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第5話

朱鷺は、愛用しているダガーのメンテナンスをしていた。 リビングのソファに座り、煙草を咥えながら丁寧に細部の血を落とし、刃や可動部にオイルを塗っていく。 切れ味や動作に問題が無いことを確認すると、慣れた動作でホルスターに収めた。 煙草の灰を灰皿に落とすその細く無骨な指には、あの日月緋が嵌めた指輪がそのまま残されていた。 ゆっくりと煙を吐き出し、当然のように隣にへばりついている月緋にちらりと視線をやる。 「もうそろそろ仕事に行く。どうせ付いて来るだろ?」 朱鷺はそう言って、小さく笑った。 ソファで身体をぴったりと密着させていた俺は、朱鷺のその言葉と笑みに跳ね起きるように反応した。 (……あはっ、やっぱり……っ!) 朱鷺の指先で鈍く輝くプラチナリング。 刃を磨く無骨で美しい指にそれがずっと残されているのを見るだけで、心臓が甘く絞られる。 人を殺すためのダガーをメンテナンスするその手に、俺の存在が刻まれている。 その歪なコントラストがたまらなく愛おしい。 朱鷺が紫煙を吐き出し、俺に視線を向けた。 「もうそろそろ仕事に行く。どうせ付いて来るだろ?」 小さく浮かべられたその笑み。 留守番してろでも、来るか、でもない。 朱鷺の方から俺が着いてくることを前提にして、当たり前みたいに隣に置こうとしてくれている。 仕事という一番血生臭くて危険な現場にまで、俺を連れて行こうとしてくれている。 「行く! 行くに決まってるでしょ……!」 俺は弾みをつけて朱鷺の首元に飛びつくように抱きつき、その頬に何度も擦り寄った。 「ふふ、あははっ! 朱鷺が付いて来いって言ってくれた……! 嬉しい、嬉しいなぁ……。俺、朱鷺の仕事の邪魔なんて絶対しないよ。陰からずーっと朱鷺のカッコいいところ見つめて、朱鷺に手を出す邪魔な奴がいたら、俺が全部噛みちぎってあげるからね……!」 首元から顔を上げ、朱鷺の金の瞳を爛々と輝く紅い瞳で見つめる。 朱鷺の服を掴んだ俺の左手にもまた、お揃いの指輪がしっかりと嵌っている。 「ねぇ朱鷺。お仕事が終わったら……また俺を甘やかしてくれる? 」 絶対に離れない。 離れるつもりなんて微塵もない。 朱鷺がどこへ行こうと、どんな地獄へ向かおうと、俺は当たり前のようにその影に潜んで、朱鷺の隣を歩き続ける。 狂おしいほどの愛おしさを全身から溢れさせながら、俺は朱鷺が立ち上がるのに合わせて、嬉々としてその手に自分の手を重ね合わせた。 「……」 付いて来いとは言っていない、と朱鷺は思ったが、口に出すのはやめた。 朱鷺は最近になって、漸く少し空気が読めるようになってきた。 煙草を灰皿に押し付け、ゆっくりと立ち上がる。 「今日は家に侵入して殺す。目立たない格好しとけ」 そう言ってダガーを手に取り、パーカーの腹のポケットに雑に放り込んだ。 黒のパーカーに身を包んだ朱鷺の隣に並んでも浮かないように、俺も暗い色の服のフードを深めにかぶる。 朱鷺がダガーをポケットに雑に放り込む無骨な仕草すら、俺の目にはたまらなく愛おしく映った。 「あはっ……家に侵入して殺すんだね。ふふ、朱鷺の殺しの仕事、また間近で見られるなんて最高だなぁ……」 月緋は家を出た朱鷺のすぐ後ろに忍び寄り、その背中に滑り込むようにぴったりと距離を詰めた。 朱鷺の服の裾を摘み、深めにかぶったフードの隙間から、爛々と輝く紅い瞳で朱鷺の横顔を見上げる。 