬間、大音量の重低音と、カクテルグラスが触れ合う華やかな喧騒、そして生温かい夜風が容赦なく全身を包み込む。 「あ……、ねぇ、待って、朱鷺……っ!」 月緋は慌ててその後ろ姿を追って更衣室を出た。 眩いネオンの下に朱鷺が進み出た瞬間、案の定周囲の空気がわずかに変わったのが分かった。 近くのデッキチェアでシャンパンを飲んでいた若い女たちが、それからプールの中で浮き輪に捕まっていた男たちが、一斉に朱鷺のその異質なほど整った姿へと視線を吸い寄せられていく。 「ほら……っ、みんな朱鷺のこと見てるじゃん……! 嫌だ、本当に嫌、全員の目を今すぐ抉り出してやりたい……っ!」 俺は周囲の有象無象に向けて今すぐ噛み殺さんばかりの凶悪な殺気を放ちながら、朱鷺の隣に張り付いた。 「室内に連れ込むなら、俺も絶対に一緒に入るからね。一秒だってその女と二人きりになんてさせない……っ」 大音量のクラブミュージックに掻き消されないように、月緋は必死の独占欲を朱鷺にぶつけた。 朱鷺はターゲットを探しながらプールサイドを歩きつつ、月緋の言った言葉について考えていた。 連れ込むなら、俺も一緒に入る。 それは使えるかもしれない。 「分かった。お前も来い。二対一で誘い込む。相手は承認欲求の塊の女だ。男二人に言い寄られる方が確実に連れ込める」 ターゲットを視認し、朱鷺はお前は喋らなくていい、と短く言った。 女は別のインフルエンサーであろう女数人と、プールに足だけ入れながら話している。 「なぁ、あんた可愛いね。ちょっと俺らと一緒に飲まない?」 朱鷺はターゲットの女に近付き、そう言って小さく微笑みかけた。 「分かった。お前も来い。二対一で誘い込む。相手は承認欲求の塊の女だ。男二人に言い寄られる方が確実に連れ込める」 朱鷺の口から飛び出したのは、月緋の嫉妬すらも利用したあまりにも合理的な新しい手順だった。 「……え?」 プールサイドをゆっくりと見回しながら歩く朱鷺の横に並んだまま、怒りと狂気で沸騰しかけていた月緋の頭が、予想外の提案に一瞬だけ白く染まる。 朱鷺一人だけでも、ターゲットの女を密室へ連れ込むことなんて造作もないはずだ。 けれど朱鷺という殺し屋は、月緋という想定外の同行者さえも瞬時に手駒として盤面に組み込んでみせたのだ。 「お前は喋らなくていい」 ターゲットの姿を捉えた瞬間、朱鷺は月緋に短く命じた。 その女は他の女たち数人と、プールの水面に脚を浸しながら、スマホを片手に自撮りを繰り返し、甲高い声で談笑している。 周囲の男たちの視線を集めている自覚があるのだろう。 その立ち振る舞いには露骨なまでの自信と傲慢さが透けて見えた。 朱鷺はその集団に向かって、迷いのない足取りで近づいていく。 月緋は朱鷺の命令通り一切の声を殺し、ただ朱鷺の斜め後ろに静かに付き従った。 「なぁ、あんた可愛いね。ちょっと俺らと一緒に飲まない?」 ターゲットの女の目の前で足を止め、朱鷺が声をかけた。 夜のプールサイドに溶け込むような、少し低くて、気怠げで、男性的で甘い、完璧なナンパ男の声音。 そして朱鷺はその金の瞳を柔らかく細め、ターゲットの女だけに向けて、小さく微笑みかけた。 女の取り巻きたちが息を呑む音が聞こえた。 声をかけられたターゲットの女自身も、スマホを持ったまま完全にフリーズしている。 しかし、瞬く間に女の瞳の奥に猛烈な優越感と、獲物を前にした肉食獣のような欲望が燃え上がるのが手に取るように分かった。 朱鷺のあの柔らかい笑みをあんな塵屑に最初に見せつけられたことへの激しい嫉妬が、俺の胸の奥で激しく渦巻く。 