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最終話

「だから、地毛だって言ってんだろ」 朱鷺は自分の金髪を指で弄る月緋に視線をやり、面倒そうに小さく息を吐いた。 月緋を拾ってから五ヶ月程が経った。 しかし、半年近く一緒にいても一向に根元が黒くならない朱鷺の髪を見て、月緋は不思議に思ったようだった。 煙草の灰を灰皿に落とし、興味無さげに自分の金髪に触れる。 「遺伝だ。母親が金髪だった」 朱鷺はそう言って髪を雑に指先で弾き、また煙草を咥えた。 「ふーん……遺伝、ねぇ」 俺は朱鷺の指先からこぼれ落ちた髪の束を、そっと手のひらで受け止めた。 五ヶ月。 朱鷺と暮らし始めて、季節がひとつ巡るほどの時間が過ぎた。 昼間の日差しを嫌う俺のためにカーテンが閉め切られたリビングで、ぼんやりと浮かび上がる朱鷺の金髪。 染めたもの特有の痛んだ質感や根元の黒ずみなんてどこにもなくて、光の加減で滑らかに表情を変える本物の金糸。 「……なんかさ」 月緋は半開きの瞳で朱鷺の横顔を見つめながら、受け止めた髪にゆっくりと指を通した。 煙草の苦い香りが、その髪からもふわりと立ち上る。 「人間にしては、綺麗すぎると思ったんだよね。嘘ついて実は染めてるんじゃないかとか、思ったりもしたんだけど……」 そっと指先を滑らせ、耳の裏やうなじの生え際に触れる。 吸血鬼の冷たい指先が朱鷺の肌に触れるたび、朱鷺が煩わしそうに眉を寄せるのが分かった。 けれど、拒絶はされない。 その事実だけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。 「母親譲り、かぁ……。じゃあ、朱鷺のその綺麗な金の瞳も、お母さん似なわけ?」 そう問いかけながら、俺は朱鷺の膝の上に体を預け、下から覗き込むようにその顔を見つめた。 朱鷺の顔立ち、髪の色、目の色、この男を形作っている血筋や過去。 俺の知らない朱鷺が、俺と出会う前の時間の欠片が、その金髪という事実ひとつでほんの少しだけ手に入った気がして、嫉妬と愛おしさが混ざり合った妙な感覚が胸を締め付ける。 「……ねぇ、朱鷺」 月緋は朱鷺の腕にすり寄るように頬を寄せ、紫煙を吐き出す朱鷺の横顔に熱っぽい視線を投げかけた。 「朱鷺のお母さんも、朱鷺みたいに綺麗な人だったの? 朱鷺がそんなにカッコいいのは、お母さんの血をいっぱい引いてるから?」 戯れのような問いかけ。 けれど月緋の指先は決して朱鷺の髪から離れようとせず、まるで自分の所有物であることを確かめるように、愛おしそうに撫で続けていた。 しつこく撫で回してくる月緋に若干鬱陶しそうに眉を寄せ、朱鷺は煙を吐き出した。 当たり前のようにカーテンが閉め切られ部屋の明かりすら付いていないリビングに、ゆっくりと紫煙が揺れる。 「知らん。覚えてない」 いつも通りの気怠げな口調で、そう言う。 その時、ソファの前のローテーブルに乱雑に置かれていた朱鷺のスマホが鈍い音を立てて振動した。 朱鷺は煙草を咥えたままスマホを手に取り、画面の確認をする。 「……」 半ば無意識に、表示された内容が月緋に見えないように画面を傾ける。 画面を消してまた雑にテーブルに置き直し、朱鷺は静かに煙を吐き出した。 「……隠した」 朱鷺が何気なく取ったその僅かな動作を、俺の目が逃すはずもなかった。 視線を遮るように傾けられた液晶画面。 暗闇に一瞬だけ浮かび上がった青白い光と、それに伴う朱鷺の揺らぎ。 俺の撫で回していた手が、朱鷺の金髪の途中でピタリと止まる。 「ねえ、朱鷺。……今、見えないようにしたでしょ」 声から一切の戯れが消えた。 月緋は朱鷺の膝の上に体を預けた姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げる。 頭上から落ちてくる紫煙の向こう側、朱鷺の瞳を覗き込もうと吸血鬼特有の視力でその瞳孔の収縮すらも見逃さないように見つめた。 胸の奥で、ドロリとした黒い感情が鎌首をもたげる。 嫉妬。不信。 そして何より、自分以外の何かが朱鷺の意識を奪うことに対する激しい不快感。 「誰から? 仕事? それとも……俺の知らない誰か?」 月緋は朱鷺の膝からゆっくりと起き上がると、ローテーブルの上に放り投げられたスマホへ視線を落とした。 画面はすでに暗転し、何事もなかったかのように冷たく静まり返っている。 さっきまで感じていた甘やかな愛おしさは一瞬で吹き飛び、代わりに鋭利な疑惑が脳裏を支配していく。 朱鷺は気怠げに煙草を咥えたまま、何も語ろうとしない。 その無口さも、冷たさも、普段なら俺を魅了してやまない朱鷺らしさだ。 けれど、今の隠すという行動だけは、俺の心臓を不快に締め付けた。 「知らん、覚えてない、って言った舌の根も乾かないうちに……、俺に見せられない連絡が来るんだ」 月緋はソファに座る朱鷺の頬を、両手で挟み込むようにして固定した。 冷え切った指先が、朱鷺の肌に圧をかける。 「ねぇ、答えてよ、朱鷺。……俺に隠し事? こんなに一緒にいて、指輪まで交わしたのに……俺には見せられない何かが、その小さな機械の中にあるわけ?」 朱鷺の口元から立ち上る煙草の煙が、俺の鼻腔をくすぐる。 苦くて、香ばしくて、大好きな朱鷺の匂い。 けれど今の俺は、その煙すらも朱鷺と俺の間に挟まる邪魔なものに思えて、朱鷺が咥えている煙草のフィルターを指先で強く摘み、横から奪い取るようにして自分の口へと運んだ。 朱鷺の煙草の味を深く吸い込みゆっくりと吐き出しながら、俺は狂気を孕んだ笑みを浮かべた。 「俺のこと、捨てたりしないよね?……それとも、俺を拾う前にいた誰かからの連絡? 俺が立ち入れない、朱鷺の過去からの連絡なの……?」 朱鷺の弟。 かつて死んだという、朱鷺の心に癒えない傷を残した存在。 そして、数ヶ月前に同じように路地裏で倒れていた俺。 ぐるぐると歪んだ思考が駆け巡る。 朱鷺が画面を隠したという事実ひとつだけで、俺の頭の中は朱鷺の過去と、見知らぬ誰かへの嫉妬で破裂しそうだった。 「……言わないなら、ずっとこうしてるから。