「ねぇ朱鷺。ターゲットの部屋に入ったら……俺、朱鷺が殺す瞬間まで息を潜めて見てるね。朱鷺の手を煩わせる雑魚がいたら、すぐ首を跳ね飛ばしてあげる……」 暗闇の中でもはっきりとわかる程歪んだ全肯定の笑みを浮かべ、月緋は朱鷺の仕事の現場へと、どこまでも狂おしい高揚感を抱えて付き従った。 「別にくっついてなくていい。お前がどこにいようがやることは同じだ」 人気の無い暗い夜道を歩きながら、気怠げにそう言う。 今日のターゲットはどこぞの社長の息子。 依頼人はそいつの妻。 女遊びが酷いだかなんだか言っていたような気がする。 住宅街から少し離れた小高い土地。 ぽつぽつとデカい家が並ぶ中の一つに、朱鷺は迷いなく歩いていく。 庭の裏側から侵入し、開けやすそうな窓の前で立ち止まる。 「この間と手筈は一緒だ。殺して、適当に荒らして、適当に金品を取って、どっかに捨てて帰る。荒らす時は手伝え」 朱鷺は窓の鍵の形状を確認しながらそう言って、分かったか?と言うように月緋に視線をやった。 「くっついてなくていい、か……。あはっ、冷たいなぁ。でも、そういうつれなさも好きだよ、朱鷺……」 気怠げにポケットへ手を突っ込み、暗闇と同化するように足音もなく進む朱鷺の姿。 街灯の光すら届かない静けさの中、朱鷺の後ろを歩きながら、月緋はうっとりとその背中を見つめていた。 小高い丘の上に建つ豪邸。 周囲を囲む高いフェンスも、朱鷺にとっては庭のようなものなのだろう。 迷いのない足取りで庭の裏手へと侵入し身を潜める朱鷺の隣へ、月緋も音もなく滑り込む。 「この間と手筈は一緒だ。殺して、適当に荒らして、適当に金品を取って、どっかに捨てて帰る。荒らす時は手伝え」 窓の鍵の形状を観察しながら、ちらりとこちらに向けられた金の瞳。 ただの道具扱いじゃない。 俺を共犯者として当然のように作業に組み込んでいるその視線に、胸の奥が甘く疼いた。 「うん、分かってるよ……。強盗の偽装だよね。朱鷺と一緒なら、宝探しみたいで楽しそう」 月緋はフードの隙間から紅い瞳を爛々と輝かせ、朱鷺の耳元へ囁くように顔を近づけた。 「息の根を止める瞬間、一番近くで見せてね……? ターゲットが死んでいく顔なんてどうでもいいけど……朱鷺が刃を突き立てる時のその綺麗な顔は、俺が全部独り占めするんだから……」 鍵を外そうとする朱鷺の邪魔にならないように指先で愛おしむように朱鷺の手に触れた後、月緋は静かに身を引き暗闇の中にその気配を溶け込ませた。 「さあ、行こう……。朱鷺の仕事の時間だね」 窓の鍵をすんなりと開け、音も無く中へと侵入する。 物音は聞こえない。ターゲットの男は、おそらく既に就寝しているのだろう。 薄暗い無駄に広いリビングを通り、足音を殺して階段を上る。 二階の廊下へ出ると、ある一室だけぼんやりと光が漏れ出ていた。 朱鷺はゆっくりとその部屋に近付き、ほんの少し開いていた扉から中を覗き見る。 「……」 部屋の中を視界に入れた途端、朱鷺の金色の瞳が僅かに驚いたように見開かれた。 扉を静かに開き、部屋の中へと一歩、二歩と歩く。 高級そうな白い絨毯が、鮮血に染まっている。 そしてその中心に、ターゲットである男が既に息絶えていた。 朱鷺の動きに一切の無駄はなかった。 熟練した手つきで窓の鍵を解錠し、すべり込むように室内へ。 吸血鬼である俺にすら一瞬見失いそうになる程、人間とは思えないくらいに気配を殺したその足取りはいつ見ても美しい。 