今すぐあの女の顔を引き裂いてやりたいという衝動を、朱鷺の絶対の命令だけで必死に繋ぎ止め、骨が軋む程に拳を握り込んだ。 女の視線が、品定めするように朱鷺から月緋へと移り、二人の男を同時に手に入れたという最高潮の興奮に頬を紅潮させる。 仕掛けられた罠とも知らずに、承認欲求の化け物は朱鷺の用意した死の入り口へと自ら望んで足を掛けた。 分かりやすく目を輝かせて食い付いて来た女に、朱鷺は軽く手を差し伸べ、その手を掴んで来た女を立たせる為に優しくエスコートしてみせる。 その表情はいつもの気怠いものではなく、どこか軽薄で、しかし色気に満ちたいかにも女ウケの良さそうな表情だった。 「あんた、静かに飲める場所とか知ってる?俺らはじめてここ来たから、全然知らなくてさ。せっかく可愛いおねーさん見つけたし、静かなとこで話したいんだけど……、ダメ?」 朱鷺は隣で歩くターゲットの女にそう言い、少しいたずらっぽく顔を覗き込んだ。 ターゲットの女は、分かりやすく朱鷺の罠に骨まで食いついてきた。 「え、うそ、誘われちゃった! いいよ、飲も飲も!」 そう言って、差し出された朱鷺の冷たい手のひらを、我が物顔で掴む。 朱鷺は柔らかな笑みを纏ったまま、女をプールサイドから立ち上がらせるために完璧な仕草でエスコートしてみせた。 その顔には、いつもの気怠さなんて微塵もない。 どこか軽薄で人懐っこさがあり、どうしようもないほどの色気に満ち溢れている。 いかにも夜の街で数多の女の心を狂わせて弄んできた男。 そんな完璧な偽りの偶像が、目の前で演じられていた。 月緋は朱鷺の斜め後ろを歩きながら、自分の爪が手のひらに深く食い込むのを感じていた。 朱鷺の手が、自分以外の奴に触れている。 朱鷺の瞳が、自分以外の奴に向けられている。 仕事だと分かっていても、本能が激しい拒絶反応を起こして脳の奥で警報を鳴らし続けていた。 今すぐその手を力任せに引き剥がし、女の腕を捩じ切ってやりたくて仕方が無い。 「あんた、静かに飲める場所とか知ってる? 俺らはじめてここ来たから、全然知らなくてさ。せっかく可愛いおねーさん見つけたし、静かなとこで話したいんだけど……、ダメ?」 プールサイドを並んで歩きながら、朱鷺はそう言って女の顔を悪戯っぽく覗き込んだ。 最後のフレーズに込められた絶妙な甘えと色気。 それは、女のプライドをこれ以上ないほどくすぐる極上の毒だった。 「ダメなわけないじゃん! ちょうど私、奥のVIPルーム押さえてるから、そこで三人で特別なことしよ? ね?」 女は完全に朱鷺の術中にはまり、自ら進んで案内役を買って出た。 朱鷺の"静かなところ"という要望を、これ以上ない形で叶えるために。 華やかなナイトプールの喧騒が、遠ざかっていく。 ガラス扉の向こう、VIPルームへと続く薄暗い廊下へと足を踏み入れながら、月緋は朱鷺の水着の下に仕込まれた冷たいダガーの感触を思い出し、暗い興奮を静かに滾らせていた。 女にVIPルームに案内され、扉が施錠された。 朱鷺は部屋の中に置かれていたバスタオルを手に取り、プールに入っていて濡れている女を気遣うフリをして、それを後ろから頭に被せる様にかける。 女がありがとう、と言うのを聞き届けぬまま、太ももからダガーを抜き取り、そのまま背後からバスタオルで包み込む様にして首元を切り裂いた。 女の身体が、糸の切れた人形の様に崩れ落ちる。 バスタオルのおかげで、朱鷺の身体には手以外血飛沫一つついていない。 