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第1話
「お前の匂いは甘過ぎる」
「そ、んな……あ、あっ、あぁ……」
「このまま国に帰すことなどできるものか」
「や、め……っく、う、うぅ……ッ」
廊下を行き交う彼らは皆、考えもしないだろう。
扉一枚隔てたこの場所で、自らが仕える主がこんな行為に耽っているなど。
他国の皇子に組み敷かれ、あられもない姿を曝け出しているなどと。
※
隣国の宮殿は、記憶にあるよりも広く感じられた。
前にこの国を訪れたのは、いつのことだったか。リディアンは歩みを止めぬまま、遠い記憶を手繰り寄せる。確か、声変わりを終えるか否かという年頃だった。父王に伴われてこの宮殿を訪れた、あの日が最後だったはずだ。
あれから、幾年が過ぎただろう。かつては父の背を追うだけだった少年も、今では隣国との外交を、この身ひとつに託されるまでになった。
高い天井から吊るされたシャンデリアが、幾重もの光を零している。砕けた光が大理石の床に降り注ぎ、磨き上げられた白い石の上には、淡い金の波が揺れていた。
リディアンの白金の髪が、煌く。まるで光の化身を謳うような姿だった。背筋を伸ばし、光の中を往く隣国の王子の姿に、擦れ違う者たちは進む足を緩めた。向けられる視線は、多い。
隣を歩く護衛騎士へ、ちらと視線を向ける。硬い横顔。いつもと変わらぬ、感情を容易には覗かせない表情に、知らず強張っていた肩から、ふと力が抜けた。
会談の間に足を踏み入れると、既に隣国側の重臣たちは揃っていた。その最奥――上座に座す人物へ、リディアンの視線が向く。この国の皇子、クロイツ。視線が絡んだ瞬間、リディアンは僅かに眉を寄せた。
眩いばかりの金の髪。その下に宿る碧眼は、自身のそれよりも深く、凍てついた湖のような色を湛えている。冷ややかな眼差しが、まるで値踏みするかのようにリディアンを射抜いた。
深々と椅子に身を沈め、ゆったりと背を預ける姿には、少年の頃の面影こそ残っているものの、その身体つきは記憶にあるものとはまるで違っていた。
――よくもまあ、これだけ育ったものだ。
かつては自分よりも背が低く、身体つきも細かったというのに。
記憶の中の少年と目の前の男との隔たりに、リディアンは複雑な思いを抱きながら、ひとつ重い息を吐いた。
その様子を、クロイツは黙って見つめていた。やがて、その口角がほんの僅かに持ち上がる。歓迎とも、侮蔑ともつかない曖昧な笑みは、何年の時を経ても変わらない。
――相変わらず、人を苛立たせるのが上手い男だ。
胸の内で吐き捨てるように呟き、リディアンは視線を逸らした。
着席を促され、指定された席へ腰を下ろす。ほどなくして書類が配られ、会談が始まった。議題は、国境付近における通商協定について。双方の主張が交わされる中、リディアンも幾度か発言を重ねる。いつもなら淀みなく紡げる言葉が、今日は妙に喉につかえた。
何かがおかしい。
そう思ったのは、何度目かの発言を終えた頃だった。思考が、うまくまとまらない。目の前に並べられた書類の文字が、ひどく遠いものに感じられる。
リディアンは密かに眉を寄せた。
――なぜだ。
自分の身体に、覚えのない違和感が忍び寄っていた。
身体が気怠い。鉛でも詰め込まれたように重く、喉の奥が妙に渇く。
初めは、単なる緊張のせいだと思っていた。
慣れない土地。慣れない相手との交渉。知らず知らずのうちに積み重なった疲労が、今になって表へ出てきたのだろうと。
だが、時間が経つにつれて、それだけでは片づけられない違和感が、少しずつ輪郭を持ちはじめた。
肌の内側が、ざわめく。凪いでいた水面に、静かな波紋がひとつ、またひとつと広がっていくように。
何かが、身体の奥で目を覚まそうとしている。
その気配とともに、身体の芯から熱が滲み出してきた。最初はほんの僅かなものだったそれが、時間を追うごとに、ゆっくりと、しかし確実に強まっていく。
「――っ、は……」
思わず、浅い息が漏れた。
身体の奥で、小さな火が灯ったようだった。揺らめく炎は消えるどころか、じわじわとその勢いを増している。
――おかしい。こんな感覚は、知らない。
悪寒に震えたこともあれば、高熱に苛まれたこともある。体調を崩すことなら、人並みに経験してきた。
けれど、これは違う。
肌の内側を何かが這うような、奇妙なざわめき。自分の身体であるはずなのに、理解の及ばぬ違和感が、絡みついて離れない。
まるで、身体の奥底に、自分の知らない何かが棲みついてしまったかのようだった。理由も分からぬまま、身体だけが、自分の意志から離れていく。
リディアンは無意識に、自らの手のひらへ視線を落とした。
剣を握るために鍛え上げた手。父や兄弟たちに比べれば、些か小柄な身体だった。ならば、足りない力を速さで補えばいい。そうして、誰よりも鍛錬を重ねてきた。
現状に満足せず、常に高みを目指す。その積み重ねを、この手は知っている。
この手は、アルファとしての証だった。そして、誇りだった。物心つくよりも前から、周囲はリディアンをそういう存在として扱ってきた。
父も。母も。剣術の師も。そして何より自分自身が、それを疑ったことなど、一度もなかった。
――私は、アルファだ。
胸の内で、強く言い聞かせる。
それは、いずれ一国を背負う王子として決して曲げてはならない真実であり、何があろうと揺らいではならない矜持だった。