静まり返った豪邸。 無駄に広いリビングを通り抜け、階段を上る朱鷺のすぐ後ろを、俺は影のように従った。 二階の廊下に足を踏み入れた瞬間、異変には気付いていた。 嗅ぎ慣れた鉄の匂い。 廊下の奥、隙間からぼんやりと明かりが漏れる一室に近づき、朱鷺が静かに扉の中を覗き込む。 普段ならどんな事態にも眉一つ動かさない朱鷺の金の瞳が、僅かに見開かれた。 朱鷺が扉を押し開き、室内へと足を踏み入れる。 その後に続いて俺も部屋の中を覗き込み、思わず喉の奥で小さく掠れた笑いを漏らした。 「あは……何これ。ひどい惨状」 高級そうな白い絨毯は大量の鮮血を吸って赤黒く汚泥のように染まりきっていた。 その中心に転がっているのは、喉元を酷い手つきで切り裂かれ、目を見開いたまま息絶えている男の死体。 血の海の中に横たわるその姿は、すでにピクリとも動かない。 先客だ。 俺たちが乗り込むより前に、誰かがこの男の命を奪った。 俺は朱鷺の横に並び立ち、血の海に倒れる死体と、それを冷ややかな瞳で見下ろす朱鷺の横顔を交互に見やった。 「朱鷺、これ……仕事、横取りされちゃったね?」 俺は朱鷺のパーカーの袖を掴み、耳元へ忍び寄るように囁いた。 血の匂いに触発されて、紅い瞳がうっすらと怪しく発光する。 「誰だか知らないけど、朱鷺の獲物を勝手に殺すなんて、生意気。……ねぇ、どうする?」 ターゲットが死んでいたことへの失望なんて微塵もない。 ただ、朱鷺の目的を邪魔されたことに対する小さな不快感と、これから起きるかもしれない不穏な展開への狂おしい高揚感だけが、月緋の胸を満たしていた。 朱鷺は死体から視線を外し、部屋の中を観察するように見回した。 少し荒れた部屋。乱雑に落ちた書類や、投げ付けられたであろう本。 そして、歪な首元の切り口。 「……これは素人だな。元々女絡みで殺しの依頼をされてたような奴だ。どっかの女に先に殺られたんだろう」 朱鷺はそう言うと、もう興味が無いとでも言うように死体に背を向けた。 「どれくらい前に殺されたか分からん以上、長居は無用だ。いつ警察だかなんだかが来るか分かんねーからな。ターゲットは死んだ。それ以上でも以下でもない」 吐き捨てるようにそう言って、扉に向かって歩き出した瞬間だった。 月緋の後ろにあったクローゼットが勢い良く開き、一人の女が包丁を握ったまま月緋に向かった。 「月緋!!」 自分でも聞いた事のないような、余裕の無い声だった。 月緋は吸血鬼だ。避けようと思えば避けられただろう。 万が一刺されたとしたって、死にはしない。 頭では分かっている。 分かっていた筈なのに。 朱鷺は突き刺されそうになっていた包丁を素手で握り込み、もう片方の手でズボンのポケットに潜ませていたスイッチナイフを取り出し、女の心臓部に突き刺した。 崩れ落ちた女の身体から滲んでいく血液と、朱鷺の手からボタボタと流れ落ちる血が、白い絨毯を更に赤く染め上げていく。 朱鷺は舌打ちをし、女の胸元からナイフを力任せに引き抜いた。 「朱鷺……っ!?」 目の前で起きた光景に、思考が完全にフリーズした。 クローゼットから飛び出してきた女の気配には、最初から気付いていた。 人間特有の浅い息遣いも、握りしめた包丁の金属音も。 朱鷺の手を煩わせるまでもなく、振り下ろされる前に首を捻じ切って終わらせるつもりだった。 それなのに。 「……っあ、ぁ……、朱鷺……っ!」 耳を突いたのは、今まで聞いたこともない朱鷺の切迫した声。 