朱鷺の全部、俺が見張ってるからね」 「お前は吸うな」 朱鷺は眉を寄せたまま月緋から煙草を奪い返し、そのまま灰皿に押し付けた。 メールの内容を、もう一度頭の中で思い返す。 どんな偶然だ、と思った。 数年ぶりに母親のことを口にしたと思ったら、今度は。 「隠したつもりはない。見せる必要がないと思っただけだ」 朱鷺はテーブルに置かれたスマホに視線をやり、小さく舌打ちをする。 「……俺を殺し屋に育てた奴からだ。分かりやすく言うと……まぁ、父親だ」 そう言って、新しい煙草を咥えて火をつけた。 「……お父さん……?」 月緋は瞬きも忘れて朱鷺の顔を見つめ返した。 吸いかけの煙草を奪われ、灰皿で押し潰される短い煙。 その後に朱鷺の口から漏れた言葉は、俺の歪んだ脳内で膨らんでいた見知らぬ愛人や過去の女といった疑心とは、余りにもかけ離れたものだった。 俺を殺し屋に育てた奴。 朱鷺が新しく火をつけた煙草の先が、薄暗いリビングの中で小さく赤く爆ぜる。 その橙色の光に照らされた朱鷺の横顔は、普段の気怠げなそれとはどこか違う、重く、硬い空気を纏っていた。 「……殺し屋に育てた、父親……」 月緋は朱鷺の膝の上に跨るように座り直した。 嫉妬で狂いそうだった胸のざわめきが、一瞬で別の冷たい感情へと置き換わっていく。 父親。 朱鷺をこの世に生み出し、そして殺し屋という血生臭い世界へ引きずり込んだ男。 五ヶ月間朱鷺の隣にいて、彼の体に刻まれた傷や、人間離れした無駄のない身のこなしを見てきた月緋には、その父親という存在がどれほど朱鷺の人生に深く、重く根を張っているかが嫌というほど理解できた。 「……ねぇ、朱鷺」 月緋はそっと手を伸ばし、新しい煙草を咥える朱鷺の頬に、今度は包み込むように優しく触れた。 「見せる必要がない、なんて言わないでよ。……朱鷺を殺し屋に育て上げた奴の連絡なら、なおさら俺に関係あるじゃん」 月緋の紅い瞳が、暗闇の中で怪しく揺れた。 朱鷺の過去そのものに対する猛烈な独占欲と、その父親という男に対する敵意が、俺の胸の奥でじわじわと湧き上がる。 「何書いてあったの?……その男、朱鷺に何の用? まさか……朱鷺を俺から連れ戻そうとでもしてるの?」 月緋は朱鷺の顔に自分の顔を近付け、その唇から吐き出される煙草の香りを味わうように鼻を寄せる。 「ねぇ、教えてよ。朱鷺の口から……ちゃんと全部、俺に話して」 朱鷺は言葉を選ぶように、ゆっくりと視線を動かした。 尚更俺に関係ある、という月緋の言い分は理解出来ないが、このまま適当なことを言って誤魔化せる程口が達者でもない。 かと言って、淡々と説明出来るような内容でもなかった。 「……殺し屋に情はいらない」 静かに煙を吐き出し、煙草を灰皿に置く。 金色の瞳が、小さく燃える火を映していた。 「だから、早くお前を始末しろとさ」 朱鷺はそう言って月緋の額に自分の額を軽く押し当て、小さく笑った。 「……は……?」 朱鷺の額から伝わる温もりに、一瞬、思考が完全に停止した。 額を押し当てられたまま、俺は目を見開いて朱鷺の金色の瞳を見つめ返す。 小さく浮かべられた朱鷺の笑み。 それが冗談でも何でもなく、その父親と呼ばれる男から送られてきた本物のメッセージの内容なのだと理解するのに、数秒の時間を要した。 「始末……しろ……?」 喉の奥から絞り出した声が、自分でも驚くほど低く沈む。 『殺し屋に情はいらない』 『だから、早くそいつを始末しろ』 脳内でその言葉が何度もリフレインし、次の瞬間、激しい怒りと、それを遥かに凌駕する狂おしいほどの喜びが同時に俺の全身を駆け巡った。 「あは……あははっ……!」 朱鷺の首元に手を回し力任せに抱き寄せると、狂気に濡れた瞳で朱鷺の顔を見つめる。 「なに言ってんの、そのクソ親父……。最高に頭湧いてるんじゃない……?」 朱鷺を殺し屋として縛り付け、情を抱くことを許さない過去の元凶。 その男が、朱鷺の隣にいる俺の存在を鬱陶しく思い、消そうとしている。 「ねぇ朱鷺……。その父親って奴、何にも分かってないね?」 月緋は朱鷺の首筋に頬を擦り寄せ、その脈動を噛みしめるように感じ取りながら、耳元で甘く毒を含んだ声で囁いた。 「俺を殺す? 朱鷺が? ……ふふっ、出来るわけないじゃんね。だって朱鷺は、俺が傷つくのすら嫌で、自分の手で刃を握るような人なんだよ? 俺を始末するなんて、朱鷺自身を殺すのと一緒なのにさ……」 抱きしめる腕に更に力を込め、朱鷺の体を自分の体に完全に押し付ける。 「……ねぇ朱鷺。その"お父さん"、俺が殺してきてあげようか?」 俺の紅い瞳が、吸血鬼特有の怪しい光を放つ。 「朱鷺の手を汚す必要すらないよ。朱鷺の自由を奪おうとする奴なんて、俺が跡形もなく喰い殺してあげる。……それとも、朱鷺が自分で殺したい? 」 朱鷺を縛る過去も、父親という影も、全部俺が焼き尽くす。 「ねぇ、命令してよ、朱鷺。俺を始末する代わりに……俺と一緒に、そのクソ親父を地獄に叩き落としに行こうよ」 「……それは無理だろうな。特に、お前は」 朱鷺はそう言い、落ち着かせるように月緋の背中を軽く撫でた。 灰皿に置かれていた煙草の長い灰を落とし、ゆっくりとそれを咥え直す。 「色々調べた。ちょっとやそっとじゃ傷一つつかないお前が、あの日路地裏でくたばりかけてた理由。吸血鬼専門の殺し屋がいる。……俺は知りもしなかった。興味が無かった」 煙を吐き出し、月緋の赤い瞳に視線を合わせる。 「十中八九、お前はそいつにやられたんだろう。そして……俺の父親は、その吸血鬼専門の殺し屋だ」 朱鷺は煙草を灰皿に押し付け、忌々しげに舌打ちを零した。 「……え……?」 背中を撫でる朱鷺の静かな手のひらの感覚すら、一瞬だけ脳から消え去った。 重なる朱鷺の言葉。 吸血鬼専門の殺し屋。 数ヶ月前、俺が殺されかけた理由。 そして、朱鷺の親父が、その殺し屋であるという事実。 (俺を……俺を半殺しにしたのが……朱鷺の、父親……?) 頭の中で、バラバラだったピースが音を立てて噛み合い始める。 あの雨の夜。 全身の血が抜け落ち、骨が砕かれ、死の恐怖と冷たさの中で路地裏に転がっていた俺。 あの時、俺をあそこまで追い詰めた正体不明の存在。 それが、朱鷺を生み出し、狂わせ、殺し屋として育て上げた男だった? 