朱鷺はタオルで手とダガーに付着した血液を拭い取ると、ダガーを元の位置に収め、月緋に視線をやった。 「よし。とっとと着替えて帰るぞ」 いつも通りの気怠い口調でそう言うと、VIPルームを出て更衣室へと向かった。 「……はは、すごい……っ。朱鷺、最高に綺麗……」 月緋の口から、歓喜に満ちた熱い吐息が漏れた。 つい数分前まで、狂いそうなほどの嫉妬を覚えていたというのに、全てはこの一瞬のための仕事の手順でしかなかったのだとそう理解した瞬間、嘘のように霧散していく。 「よし。とっとと着替えて帰るぞ」 朱鷺は足元に転がった死体に一瞥もくれることなく、右手とダガーに付着した血液を手早く拭い取り再び元の位置に固定すると、いつも通りの気怠げな声でそう言う。 「うん! 帰ろ、朱鷺。こんな所、もう一秒だって居たくないし」 月緋は弾んだ声で答え、VIPルームの扉を開けて外へと出る朱鷺の背中に嬉々として付き従った。 もうこの空間に用はない。 朱鷺の視線も、その手も、また俺だけのものになった。 更衣室へと向かって歩く朱鷺の背中を見つめながら、俺は紅い瞳をうっとりと細める。 早くいつもの黒い服に着替えてほしい。 いつも通り、ソファに座って気怠げに煙草を燻らせてほしい。 誰も知らない誰にも触れられない、歪な二人だけの箱庭。 あぁ、早く家に帰りたい。 月緋は抑え切れない悦楽に喉の奥を小さく鳴らした。 朱鷺はさっさと更衣室で着替えを済ませると、ホテルから出る為にエントランスへと向かった。 まだ殺しには誰も気付いていないのだろう。警備も客も通常通りだ。 しかしホテルを出ると、依頼人である女が待ち構えていた。 ホテルに入った瞬間撒かれたのが余程気に食わなかったのか、イライラした様子で近寄って来る。 朱鷺はそれを無視して横を通り抜けようとしたが、腕を掴まれた。 「……何?」 朱鷺があからさまに不機嫌そうにそう言うと依頼人の女は少したじろいだが、負けじと朱鷺を睨みつける。 「何?じゃないわよ!エスコートしてくれるって話だったでしょ!あなたが急にいなくなっちゃったから、私すごく恥かいたんだから!!それに、あの女のこと本当にちゃんと殺してくれたの?!」 依頼人の女が、感情のままに喚き散らす。 「エスコートするなんて言ってない。一緒に入ると言っただけだ。殺しは終わってる」 朱鷺はそう言うと、女の腕を振り払い面倒そうに舌打ちを零した。 「それならいいけど……。でも、私に恥かかせたんだから、ちょっとくらいこの後付き合ってよ。そっちのお兄さん……、全然喋らないけど、外人さんとか?」 依頼人の女は、そう言って今度は月緋の腕に軽く触れた。 その瞬間、朱鷺の目が明らかな殺意を含んで細められる。 それと同時に女の腕を粗暴に掴み、月緋の腕から引き剥がした。 「触んな」 朱鷺は苛立った様に、短くそう言う。 「お前の恥なんて知るか。殺しの分しか金は貰ってない。付き合う義理はない」 そう吐き捨てて、朱鷺は女に背を向けて歩き始めた。 「触んな」 朱鷺の口から漏れたのは、いつもの気怠さなど微塵もない、低く地を這うような本物の警告だった。 突如として目の前の殺し屋から放たれた、背筋を凍りつかせるような本気の殺気。 それを至近距離で浴びた女は、今度こそ完全に恐怖に顔を青ざめさせ、声も出せずに唇を震わせる。 「お前の恥なんて知るか。殺しの分しか金は貰ってない。付き合う義理はない」 そう吐き捨てると、朱鷺は女に背を向け大通りへと向かって歩き始めた。 