視界に飛び込んできたのは、俺を庇うように割り込み、白刃をその素手で握りしめる朱鷺の姿だった。 肉を裂く嫌な音が響く。 鮮血が飛び散り、朱鷺の手からボタボタと赤黒い雫が落ちて絨毯を染めていく。 朱鷺が容赦なく女の心臓へナイフを突き立て、崩れ落ちた女の胸から力任せに刃を引き抜く一連の動作を、俺は血の気が引いた目で見つめることしか出来なかった。 「な……なんで……っ!?」 声が、狂ったように震える。 「なんで庇うの……!? 俺は吸血鬼だよ!? こんな鈍で刺されたって死なないし、痛くも痒くもないのに……! なんで朱鷺が……朱鷺の手が……っ!!」 頭が真っ白になった。 目の前で俺の"神様"が、俺なんかのためにその皮膚を裂き、血を流している。 その事実が、俺の脳を狂わせるほどのショックとなって襲いかかる。 「っ、血が……朱鷺の血が……っ!! あぁ、あぁぁっ……!俺のせいで、俺のせいで朱鷺の手が……っ!」 俺は膝から崩れ落ちるようにして朱鷺の足元へ縋り付き、朱鷺の傷ついた手を震える両手で抱え込んだ。 手のひらを切り裂く深い傷。 溢れ出す温かい血。 朱鷺の血の匂いが部屋中に充満し、脳が破裂しそうなほどの愛おしさと、自分に対する激しい怒りが混ざり合って暴走する。 「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!! 朱鷺が傷つくなんて嫌だ!! 俺を庇ったりしないでよ……っ! 俺なんかのために、朱鷺が血を流すなんて……っ!!」 錯乱した瞳で朱鷺を見上げながら、葛葉は迷わず傷口へ唇を寄せた。 吸血鬼の唾液の成分で傷口を塞ぐように朱鷺の血を舐め取りながら、月緋の瞳からは大きな涙が零れ落ちていた。 「朱鷺……っ、 ごめんなさい、ごめんなさい……! 俺がもっと早くあの女を殺してれば……!!」 朱鷺の余裕の無い声。 俺を庇ったという事実。 その愛の証を噛み締めたいのに、今は朱鷺の流す血への恐怖とショックで、胸が張り裂けそうだった。 「……朱鷺、痛い……? 痛いよね……? 俺が……俺の唾液で、すぐ塞ぐから……っ、だからお願い、そんな顔しないで……!!」 傷口を必死に舐めながら、月緋は血と涙でぐちゃぐちゃになった顔で呆然と立つ朱鷺を見上げた。 傷口からボタボタと流れ落ちていく自分の血を見ながら、朱鷺は静かに眉を寄せた。 あの時自分の脳内を支配したのは、間違いなく失うことへの恐怖だった。 一瞬で、路地裏に転がっていた弟の死体がフラッシュバックした。 吸血鬼の頑丈さだの身体能力だのは、どうでもよかった。 ただ自分が、その場に止まっていられなかっただけだ。 「……お前、どこも怪我してないか?」 してないことは分かっている。 自分が刺さる前に止めたのだから。 それでも、聞かずにはいられなかった。 分かりきった答えを、今その口から聞きたかった。 ボタボタと絨毯を濡らす朱鷺の血を舐め取りながら、月緋は涙で視界を滲ませていた。 俺を庇ってついた傷。 俺のために流された血。 これ以上一滴も失わせたくなくて、必死に舌を這わせる。 「……お前、どこも怪我してないか?」 しかし上から降ってきたのは、驚くほど静かで、けれどどこか掠れた朱鷺の声だった。 「っ……、……え……?」 月緋の動きが、ピタリと止まった。 怪我なんてしているはずがない。 朱鷺が自分の体を盾にして、刃すら触れさせなかったのだから。 朱鷺だって、そのことは理解している筈だ。 それなのに。 