「あ……っ、あは……っ、あははははははっ……!」 喉の奥から、乾いた狂気の笑いが溢れ出して、止まらない。 全身の血が激しく沸騰し、視界が真っ赤に染まっていく。 俺を殺しかけた男。 朱鷺に俺を早く始末しろと命じた男。 朱鷺の人生を呪いのように縛り付け、今また俺たちを切り裂こうとしている元凶。 「すごい……すごいよ、朱鷺……っ! なんだよそれ、運命じゃん……っ!」 月緋は朱鷺の肩を掴み、狂乱した紅い瞳で至近距離から朱鷺の金の瞳を覗き込んだ。 爪が朱鷺の肩に食い込み、身体が歓喜と怒りで激しく震える。 「俺が死にかけてたのも……朱鷺に拾われたのも……全部、全部繋がってたんだね……っ! 俺を殺しかけた奴の息子が、俺の神様で……俺の命も心も、全部奪っていったんだ……っ!」 激しい狂おしさが脳を焼き尽くす。 あの日、俺が死にかけたのは惨劇でも不幸でもなかった。 朱鷺と出会うため。 朱鷺の呪いになるための必然だったんだ。 「吸血鬼専門の殺し屋……? 俺を半殺しにした奴……? 関係ない、関係ないよ朱鷺……!」 俺は朱鷺の首元に激しく顔を埋め、血が上った額をすりつける。 「朱鷺の父親が俺を殺しに来るなら、来ればいい! 今度の俺は、一人じゃない……! 朱鷺が俺の隣にいるんだから……!」 朱鷺の指に嵌った指輪と、俺の指輪が重なり、鈍い音を立てる。 「その父親、絶対に許さない……。俺たちを離そうとする奴なんて……二人で、ぐちゃぐちゃに壊しに行こうよ……!」 「落ち着け。今すぐどうこうするつもりはない。俺は自分の力量は把握してる。無謀に突っ込んでお前を危険な目に合わせる程俺は馬鹿じゃない」 淡々とそう言い、月緋の涙を指で拭って視線を合わせる。 「俺は殺し屋だ。正義のヒーローじゃない。殺し屋には殺し屋のやり方がある。……だから、とりあえず落ち着け」 朱鷺は月緋を抱き寄せ、またゆっくりと背中を撫でた。 指先に伝わる温もりが、俺の目元に滲んだ涙をなぞっていく。 激しく波打っていた鼓動が、朱鷺の淡々としたどこまでも冷静な声によって、少しずつゆっくりと凪いでいくようだった。 背中を撫でる朱鷺の手のひら。 その規則正しいリズムが、狂気に跳ね上がっていた俺の頭をじわじわと現実に引き戻していく。 「……朱鷺……」 月緋は朱鷺の胸元に顔を埋めたまま、小さくその名を呼んだ。 伝わってくる朱鷺の心臓の音。 いつも通りに刻まれるその命の証だけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の錨だった。 朱鷺の言う通りだ。 俺を半殺しにした相手は、吸血鬼を殺すことに特化したプロフェッショナル。 そして、朱鷺という殺し屋を創り上げた男。 感情に任せて飛び出していけば、返り討ちに遭うのは火を見るより明らかだった。 あの日俺が味わった死の恐怖と、全身の血が乾ききる絶望。 それをもう一度繰り返すわけにはいかない。 何より、朱鷺を失う危険を冒すことなんて、絶対に出来ない。 「……わかってる」 朱鷺の背中に回した腕に力を込め、その香りを肺いっぱいに吸い込む。 「落ち着くよ……。朱鷺がそう言うなら、俺は大人しくしてる……」 朱鷺の首筋に額を預け、息を吐き出す。 朱鷺は正義のヒーローなんかじゃない。 相手がどんな奴だろうと、朱鷺は殺し屋のやり方で、最も確実に息の根を止める術を選ぶ。 「でも……約束して」 月緋は朱鷺の胸元から顔を上げ、至近距離からその美しい金の瞳をじっと見つめた。 吸血鬼の瞳が、暗がりの中で仄暗く赤く光る。 「一人で行こうなんて絶対に思わないで。俺を置いて、勝手に決着をつけようとしないで……。朱鷺の父親だろうが、何だろうが……必ず俺も一緒に連れていって」 互いの左手に嵌められた、冷たいプラチナの指輪。 死を共有し、運命を呪いで縛り合った証。 「朱鷺が死ぬなら俺も死ぬ。俺が死ぬなら朱鷺も死ぬんだから。……ねぇ朱鷺。そのクソ親父をどんな風に地獄に送るか、二人でじっくり考えよう……?」 俺は朱鷺の首元に小さく唇を寄せ、朱鷺の体温を確かめるように、静かにその背を抱き返し続けた。 二週間程が経った夜だった。 仕事を終え、朱鷺は一人耳が痛くなる程の静寂の中を歩いていた。 今回は、月緋を連れていない。 前回あんなことがあったばかりだ。 朱鷺は連れて行く気になれず、駄々を捏ねる月緋を適当に言いくるめて一人淡々と仕事をこなした。 コツコツと自分の靴音だけが響く。 そんな中、妙な気配を感じて腹ポケットに入れていたダガーに手をかけたまま、振り返った。 「……」 見慣れた顔だった。 正確には、見慣れていた顔よりも、少し年老いたように見えた。 「……何の用だ」 朱鷺から発せられたのは低く、冷たい声だった。 「始末しろと言った筈だ」 目の前の男もまた、冷たい声をしていた。 「俺は了承してない。わざわざそれだけ言いに来たのか?」 朱鷺はそう言って分かりやすく眉を寄せる。 目の前の男は、そんな朱鷺を見て小さく鼻を鳴らした。 「吸血鬼は吸血鬼を引き寄せる……か。お前を見てると、あの女を思い出す。本当に……腹立たしいよ」 そう言ってゆっくりと朱鷺に歩み寄り、その金糸のような髪を力任せに掴んだ。 吸血鬼は吸血鬼を引き寄せる? どういう意味だ。何を言っている? 朱鷺はダガーを引き抜き、男の首元にあてる。 薄皮が一枚裂け、男の病的に白い肌から細く血が滲んだ。 「離せ」 殺気を込めた声で、そう言う。 ぷつりと、首元にダガーが静かに食い込んだ。 「その瞳も、憎たらしい程に同じだ。……雲雀も、そうだったな」 「……雲雀」 男のその言葉に、ダガーの先が小さく揺れた。 朱鷺は小さく舌打ちをし、戦意を失ったように腕を下ろした。 「最後の情だ。早くあの吸血鬼を始末しろ。やるなら、自分の手の方がいいだろう?」 男も朱鷺の髪から手を離し、また小さく鼻を鳴らす。 首元から滲む血を鬱陶しそうに袖で拭い、眉を寄せた。 「……あぁ、そうだな。自分の手で片をつける」 そう言って、小さく笑う。 「俺が責任持って始末する。あんたをな」 朱鷺はそう言ってダガーをホルスターに収め、男に背を向けて歩き出した。 