「っ……、あ、はは……っ! あはははは……っ!」 その後ろ姿を追いかけながら、月緋の喉からは堪えきれない程の歓喜の笑い声が溢れ出した。 女が腕に触れた瞬間、頭の中の血管が全て千切れるような殺意が湧き上がり、その場で首を引き裂いてやろうとしたその刹那だった。 月緋が動くよりも早く、朱鷺が女の手を弾き飛ばした。 『触んな』 朱鷺の低くて冷徹な拒絶の言葉が、脳裏で何度も何度も反響する。 どれだけ他人が汚い視線を向けようが、汚い手で触れてこようが、朱鷺はいつだって仕事と冷淡に割り切っていた。 それなのに、俺が他人に指先一つ触れられただけで、朱鷺はプロとしての冷静さを投げ打って剥き出しの殺意を露わにした。 弟の代わりなんかじゃない。 朱鷺にとって俺という存在は、誰にも触れさせたくない絶対的な"唯一"なのだという動かぬ証拠。 「朱鷺、待ってよ……っ! あはは、嬉しい……嬉しいよ、朱鷺……っ!」 俺は弾んだ足取りで朱鷺の斜め後ろへと駆け寄ると、朱鷺の服の袖を強く掴んだ。 「怒ってくれたんだね!俺が触られて、朱鷺、あんなに怖い顔して怒ってくれたんだ……!ねぇ、やっぱり朱鷺も、俺のことが愛おしくて堪らないんでしょ? 俺の身体に触れていいのは、朱鷺だけだもんね……っ?」 俺が袖を引くと、朱鷺はいつもの気怠げな瞳でちらりとこちらを見た。 その瞳に映る俺は、きっとこれ以上ない程に陶酔し切った顔をしているだろう。 けれど、そんなことはどうでもいい。 どんな俺だろうと、朱鷺はもう"俺という存在"を手放せないのだから。 朱鷺は歩きながらポケットから取り出した煙草を咥え、火をつけた。 煙を吐き出し、ほんの少し考える様に視線を動かす。 怒ってくれた。 月緋の言葉を反芻し、煙を吐き出す。 俺は怒ったのか? 何に対して? あの女に対して? 月緋に触れたことに対して? 確かに、月緋に気安く触れられたことには嫌悪感があった。 では、愛おしくて堪らないかと聞かれれば。 「……分からんが、多分そうなんだろうな。頭に血が上ったのは事実だ」 朱鷺はそう結論付けて、また煙草を咥えた。 「っ……!」 その余りにもぶっきらぼうで、けれどこれ以上ないほど明確な肯定の言葉を受け取った瞬間、心臓が跳ね上がり、全身の血液が沸騰したような錯覚がした。 分からないと言いながらも、朱鷺は自分が理性を失ったという事実を受け入れている。 あの朱鷺が、俺のためだけに頭に血を上らせ、所有権を主張するように女の手を力任せに引き剥がした。 「あ、あは……っ、朱鷺、朱鷺……っ!」 濁流のように押し寄せる愛執と独占欲をそのままに、月緋は歩いている朱鷺の手を両手ですくい上げ、頬を擦り寄せる。 「やっぱり、そうなんだ……! 朱鷺も、朱鷺も俺と同じくらい、俺に狂ってくれてるんだね……!嬉しい、死んじゃいたいくらい嬉しい……っ。ねぇ、お家に帰ったら、その頭に血が上った理由を、俺の身体に全部ぶつけてよ……。朱鷺のその綺麗な手で、俺のこと、もっとめちゃくちゃに縛り付けて……!」 朱鷺は面倒そうな顔をしながらも、手を振り払うことはしない。 その不器用な優しさと俺よりも少し高い体温が、何よりも愛おしい。 二人の影が、静寂に満ちた夜道に伸びている。 影ですら一つになりたいと、そう思った。 歩いていた朱鷺の足が、ぴたりと止まった。 月緋の頬に伸びていた腕が、ゆっくりと下ろされる。 「死ぬとか言うな」 それは、殺し屋が言うには余りにも矛盾した言葉だった。 「二度と、言うな」 朱鷺の金色の瞳には怒りも悲しみも無く、ただ静かに月緋だけを映していた。 