朱鷺の金の瞳は、自分の傷口でも女の死体でもなく、ただひたすらに月緋のことだけを捉えていた。 その瞳の奥に滲むもの。 (あ……あぁ、そっか……) 朱鷺はただ、俺が傷つくのが怖かったんだ。 俺を失うのが、恐ろしかったんだ。 「っ、うぁ……っ、」 理解した瞬間喉の奥から嗚咽が込み上げ、溢れ出した。 「怪我なんて……っ、してないよ……! 擦り傷ひとつ、ついてない……! 朱鷺が……朱鷺が俺を守ってくれたから……!」 月緋は縋り付くように朱鷺の腰に腕を回し、その腹部に顔を埋めて泣いた。 指輪の嵌った左手が、体の震えを拾い小さく音を立てる。 「なんで……なんでそんな顔で聞くの……! 朱鷺のバカ、殺し屋のくせに、自分の身体より俺のこと優先するなんてバカだよ……! 嬉しいよ……嬉しくて頭がおかしくなりそうだけど……朱鷺が痛いのなんて、嫌だ……!」 月緋は朱鷺の温もりを確かめるように強く抱きしめながら、血の滴る朱鷺の左手を大切に捧げ持ち、もう一度その傷口にそっと唇を寄せた。 「ねぇ朱鷺……、俺はここにいるよ。ピンピンしてる。どこも痛くない……!朱鷺が守ってくれたから、俺は無傷だよ……!」 涙でぐちゃぐちゃになった顔で朱鷺を見上げる。 狂気と、狂おしい程の愛おしさに満ちた紅い瞳で、朱鷺の金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。周囲を囲む血の匂いも、転がる死体も、どうでもよかった。 ただ、俺を庇ったこの愛おしい人間の体温だけが、世界の全てだった。 「……そうか」 朱鷺はそれだけ呟き、小さく息を吐いた。 手の傷が、吸血鬼の唾液の成分でじわじわと塞がっていく。 便利なもんだ、と朱鷺は思った。 涙でぐちゃぐちゃになっている月緋の顔を、服の袖で軽く拭う。 どこも痛くない、という月緋の言葉。 それは聞きたかった言葉の筈なのに、針のように鋭く胸に刺さった。 その言葉を、あの時弟の口から聞きたかったのだと、気付いてしまった。 月緋を弟と重ねている訳では無い。 けれど、カテゴリーが同じなのだ。 月緋を失う恐怖の後ろには、常に弟の死の記憶が付き纏う。 あの日弟を救えなかった自分が、ずっと恨みがましく睨み付けて来る。 お前はいいなと、そう囁いてくる。 朱鷺はそれを抑え込むように、小さく舌打ちをした。 「死体が二つも転がってたら、強盗に見せかけた所で意味が無い。むしろ荒らされてる方が不自然だ。そのまま帰るぞ」 そう言って、しゃがみ込んだままの月緋の腕を掴む。 手の傷はもうほぼほぼ塞がりかけ、血もすっかり止まっている。ボタボタと血を垂らしながら帰るというリスクも無い。 朱鷺は月緋の腕を引いたまま、侵入して来た窓に向かって歩き出した。 「死体が二つも転がってたら、強盗に見せかけた所で意味が無い。むしろ荒らされてる方が不自然だ。そのまま帰るぞ」 腕を引かれ、立ち上がらされる。 指先から伝わる朱鷺の体温。 さっきまで溢れていた血は完全に止まり、傷口は綺麗に塞がっていた。 唾液の治癒効果のおかげだ。 朱鷺の手を元通りに出来たという事実に、月緋は小さく安堵の息を漏らす。 しかし。 (……朱鷺?) 歩き出す朱鷺の背中。 腕を引くその力加減はいつも通りなのに、どこか遠い。 舌打ちの音。 微かに揺れた金の瞳。 朱鷺の心の深い場所に、冷たい影が落ちていることに気付いた。 「……朱鷺」 月緋は引かれるままに歩きながら、朱鷺の後ろ姿に視線を突き立てる。 