再び静寂が訪れる。 朱鷺はポケットから煙草を取り出し、咥えて火をつけた。 家に着きリビングのドアを開けると、不貞腐れたような顔をした月緋がソファに座っていた。 横に腰を下ろし、その細い体を抱き締める。 頭の中が、煩い。 考えるのが嫌になる程に。 「……悪かった、置いて行って。そんな顔するな」 いつもの脳天気な笑顔が見たい。 いつもの、馬鹿みたいに真っ直ぐな言葉が欲しかった。 静まり返った部屋に鍵が回る音が響いた瞬間、月緋はソファから勢いよく立ち上がりかけた。 あの日から、あっという間に二週間が経った。 あんな風に約束したはずなのに、朱鷺は俺の制止を巧みな言葉でかわし、俺を部屋に置き去りにして仕事へ向かった。 取り残されたこの部屋で、俺は狂いそうな程の孤独と焦燥感に苛まれていた。 「遅い……っ、遅いよ朱鷺……! 帰ってくるのが……」 不貞腐れた顔のまま文句を叩きつけようとリビングのドアへ視線を向けた、その時。 ドアを開けて入ってきた朱鷺の全身から漂う、尋常ではない緊張感と、どこか酷く消耗したような気配に息が詰まった。 朱鷺は一言も言わずに俺の隣へ腰を下ろすと、そのまま吸い寄せられるように、俺の体を力強く抱きしめてきた。 「……悪かった、置いて行って。そんな顔するな」 耳元で聞こえたその声は、いつもの気怠さの中に、隠しきれないほどの歪みと深い疲弊を孕んでいた。 「……朱鷺……?」 朱鷺の腕の中で、心臓が跳ね上がる。 ただの仕事終わりじゃない。 家を出ていた二時間か三時間の間で、朱鷺の身に何か決定的な異変が起きた。 それを吸血鬼としての本能が敏感に感じ取る。 朱鷺の体から、薄っすらと漂う見知らぬ血の匂い。 月緋は朱鷺の背中に手を回し、しがみつくように指先を朱鷺の服に食い込ませた。 不貞腐れていた感情なんて、一瞬でどこかへ霧散していた。 「……ねぇ、朱鷺。何があったの……?」 月緋は朱鷺の首筋に顔を埋め、その肌の温もりと脈動を貪るように確かめる。 「誰に会ってきたの……? 朱鷺の匂い、いつもと違う……。すっごく冷たくて、……すっごく、苦い匂いがする」 俺は抱きしめられたまま首を少し傾げ、朱鷺の金の瞳を覗き込んだ。 その瞳の奥で揺れている、見たこともない暗い影。 それを見た瞬間、胸の奥で、朱鷺を傷つける全てに対する凶暴な殺意と、朱鷺の全てを独占したいという狂おしい愛おしさが混ざり合って溢れ出した。 「俺のこと置いていった罰として、隠し事なしで教えてよ。……朱鷺をそんな顔にさせた奴、だれ? もしかして……父親に会ってきたの……?」 月緋は朱鷺の頬を両手で優しく包み込み、自分の額を朱鷺の額にそっと重ねた。 「ねぇ朱鷺。俺を頼ってよ……。俺に笑ってほしいなら、いくらでも笑ってあげる。でも、一人で抱え込むのは許さない。朱鷺の頭の中を狂わせてるもの、全部俺に頂戴……?」 月緋の吸血鬼特有の低い体温が、妙に心地良かった。 頭の中は相も変わらず煩いが、漸くしっかりと呼吸が出来たような気がした。 ポケットから煙草を取り出し、咥えて火をつける。 別に月緋に隠すつもりもない。 しかし、まだ言語化出来る程思考を整理出来ていない。 ゆっくりと煙を吐き出し、朱鷺は静かに目を細めた。 あの女を思い出す、とあの男は言った。 それは、母親のことだろう。 母親はほとんど記憶に残っていない。 朧気にあるのは、生まれたばかりの雲雀を抱いていた姿。 そしてその姿は、確かに自分と同じ金色の髪をしていた。 それ以外は覚えていない。 死んだのか、消えたのかも知らない。 あの男は、何も語らなかったからだ。 ただある日日常から、母親が消えた。 では、吸血鬼は吸血鬼を引き寄せる、とは? 何かの比喩表現か? しかし、あの男がそんな無駄なことを言うとも思えない。 吸血鬼は、自分の周りには知っている限り月緋しかいない。 引き寄せる。 引き寄せた? 月緋が? それとも、俺が、か。 ぞわりと背筋に嫌な感覚がした。 バラバラに散らばっていたピースが、無理矢理嵌め込んだらぴったりと嵌ってしまったような感覚だった。 灰皿に煙草の灰を落とし、またゆっくりと深く吸い込む。 一つ嵌ってしまえば、勝手に組上がっていく。 それが、酷く不愉快だった。 「俺は、多分吸血鬼の血を引いている」 それが、朱鷺が出した答えだった。 「俺は、多分吸血鬼の血を引いている」 吐き出された紫煙の向こう側で落ちたその言葉は、静まり返った部屋の空気を一瞬で氷つかせるのに十分すぎた。 「……は……?」 朱鷺の頬を包んでいた俺の手から、すっと力が抜ける。 喉の奥が引き攣り、乾いた呼吸が漏れた。 朱鷺の口から出た言葉の意味を、脳が正常に処理することを拒絶している。 朱鷺が……吸血鬼の、血を……? 「な、に……言ってるの……? 朱鷺……」 俺は引き攣った笑みを浮かべようとしたが、唇が上手く動かなかった。 朱鷺の金色の瞳。 夜の暗がりの中でも、微かな光を拾って鋭く輝くその美しさ。 傷の治りの異常な早さ、常人離れした身体能力、そして何より、出会った時からずっと俺を狂わせ、惹きつけてやまなかった、あの甘く脈打つ血の匂い。 あの日、雨が降り頻る路地裏で死にかけていた俺。 そこに通りかかった朱鷺。 ただの偶然だと思っていた。 奇跡のような運命だと思っていた。 けれど……もし、それが偶然ではなく、朱鷺の体内に眠る"血"が、引き寄せたのだとしたら? 「朱鷺のお母さんが……吸血鬼だったってこと……?」 声が、酷く震えていた。 狂気でも怒りでもない。 見たこともない、底知れない感情が胸の奥底から噴き出してくる。 朱鷺は、俺と同じ側だったのか? 俺を救った人間の神様ではなく、俺と同類の、暗闇に生きる存在だったというのか? 「あ……あはっ……」 俺は朱鷺の胸元に再び縋り付くようにして、顔を埋めた。 心臓の鼓動がうるさい。 朱鷺の心音と俺の心音がズレ始め、不協和音を奏でていく。 「なにそれ……、なにそれ……! 最高じゃん……っ!!」 月緋は朱鷺の首筋に激しく顔を押し付け、半ば悲鳴のような声を上げた。 「朱鷺が俺と同じ血を引いてるなら……朱鷺が人間じゃなくて、吸血鬼なら……っ! 