「死ぬとか言うな」 夜の静寂に落とされたその声は、ひどく平坦だった。 心臓が低く跳ねる。 それは、殺し屋の口から出るには、あまりにも歪で矛盾した言葉だった。 ほんの数十分前、何の躊躇いもなく女の喉笛を切り裂き、その手を血で濡らしたばかりの男だ。 そんな朱鷺が、月緋の口から出た"死"というたった一言に、足を止めた。 「二度と、言うな」 朱鷺は月緋へと身体を向け、その瞳で真っ直ぐに紅い瞳を射抜いた。 そこに、激しい怒りの炎は無い。 分かりやすい悲哀の色も、無い。 感情が削ぎ落とされた、金色の瞳。 ただそこには、月緋という存在だけが静かに映し出されていた。 朱鷺の心の奥底にある、喪失の傷跡。 俺の言葉が意図せずその傷を掠めてしまったのだと気づいた瞬間、俺の脳髄に背筋が凍るほどの甘い歓喜と優越感が突き抜けた。 あぁ、朱鷺は。 朱鷺は、俺を失うことを、明確に拒絶している。 「……っ、あ……」 息が詰まるほどの幸福に、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。 俺は下ろされた朱鷺の手を再び両手で包み込むようにしてすくい取ると、その冷たい指先を自分の胸元へと強く押し当てた。 「……うん、言わない。もう二度と、言わないよ」 震える声で、心の底からの服従と愛執を込めて、朱鷺の瞳を見つめ返す。 「ごめんね、朱鷺。俺、嬉しすぎて……。俺は、吸血鬼だもん。簡単には死なないよ。朱鷺を残して消えたりなんか、絶対にしないから……」 殺し屋に死を禁じられるという、極上の束縛。 朱鷺の過去が。 奪ってきた無数の命が。 俺だけに向けられているこの静かな狂気が。 その全てが、俺の魂を飲み込むように狂わせていく。 「ねぇ、朱鷺……。俺の命は、とっくに朱鷺のものだから。俺が生きるのも、俺が息をするのも、全部朱鷺が決めていいんだよ……」 俺は朱鷺の手に涙で濡れた頬をすり寄せ、その指先にそっと、誓いの口付けを落とした。 街灯の光だけが灯る深い夜の闇の中で、人間と吸血鬼の間に引かれていた境界線が、じわりと侵食されていくのを感じていた。 「……」 朱鷺は静かに月緋を見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出した。 指に挟まれたままだった煙草の灰が、地面に音も無く落ちる。 「……そうかよ」 朱鷺は短くそう呟いて、月緋の頬を濡らす涙を指で拭う。 その手つきはどこまでも優しく、言葉よりも遥かに雄弁だった。 「……そうかよ」 夜の静寂に溶け込むような、短い呟き。 その直後、朱鷺の指先が俺の頬に触れた。 命を奪うためのその手が、俺の頬を伝う涙を優しく拭い去っていく。 「……朱鷺……」 月緋はゆっくりと瞼を閉じ、朱鷺の指先に頬を擦り寄せた。 煙草の匂い。 僅かに残る血の匂い。 少し低い体温。 朱鷺を形作るその全てが、愛おしい。 「……帰ろう、朱鷺」 月緋は目を開き、頬に触れていた朱鷺の指先にそっと自分の指を絡ませた。 朱鷺は、何も言わずにほんの少しだけ指先を絡め返した。 その確かな変化に、月緋は唇の端を歪に吊り上げ、幸せそうに目を細める。 街灯だけが灯る夜の道。 二人の影は一つの大きな影となりゆっくりと進んでいく。 望み通りに一つとなった影を見下ろし、月緋は恍惚とした表情で喉の奥を鳴らした。

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