俺を守れた安心感なんかじゃない。 俺が無傷だったことへの安堵でもない。 朱鷺の胸の奥で、もっと暗くて、ドロドロとした何かが暴れている。 「ねぇ、朱鷺……」 窓の手前で、月緋は朱鷺の背中に後ろからぴったりと体を押し当てた。 左手で朱鷺の手を固く握り直し、もう片方の腕をその腰へ回して拘束するように抱きしめる。 「何を考えてるの……?」 朱鷺の耳元に、熱い吐息を吹きかける。 甘く、けれど刺すような狂気を孕んだ声で、囁いた。 「俺はここにいるよ、朱鷺。……さっきの朱鷺の声も、俺を庇って流した血も、全部俺だけのものだよね……? 誰にも渡さないし、誰の影も重ねさせない……」 朱鷺が何を思っているのかは、俺には正確には分からない。 しかし、朱鷺の心の中に俺以外の何かが踏み込んでくることだけは、耐え難いほどに許せない。 「俺は死なない。朱鷺の手の中でずっと生きて、朱鷺と一緒に死ぬんだ。だから……俺だけを見ててよ。……ねえ、朱鷺」 背中に押し当てた胸の奥で、月緋の心臓が朱鷺の体温を感じて激しく主張するように脈打っていた。 妙な所で勘の鋭い奴だと思った。 しかし、背中に伝わる確かな命の音に、どこか安心している自分もいた。 「……お前が簡単に死なないことは、分かってる」 分かってる。 自己満足だと。 勝手に動いて、勝手に傷付いている。 矛盾だらけの苛立ちをぶつけるように、ぐっと拳に力を込める。 薬指の指輪が、みしりと音を立てた。 「だが、死ななかろうが、刺されていい理由にはならない」 こいつが刺されるくらいなら、自分の手ぐらいどうでもいいと思っただけだ。 月緋を弟に重ねてなんかいない。 重なっているのは、過去の自分だ。 自分自身が、未だに一歩も進めずあの路地裏に取り残されている。 「お前を安心させれる言葉が、俺には分からない。……すまない」 朱鷺は拳に入れていた力を解き、腹に回されている月緋の腕にその手を重ね、自嘲するように小さく笑った。 「……お前が簡単に死なないことは、分かってる」 「だが、死ななかろうが、刺されていい理由にはならない」 耳元で落ちてくるその掠れた声に、紅い瞳が激しく揺れた。 痛くも痒くもない。 死にすらしない。 そんな吸血鬼の理屈なんて、朱鷺には何の免罪符にもならないんだ。 俺が傷つくことそのものが、朱鷺にとって耐え難いことなのだと。 自分の手を引き裂いてまで庇うほどに、俺という存在がこの男の不可侵の領域に居座っているのだと。 その事実だけで、全身の血が狂ったように沸き立つ。 しかし。 「お前を安心させれる言葉が、俺には分からない。……すまない」 そう言って重ねられた朱鷺の手。 腹の上に回した月緋の手の上に、朱鷺の手がそっと重なる。 そして漏れ出た、小さな自嘲の笑い。 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が絞られるように痛んだ。 言葉なんていらないのに。 安心させる言葉なんて、最初から一言も必要ないのに。 朱鷺はいつだって、そうやって勝手に傷ついている。 「……バカ」 月緋は朱鷺の背中に額を強く押し付け、泣き出しそうな声で呟いた。 「……謝らないでよ。なんで朱鷺が謝るの……!」 重ねられた朱鷺の手を、指を絡めるようにして強く握り返す。 お揃いの指輪が音を立てて触れ合った。 「安心させる言葉なんて、最初からいらない……っ! 欲しいのは言葉なんかじゃないよ。