朱鷺が歳を取って俺を置いて死んでいくこともないの……? 俺とずっと、永遠に同じ暗闇の中で生きていけるの……!?」 歓喜に濡れた叫び。 だがその裏側にあるのは、どこまでも深い戸惑いと歪んだ恐怖だった。 朱鷺という存在の輪郭が、目の前でガラガラと崩れ去り、新しい形へと再構築されていく。 俺は朱鷺の首筋に唇を寄せ、その肌から匂い立つ血の香りを貪るように吸い込んだ。 「教えて、朱鷺……! その答えに辿り着いて、朱鷺はどうしたいの……!? 自分の体に流れる血が嫌? それとも……俺と同じだってことに、少しでも救われた……?」 俺の紅い瞳が、暗がりの中で怪しく狂暴に明滅する。 朱鷺が何者であろうと、俺の"神様"であることに変わりはない。 けれど、この新しく嵌まった最悪で美しいピースは、俺たちの運命をさらに深く、逃げ場なく引きずり込んでいくのが分かった。 「……まだ分からない。今のところ、その可能性が高いってだけだ」 朱鷺は煙を吐き出し、苦々しい表情でそう言う。 しかし、この仮説のままでいくのなら。 余りにも最悪なパズルのピースまでもが嵌ってしまう。 自分が吸血鬼の血を引いているなら、弟もまた同じだ。 弟は、路地裏で殺されていた。 その殺し方から、殺し屋にやられたのだろうと考えた。 弟の近くには別の人間が一人死んでいた。 だから俺はそいつがターゲットで、弟は巻き込まれたのだろうと思っていた。 それが、そもそも間違っていたのだとしたら? 弟がターゲットで、その人間が巻き込まれただけなのだとしたら? いくら調べても、弟を殺した奴を見付けられなかった説明がつく。 普通の殺し屋じゃなかったからだ。 そして、その吸血鬼の血を引く弟を殺す必要がある存在。 それは、吸血鬼専門の殺し屋に他ならない。 吸血鬼を憎む、あの男以外有り得ない。 そうなると、なぜ自分は殺されていないのか。 殺すことが目的じゃないのか? 自分を、同じ道に引き摺り落とすためか。 じゃあ、雲雀は。 ……俺を、復讐に駆り立てるためだけに、殺されたというのか。 それだけのために。 それだけの、理由で。 「どうしたいか、か」 朱鷺は煙草を灰皿に押し付け、静かに月緋の顔を見やった。 「俺が吸血鬼かどうかなんてどうでもいい。お前が吸血鬼かも、どうでもいい。俺は俺で、お前はお前。それ以上でも以下でもない」 力任せに握り込んだ拳から、指輪と骨が軋む音がする。 「あの男を殺す。……それが、俺の最後の仕事だ」 金色の瞳が、覚悟と復讐を秘めて鈍く揺れた。 「あの男を殺す。……それが、俺の最後の仕事だ」 指輪と骨が軋む不穏な音。 鈍く光を宿す、息を呑むほど美しい金の瞳。 そこにはもう、迷いも、諦めもなかった。 あるのはただ、己を創り上げ、人生を狂わせた元凶に対する、果てしない殺意と覚悟だけ。 「……あはっ……あはは……っ!」 俺は抑えきれずに、小さく狂おしい笑いを漏らした。 朱鷺の頬を撫でる俺の手が、歓喜と興奮で激しく震える。 「そうだよね……!朱鷺が何者かなんて関係ない……! 朱鷺は俺の朱鷺で、俺は朱鷺の月緋。それだけでいい……、それだけで十分なんだ……!」 俺は朱鷺の首元に両腕を回し、折れんばかりの力でその体を抱きしめた。 朱鷺の皮膚の下で脈打つ、甘く狂おしい血の音。 それが人間のものであろうと、吸血鬼のものであろうと、俺にとっては世界で唯一の"神様"の証だ。 「最後の仕事……いいね、朱鷺。すっごく素敵……」 朱鷺の耳元に唇を寄せ、冷たい吐息を吹きかける。 暗がりの中で、月緋の赤い瞳が狂暴に、そしてどこまでも愛おしそうに歪んだ。 「朱鷺を呪いの中に閉じ込めたそのクソ親父を……俺たち二人で、絶望のどん底に叩き落としてあげよう……? 自分の手で育て上げた最高傑作に殺される気分がどんなものか、たっぷりと教えてあげるんだ……」 自分の左手を、朱鷺の握りしめられた拳の上に重ねる。 指輪がぶつかり合い、冷たい音を立てた。 「逃がさないよ、絶対。朱鷺の過去も、未来も、その血の一滴まで……俺が全部抱えてあげる。だから、最高の仕事にしようね……朱鷺」 翌日の夕方頃、朱鷺は普段触ることもないデスクの引き出しを開け、ある物を取り出してポケットに突っ込んだ。 「出掛ける。付いて来い」 ソファに座っていた月緋にそう声をかけ、朱鷺は玄関へと歩き出す。 昨日の話は、仮説に過ぎない。 しかし、仮説で終わらせるには余りにも出来すぎている。 だからと言って確証を得ぬまま感情で動く程、馬鹿でもない。 「少し歩く。気分転換にもなるだろ」 朱鷺は訝しげな顔をして付いて来た月緋にそう言って、小さく笑った。 「出掛ける。付いて来い」 淡々とした声。 けれど、その短く吐き出された言葉には、昨日までの迷いや混乱を削ぎ落とした静かな芯が通っていた。 ソファに深く沈み込んでいた月緋は、朱鷺の動作を目で追いながら立ち上がる。 「……ねぇ朱鷺。どこに行くの? 」 訝しげに眉を寄せ問いかけながらその背中を追う月緋に、朱鷺は玄関のドアノブに手をかけたまま振り返り小さく口角を上げた。 「少し歩く。気分転換にもなるだろ」 嘘だ。 気分転換なんて言葉、朱鷺の辞書には端から存在しない。 夕闇が街を黒く塗りつぶしていく時間帯。 街灯が灯り始める路地に踏み出すと、朱鷺の歩幅に合わせて俺も隣に並んだ。 「……ふふ、嘘つき。そんな顔して気分転換なわけないじゃん」 冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。 「いいよ、どこへでも連れて行って。朱鷺が行く場所なら、俺は喜んでその隣を歩くから。」 月緋は朱鷺の腕にそっと自分の腕を絡め、暗がりの中へ歩を進めた。 目的地に辿り着く頃には、既に辺りは真っ暗になっていた。 慣れ親しんだ、夜の静寂だ。 住宅街の中を迷い無く進み、朱鷺はある一軒家の前で立ち止まった。 見知った外観。そこだけ時が止まったかのように、あの日々のままで残されている。 朱鷺は門を開け、ゆっくりと歩く。 玄関の扉の前で歩みを止め、ポケットから古びた鍵を取り出してその扉を開けた。 中は当たり前に暗く、埃っぽい。 しかし、まだあの男が時折帰って来ているのだろう。 