だから、今もそうでなければならない。そうであるはずだ。
何度も、何度も、胸の内で繰り返す。脳裏を掠める、形にならない予感から目を逸らすように。
――そう。
疲れているだけだ。
リディアンは早まる呼吸を努めて抑えながら、手元の資料へ視線を落とした。けれど、文字が頭に入ってこない。一行を目で追っても、その意味が滑り落ちていく。
吐き出す息が、妙に熱かった。額に滲んだ汗を、周囲に気づかれぬよう指先でそっと拭う。その指先まで、熱を帯びていた。
ふと、背後に控える護衛騎士の気配が変わったことに気づいた。
振り返る。いつもなら何の感情も映さないその顔が、苦しそうに歪められていた。眉根を寄せ、何かに耐えるように唇を固く結んでいる。身体の横に垂らした手は、強く握り締められていた。
「……どうした」
声を潜めて問う。
騎士の肩が、僅かに揺れた。一瞬だけ向けられた視線は、すぐに逸らされる。
「……いえ。何でも、ございません」
返ってきた声は、ひどく掠れていた。
リディアンは怪訝に眉を寄せる。何でもない人間の声には、到底聞こえなかった。けれど、それ以上を問うだけの余裕は、もう残されていなかった。自分自身の異変が、いよいよ無視できないところまで来ていたためだ。
肌が粟立つ。産毛の一本一本が逆立つような、奇妙な感覚。関節の奥が鈍く疼き、息を吸っても肺の奥まで届かない。呼吸はいつの間にか浅くなり、胸の内側では心臓が、狂ったように早鐘を打っていた。
ざわ、と。会談の間に、目には見えない波紋が広がった。
隣国側の重臣の一人が、不審げに鼻をひくつかせる。ほどなくして、もう一人も落ち着かない様子で周囲を見回し始めた。
「……これは……」
誰かが呟いた、その瞬間だった。
室内にいた者たちの視線が、一斉にリディアンへ集まった。刺すような視線はまるで、群れた肉食獣が獲物の存在を嗅ぎつけたときのようだった。
全身が、本能的な警告を発した。――逃げろ、と。けれど身体はその命令に従わず、微かに指先が震えただけだった。
その中で、ただ一人。上座のクロイツだけが、笑っていた。
愉悦を滲ませた口元。深い碧眼は、静かだった。だが何故かその眼差しから、リディアンは目を逸らせなかった。
「……リディアン」
名を呼ばれる。低く、落ち着き払った声だった。それだけで、ざわめいていた室内が嘘のように静まり返る。
「まさかとは思うが――」
クロイツが、僅かに目を細めた。
「自分の身に起こっていることを、理解していないのか」
言葉の意味が、ひどく遠く聞こえた。
理解するどころではない。身体の奥で燃え上がる熱は、とうに耐えられる限界を越えようとしていた。視界が、ふ、と揺らぐ。目眩にも似た感覚に襲われ、リディアンは咄嗟に椅子の肘掛けへ手を伸ばした。指先に力を込める。そうでもしなければ、自分が今どこにいるのかさえ、分からなくなりそうだった。
「――殿下」
背後から、押し殺したような声がした。
振り返ると、護衛騎士が奥歯を噛み締めて立っている。
「殿下……本日は、もう退室いたしましょう」
「なぜ……?」
リディアンは怪訝に眉を寄せた。
「大丈夫だ。少し熱っぽいだけで――」
そう言いながら立ち上がろうとして、身体がふらつく。
咄嗟に騎士が手を伸ばした。けれど、その手はリディアンに触れる寸前で止まった。
指先が、震えている。まるで、触れることそのものを恐れているかのように。
「……っ、殿下……!」
絞り出された声もまた、震えていた。
「お願い、ですから……!」
懇願するような声音だった。何故そこまで切羽詰まっているのか、リディアンには分からない。ただ、目の前の騎士が必死に何かに抗っていることだけは、その強く握り締められた拳から伝わってきた。
「一体――……」
何が起きている。
そう問いかけようとした言葉を、低い笑い声が遮った。
「哀れなものだな。その忠義も」
上座から響いた声に、リディアンが顔を上げる。
クロイツが、ゆっくりと立ち上がっていた。ただそれだけの動作なのに、室内の空気がまた一段、重くなる。
息が苦しい。リディアンは思わず胸元を押さえた。
身体の奥で燃え続ける熱は、もう自分の意志では鎮められないところまで膨れ上がっている。いったい、自分の身に何が起きているのか。誰も教えてくれない。
――否。答えを知っている者たちは皆、何かを知った顔で自分を見ている。それなのに――自分だけが、何ひとつ分からない。
この耐え難い熱が何なのか。なぜ、こんなにも身体が言うことを聞かないのか。リディアンには、その答えさえ見つけられなかった。
「なぁ、リディアン」
空気が、変わった。目には見えない何かが、確かに部屋を満たしていく。重く、濃密な気配が肌を撫で、そのまま全身へ絡みついてくる。息を吸おうとするだけで、肺の奥まで押し潰されるような錯覚に陥った。
「……っ」
喉の奥から、小さな呻きが漏れる。
周囲では、次々と椅子の軋む音がした。隣国側の重臣たちが、一人、また一人と膝をつき、頭(こうべ)を垂れる。誰も一言も発しない。青ざめた顔を伏せ、ただ身を傅(かしず)かせている。
その異様な光景の中心に立つクロイツだけが、何事もないかのように佇んでいた。その口元には、僅かな笑みさえ浮かんでいる。
――愉しんでいる。
そう気づいた瞬間、背筋を冷たいものが走った。
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