朱鷺の血も、朱鷺が俺を庇ってつけた傷も……今、こうして俺の手を重ねてくれてる温もりも……全部、全部届いてる。俺を安心させてるのは、いつだって朱鷺のその手なんだよ……っ!」 抱きしめる腕に力を込め、朱鷺の存在を全身で確かめる。 「言葉なんて知らなくていい。ただ……俺を置いていかないで。俺の目の届くところで、俺のためだけに傷ついて、俺のためだけに生きてよ……」 耳元へ顔を寄せ、そっと朱鷺のうなじに唇を押し当てる。 規則正しく脈打つ朱鷺の頸動脈。 その命の音を唇で感じながら、月緋は甘く、重く囁いた。 「帰ろう、朱鷺。俺たちの家に……。帰ったら、朱鷺の気が済むまで俺を好きにしていいから……ね?」 家に帰宅し、他の何も目に入らないかのようにソファに沈み込み煙草を咥えて火をつける。 整理が追い付かない程ぐちゃぐちゃになった思考回路が、煙草の煙でゆっくりと解けていくようだった。 煙草を持つその手は、最初から何も無かったかのように元通りになっている。 数え切れない程の命を奪ってきた手。 幾度も他人の血で汚した手。 そんな手で、月緋を守ろうとした。 随分勝手なもんだと、朱鷺は手から視線を外して煙を吐き出した。 隣に座っている月緋の体を、軽く引き寄せる。 人間よりも遥かに低いその体温が伝わる。 言葉よりも、この薄汚い手の方が安心するのだと月緋は言う。 変なやつだ。 ……本当に、変なやつだ。 朱鷺は月緋の前髪を指先で撫でるように掻き分け、その額に軽く口付けた。 静まり返ったリビングで、煙草の煙がゆっくりと揺れている。 ソファに深く沈み込み、力なく吐き出される朱鷺の吐息。 その隣で、月緋は朱鷺の体温を感じながら、静かにその腕に触れていた。 朱鷺の手が、月緋の前髪を指先で優しく掻き分ける。 額に触れる、温かい唇の感触。 「……っ」 一瞬、呼吸が止まった。 吸血鬼の冷え切った皮膚に、朱鷺の熱が、唇を通してじんわりと染み込んでくる。 言葉もなく、ただ愛おしむようなその口づけ。 「……朱鷺」 唇が離れるのを感じると、月緋はゆっくりと目を開ける。 すぐ目の前にある、朱鷺の美しい金の瞳。 その奥で揺れる言葉にならない感情の渦を、月緋は一滴残らず吸い上げるように見つめ返した。 「変なやつ……って、思ってるでしょ」 少し掠れた声で呟きながら、月緋は朱鷺の手首をそっと掴んだ。 白刃を握りしめ、赤黒い血を流していた左手。 今はもう傷ひとつ残っていない、綺麗で、冷酷で、けれど俺を庇った愛おしい手。 月緋はその手を自分の頬に寄せ、頬擦りをする。 そのまま手のひらに深く、深く唇を押し当てた。 「……俺にとっては、この世で一番大好きな手だよ」 指を絡め、プラチナの指輪同士をカチリと鳴らす。 「この手が俺を守ってくれたんだよ。この手が、俺に俺が死ぬ時はお前も死ねって、誓ってくれたんだよ……!」 頬に触れる朱鷺の手に、自分の体温を擦り付けるようにしながら、どこまでも幸福そうな笑みを浮かべた。 そのまま朱鷺の胸元へと倒れ込み、その心臓の音を聞くように耳を押し当てる。 紫煙の向こうで、朱鷺がどんな顔をしているのかは見えない。 けれど、規則正しく脈打つその心音だけが、いつまでもずっと、俺の全てだ。 「……ねえ、朱鷺。……煙草、苦い。でも……朱鷺の匂いがして、すごく好き」 月緋は朱鷺の腰を抱きしめる腕に力を込め、まどろむように瞳を閉じた。

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