電気のスイッチを押すと、照明は何の躊躇いも無く玄関を照らした。 廊下を少し歩き、階段を上る。 二階の廊下の突き当たりにある部屋の扉を、朱鷺はゆっくりと開いた。 生活感の残る部屋。 そこは、子供の日常が取り残されていた。 「何か適当に写真とか探してくれ」 朱鷺はそう言って、勉強机の引き出しを開けた。 机の上に置かれていたのは、幼き日の朱鷺と雲雀が写された古い写真。 朱鷺はそれに視線をやり、小さく呼吸を止めて視線を逸らした。 「……ここ、朱鷺の家……?」 さっきまで隣で弾んでいた俺の声が、門をくぐった瞬間に息を潜めた。 朱鷺がポケットから取り出した古びた鍵。 重い音を立てて解錠された玄関扉が開くと、鼻をつく埃の匂いと、微かに残る誰かの生活臭が混ざり合った独特の空気が漂ってくる。 電気のスイッチが入り、灯った無機質な光が廊下を照らし出す。 階段を上る朱鷺の靴音を追って二階へ上がる。 突き当たりの部屋。 朱鷺の手によって開かれた扉の向こうに広がっていたのは、残酷なまでに普通の子供の日常だった。 「何か適当に写真とか探してくれ」 朱鷺の言葉に従い、月緋は部屋の中に足を踏み入れた。 本棚やクローゼットへ向かおうとした時、勉強机の上に残された一枚の古い写真が目に入る。 そこに写っていたのは、幼い頃の朱鷺と、その隣で屈託のない笑顔を浮かべる小さな少年。 朱鷺と同じ、あたたかな金の髪。 朱鷺が一瞬だけ息を止め視線を逸らしたのを、月緋は見逃さなかった。 胸の奥が締め付けられる。 ここには、朱鷺が奪われた温もりの痕跡が、生々しく残りすぎている。 「……写真、だね。分かった」 月緋は朱鷺の横顔からそっと視線を外し、部屋の奥の棚やアルバムらしきものが並ぶ本棚へと歩み寄った。 爪で埃のかぶった背表紙をなぞりながら、片っ端から引き抜いてページをめくっていく。 探しているのは、幸せな家族の思い出なんかじゃない。 その裏に隠された、異物。 "吸血鬼"の痕跡だ。 「朱鷺……」 アルバムをめくる手が止まる。 俺は本棚の陰から、朱鷺に声をかけた。 「朱鷺のお母さん……写真、全然写ってないよ。家族写真みたいなページにも、雲雀くんと朱鷺と……父親らしき男しか写ってない。……意図的に切り取られたみたいに、綺麗に、一枚も」 月緋は破り取られた跡が残るアルバムのページを指でなぞりながら、紅い瞳を怪しく光らせた。 「ねぇ朱鷺。この家……何かがおかしいよ。お母さんの痕跡だけが、誰かの手で完璧に消されてる」 朱鷺は開いていた引き出しを雑に閉めると、月緋に歩み寄りその手のアルバムを抜き取った。 ぱらぱらと捲り、目を通す。 月緋の言う通り、そこには一枚たりとも母親の姿は無かった。 「……」 朱鷺はアルバムを閉じて机に置くと、部屋から出てその隣の扉の前に立った。 母親が消えた後、入るなと何度も念押しされた部屋。 鍵がかけられ、幼き頃の自分も雲雀も近付くことすら躊躇われた部屋。 朱鷺はその部屋の扉を、思い切り蹴破った。 目の前に広がったのは、底知れぬ憎悪だった。 粉々に割られた鏡。ズタズタに引き裂かれた衣類。跡形もなく叩き潰された化粧品。憎しみのままに突き立てたであろう、枕に刺さったナイフ。 そして、焼け焦げた数枚の写真。 ゆっくりと部屋に入り、床に落ちていた写真を拾い上げる。 半分程顔が焼け焦げてしまった、金髪の女。 穏やかに笑うその女は、朱鷺によく似ていた。 あぁ、そういえば。 母さんは、よく夜に散歩に連れ出してくれた。 雲雀を片手に抱き、もう片方の手で俺の手を握ってくれた。 白く、冷たい手だった。 「……もう、いい。帰るぞ」 朱鷺は写真を床に置き、そう言う。 確かめるように触れた月緋の手は、白く、やはり冷たかった。 鋭い破壊音が無機質な廊下に響き渡り、焦げ臭い匂いと古い埃の混ざり合った異臭が、開け放たれた部屋から溢れ出してきた。 朱鷺の蹴破った扉の先。 そこに広がっていたのは、"開けてはならない箱"の中身だった。 激しい暴力の痕跡。 憎悪と執着によってズタズタに破壊され、腐敗した感情の死骸のように放置された部屋。 床一面に散らばる割れた鏡の破片は灯りの下で冷たく光を反射し、壁や家具には何度も刃物を叩きつけたような無数の深い傷跡が刻まれていた。 「……朱鷺……」 月緋は朱鷺の後ろからそっとその部屋を覗き込み、息を呑んだ。 床に散らばる、半分以上が黒く焼け焦げた写真。 朱鷺が静かにそれを拾い上げるのを、息を殺して見守った。 火に包まれ、焼き尽くされそうになりながらも、奇跡的に残った写真の端。 そこに写っていたのは、柔らかく微笑む金髪の女性だった。 朱鷺と同じ、夜の闇を溶かしたような美しく切ない金の髪。 どこか儚げで、けれど凛とした面影。 朱鷺は写真をじっと見つめたまま、一言も発しない。 「……もう、いい。帰るぞ」 唐突に沈黙が途切れ朱鷺はそう呟くと、拾い上げた写真を床に落とした。 狂気で満ちた部屋を背にし、廊下へと出る。 その表情は、どこまでも冷たく、静かだった。 朱鷺の手が、俺の手に触れる。 朱鷺の手は、俺よりも少し温かい。 それに対して俺の手は、血の通わない吸血鬼の冷たさそのものだった。 コツコツと、静かな夜の道に二人の靴音だけが響く。 父親のことを考えていた。 あそこまで憎悪に歪んだ理由。 ただの憎しみではないのだろうと、朱鷺は思った。 愛情の反対は憎しみではない。 無関心なのだから。 何故壊れたのかは知らない。 興味も無い。 仮説が仮説でなくなった以上、何をするかはもう決まっている。 自分が殺し屋になった責任をあの男に擦り付けるつもりはない。 しかし、何の罪もない弟の命を奪ったその代償は、命をもって償わせる。 「……雲雀は、よく笑うやつだった。俺が適当にあしらっても、いつも後ろから付いて来ていた」 朱鷺はポケットから煙草を取り出し、咥えて火をつける。 「あいつは、もう死んだ。死んだ他人のことなんて、皆すぐに忘れる。だが、お前には、……お前にも、覚えていてやってほしい。俺のエゴだがな」 煙を吐き出し、そう言って小さく笑った。 「雲雀は、よく笑うやつだった。俺が適当にあしらっても、いつも後ろから付いて来ていた」 朱鷺が自分から、弟のことを口にしたのは、これが初めてだった。 かつて朱鷺の後ろを笑いながら付いて歩いていたという、小さな金髪の男の子。 朱鷺と同じ血を引き、朱鷺と同じように温かい血を流して、冷たい路地裏で命を奪われた存在。 「あいつは、もう死んだ。死んだ他人のことなんて、皆すぐに忘れる。だが、お前には、……お前にも、覚えていてやってほしい。俺のエゴだがな」 吐き出された煙の向こうで、朱鷺が浮かべた小さく切ない笑み。 「……っ」 胸が、狂いそうなほど痛んだ。 そして同時に、言葉にならないほどの甘く重い歓喜が、じわりと広がる。 エゴ? 朱鷺が俺に、自分の大切な死者の記憶を刻みつけようとしている。 他の誰でもない、俺に。 覚えていてほしいと、朱鷺の口から俺に願ってくれた。 「……忘れるわけないじゃん」 俺の声は、夜の暗闇の中に低く、掠れて響いた。 「朱鷺が愛した弟のことも……朱鷺を苦しめてきた過去も……朱鷺が流した血も……俺が忘れるわけないでしょ。朱鷺の全ては、俺の脳に、心臓に、この命に刻み込まれてるんだから」 冷え切った指先で、朱鷺の手を握りしめる。 「雲雀くんのことも、ちゃんと覚えておくよ。朱鷺の大切な弟として……俺の神様を作ってくれた、大切な家族としてね」 朱鷺が何を思って父親に復讐しようとしているのか。 弟の無念を晴らすためか、奪われた人生を取り戻すためか。 そんな理由は、俺にとってはどれでもよかった。 朱鷺があの男を殺すと決めたなら、俺はその刃となり、凶器となり、朱鷺の欲望のままにあの男の肉を裂くだけだ。 「仕留める算段が立った」 数日後の夕暮れ時、ソファに腰掛け煙草を燻らせながら、朱鷺はそう言った。 「あいつは、あの家に俺が行ったことには間違いなく気付いている。ドアもぶち壊してるしな」 ふっと小さく笑い、煙を吐き出す。 「俺がもう一度あそこに行って、"あの場所"で仕留めに来るとあいつは考える筈だ。それを逆手に取る」 煙草の灰を灰皿に落とし、淡々と説明していく。 「必要なもんも届いた。俺が隙を作る。お前は、その隙を逃さずに致命傷を入れろ」 朱鷺はテーブルの上に雑に置かれた小包を指でコツコツと鳴らした。 「あいつは、俺に使える物は全て使え、情を捨てろと叩き込んだ。……その教え通りに、殺す。今夜もう一度あの家に行く。準備しとけ」 そう言って煙草を深く吸い込み、灰皿に強く押し付けた。 夕闇が部屋をゆっくりと侵食し、朱鷺の吐き出す煙草の紫煙が鈍い茜色に染まっていく。 ソファに深く背を預けた朱鷺の言葉は、まるで明日の天気でも語るかのように静かだった。 「仕留める算段が立った」 その一言が落ちた瞬間、俺の全身の血が激しく跳ね上がった。 待ち望んでいた瞬間。 朱鷺を縛り続けてきた過去という歪んだ鎖を、完全に叩き潰すための時が来た。 朱鷺は灰皿に煙草の灰を落とし、計画を淡々と口にしていく。 蹴破られたドア、暴かれた秘密の部屋。 あの男が、自分の領域に足を踏み入れられたことに気付かないはずがない。 朱鷺が再びあの惨劇の舞台へ戻り、自分と決着をつけに来ると踏んで待ち伏せをする、その驕りと予測を、そっくりそのまま罠に仕立て上げる。 「俺が隙を作る。お前は、その隙を逃さずに致命傷を入れろ」 テーブルの上に無造作に置かれた小さな小包。朱鷺の指先がコツコツと叩く乾いた音が、静寂な室内に響く。 中身が何であるか、訊く必要もなかった。 朱鷺が用意した道具であり、朱鷺が張り巡らせた罠のピースの一つに過ぎない。 「……ふふ、あははっ……!」 月緋の口から、抑えきれない笑みが漏れた。 朱鷺の横に腰を下ろし、その肩に自分の頭を預ける。 立ち上る煙草の匂いと、冷ややかな殺意の混ざり合った香りが、俺の理性を心地よく痺れさせていく。 朱鷺が"俺"を凶器として使うこと。 俺という吸血鬼の圧倒的な暴力を最大の切り札として配置したこと。 それが堪らなく愛おしく、誇らしい。 「俺は朱鷺の作る隙を、絶対に無駄にしないよ。朱鷺が作った一瞬の隙に、あの男の首を刈り取ってあげる」 朱鷺が深く煙草を吸い込み、灰皿に強く押し付けて消す。 煙が途絶え、部屋の中に落ちた完璧な静寂。 俺はゆっくりと立ち上がると、暗がりの中で紅く妖しく光る瞳を朱鷺に向け、胸元に手を当てて優雅に一礼してみせた。 「準備なんて、あの家を出た時からずっと出来てるよ。……行こう、朱鷺。俺たちの手で、あいつの時間を永遠に止めてあげよう」 静かな、静か過ぎる住宅街。 あの家の前で、朱鷺はまた立ち止まった。 裏口に回り、木を伝って二階のベランダに降り立つ。 小包を乱雑に開けて中身を取り出すと、箱をベランダに放り捨てた。 取り出した物を装着し、朱鷺は窓の鍵を慣れた手付きで開け、中へと侵入した。 この間見た時と変わらない、憎しみで時を止められた部屋。 中を見ることすら許せなかったのか、蹴破って開け放たれていた扉はまた固く塞がれていた。 「どこかの影に潜め」 朱鷺は短くそう言い月緋が隠れるのを見届けると、置かれていたドレッサーを力任せに倒した。 重く嫌な音が響いた。 そして、すぐにまた静寂に包まれる。 そんな中、耳を澄まさねば聞き取れないくらいの小さな足音が聞こえた。 ゆっくり、ゆっくりと階段を上り、部屋の前で止まる。 朱鷺は、ただ静かに部屋の中心に立っていた。 開け放たれた窓から夜風がカーテンを揺らし、朱鷺の身に付けた長い金髪がふわりと舞った。 扉が静かに開く。 「……鶫……!」 銃を構えたまま部屋に一歩踏み出した男は、朱鷺の姿を捉えて目を見開いた。 扉の影、破砕された家具が描く闇の輪郭の中へ、月緋は音もなく身体を滑り込ませた。 息を止め、存在感を限りなくゼロに沈める。 視界の端で捉えたのは、部屋の真ん中に佇む朱鷺の姿だった。 小包の中から取り出し、身にまとったもの。 それは、あの焦げた写真に写っていた女の面影だった。 「どこかの影に潜め」 朱鷺の命に従い、月緋は暗闇の中で爪を研ぐ。 忍び寄る足音。 階段を一段、また一段と踏みしめる酷く静かな、しかし殺気を孕んだ微かな気配。 扉が開いた。 「……鶫……!」 男の口から漏れた、驚愕と掠れた声。 「鶫」 それが、朱鷺の母親の名か。 男の構えた銃口が、一瞬、ほんの僅かに揺らぐ。 男の瞳を支配したのは、長年培った殺しの本能ではなく、一瞬の困惑と、心の底から湧き上がる深淵のような執着だった。 完璧な"隙"。 朱鷺が作り出した、致命的な罠。 男の意識が、亡霊の幻影に奪われたその瞬間、月緋の全身の筋肉が動いた。 闇を切り裂くような速度で、男の死角から跳躍する。 紅く発光する瞳。 剥き出しになった鋭い犬歯。 狙うのは、銃を構える男の腕でも、足を止めることでもない。 朱鷺から命じられた通り——"致命傷"だ。 闇の中から躍り出た鋼のように硬く研ぎ澄まされた爪が、男の首元へと容赦なく振り下ろされた。 首元が切り裂かれ、男はごぽりと血を吐き出し片膝をついた。 朱鷺はウィッグを放り捨て男に歩み寄り手に持っていた銃を奪い取ると、銃口をその額に押し当てた。 「……あんたの教え通りだっただろう」 そう言って、引き金に指をかける。 男は朱鷺に視線をやることも無く、小さく笑った。 「……お前、が、持って、いろ」 潰れた喉からひび割れた声を出し、男はポケットからくしゃくしゃになった一枚の写真を取り出して朱鷺に差し出す。 朱鷺はそれに視線を落とし、言葉を詰まらせた。 いたずらっぽく笑う、母親の姿。 朱鷺はそれを黙って受け取り、引き金を引いた。 眉間に一発。 これで、復讐は終わった。 復讐は何も生まないなんてよく聞く綺麗事、心底くだらないと思っていた。 しかし、どうだ。 今自分の心を埋め尽くしているのは、達成感なんかじゃない。 ただの、虚無感だ。 「……月緋、帰るぞ」 銃をパーカーの腹ポケットに入れ、写真に視線を落とす。 朱鷺はそれを父親の死体の手に握らせ、玄関へと歩き出した。 「……月緋、帰るぞ」 朱鷺の声は、まるで遠い異国から届いたかのように無機質だった。 手にした銃をパーカーの腹ポケットに突っ込むと、朱鷺は手の中の写真に最後の一瞥をくれる。 そして、その写真を血に染まった父親の冷たい指先へと握らせた。 それ以上死体を見ようともせず、朱鷺は背を向けて静かに歩き出す。 俺は言葉を失ったまま、朱鷺の後ろ姿を見つめていた。 男の首元を割いた俺の爪には、まだぬるい血がねっとりとこびりついている。 吸血鬼の本能がその血を要求して喉を鳴らしていたが、今の俺にはそれすらもどうでもよかった。 朱鷺の背中に漂う、耐えがたいほどの孤独と喪失感。 父親を殺したことで、朱鷺を繋ぎ止めていた最後の糸が切れてしまったかのように見えた。 「朱鷺……」 月緋は破砕された扉を抜け、闇の中へと消えていく朱鷺の後を必死で追った。 この場所を抜け出し、二人だけの暗がりへ戻るために。 そして、全てを失って空っぽになってしまったその胸の虚無を、俺だけで無理矢理にでも埋め尽くすために。 家に着き、ソファに座って煙草を咥えて火をつける。 いつも通りの見慣れたリビング。 しかし、どこか色褪せて見えた。 生きる意味を失った。 復讐という歪んだ目的だけでここまで生きて来た。 もう、ない。 なにもない。 殺す理由も、生きる理由も。 煙を吐き出し、ゆっくりと視線を下げる。 薬指で鈍く光る指輪が視界に入り、それをただ静かに見つめた。 朱鷺がソファに深く沈み込み、煙草に火をつける。 ゆらりと立ち上る紫煙を、俺は少し離れた場所からじっと見つめていた。 朱鷺の瞳から、完全に光が消えている。 朱鷺の全身から溢れ出るのは、どこまでも深く、底のない"無"。 目的を果たした後に訪れる、果てしない喪失と虚無。 朱鷺の視線がゆっくりと落ち、自身の左手、薬指に嵌められた指輪へと注がれる。 月明かりを受け、鈍く、静かに光を反射するそれ。 月緋と朱鷺を結びつける、確かな証。 「……朱鷺」 月緋は音もなく歩み寄り、ソファの前に跪いた。 朱鷺の膝の間に自分の体を滑り込ませ、下からその金の瞳を見上げる。 朱鷺の左手を、両手でそっと包み込んだ。 冷え切った朱鷺の指先。 その薬指にある指輪の上を、月緋の指先が愛おしそうになぞる。 かちりと同じ指輪が触れ合い、小さな金属音を立てた。 「……なんにもなくなった、って顔してるね」 月緋の声は、夜の闇に溶けるほど優しく、どこまでも甘く歪んでいた。 「殺す理由も、生きる理由も……朱鷺を縛っていたもの、全部消えちゃったんだ」 月緋は朱鷺の左手を引き寄せ、その薬指にそっと唇を落とした。 吸血鬼の冷たい唇が、朱鷺の皮膚に触れる。 「ねぇ、朱鷺。忘れないでよ……。俺がいるじゃん」 指輪から唇を離し、そのまま縋るように、逃がさないように、朱鷺の顔を見つめる。 月緋の紅い瞳が、暗がりの中で妖しく揺れていた。 「生きる理由がないなら……、これからは、俺のために生きてよ」 朱鷺が吐き出した煙草の煙が、二人の間を漂う。 月緋はその煙ごと朱鷺の存在を飲み込むように、ゆっくりと手を伸ばして朱鷺の頬に触れた。 「朱鷺が俺を路地裏から拾ってくれた時から……俺の生きる理由は、朱鷺だけなんだよ。朱鷺が俺の神様で、生きがいなんだ。……今度は、俺が朱鷺の"理由"になってあげる」 朱鷺の頬を撫でる指先に、少しだけ力を込める。 逃がさない。 この虚無の淵から、どこへも行かせない。 死に場所を探すことすら、許さない。 「復讐が終わったなら、これからは俺だけのものになって。俺の愛だけで、その空っぽになった胸の中、全部埋め尽くしてあげるから……」 俺は朱鷺の咥える煙草の火をじっと見つめながら、狂おしいほどの執着を込めて囁いた。 「……ねぇ、朱鷺。俺じゃ、だめ……?」 頬に触れる、冷たい体温。 どこか懐かしく、静かに胸を抉った。 煙草を灰皿に押し付ける。 煙草の煙すら、今は煩わしかった。 「……理由」 生きる理由。 俺に、唯一残されているもの。 吸血鬼は吸血鬼を引き寄せる、か。 本当にそうだ。 俺の人生は、最初から最後まで吸血鬼に狂わされている。 しかし、この銀髪の吸血鬼以外生きる理由にしたいものなんて無い。 「……あぁ。とっくにお前のもんだ。俺の過去も未来も、……全部お前にやるよ」 朱鷺は月緋の左手を取り、その薬指に唇を落とした。

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