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第2話
クロイツが、こちらへ歩いてくる。一歩。また一歩。ただ歩いているだけなのに、近づくほど息が苦しくなる。目に見えぬ力に、圧し潰されそうだった。
「な……」
声を出そうとした。けれど、喉が震えただけで、言葉にはならなかった。
目の前の男が、あまりにも大きく感じられる。身体そのものが大きいという意味ではない。もっと根源的な何かが、圧倒的な存在でそこにいる。
まるでこの空間のすべてが、クロイツという存在を中心に形を変えてしまったかのようだった。
リディアンは、ただ立ち尽くす。目の前にいる男が、今まで知っていたクロイツとは別人のように思えた。
「殿下……っ、お下がりください……!」
護衛騎士が、震える声を絞り出した。リディアンとクロイツの間へ割って入ろうとする。剣の柄へ伸びた手は、しかし途中でぴたりと止まった。
「……っ、あ……」
次の瞬間、騎士の膝が崩れた。まるで何かに押し伏せられたかのように、その身体が床へ沈む。両手をつき、荒い息を繰り返しながら、それでも彼は顔を上げた。耐えるように眇(すが)められた瞳が、なおクロイツを睨み据えている。
「俺を前にしても、そのような目ができるとは……」
クロイツの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「忠犬にしては、上出来だ」
微かな感心と、それ以上に濃い、嘲(あざけ)り。
クロイツは騎士から関心が逸れたように視線を外すと、ゆっくりとリディアンへ向き直った。一歩。その距離が縮まるだけで、胸の奥がギリギリと締めつけられる。
――逃げなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
「……来るな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
クロイツは答えなかった。ただ、冷たい碧眼でリディアンを見据えている。
その眼差しに射抜かれた瞬間、リディアンは悟った。自分は今、この男の前であまりにも無力なのだと。
悔しさが込み上げる。これまで積み重ねてきた鍛錬も、王族として身につけてきた矜持も、この異様な力の前では何の支えにもならない。
「……何を、した」
問いかける声が震えた。
クロイツは、ほんの僅かに目を細める。
「何もしていない」
リディアンは息を呑んだ。
何もしていない。それなのに、誰もが膝をついている。自分だけが、その理由さえ知らない。その事実が、何よりも恐ろしかった。
クロイツはゆっくりとリディアンの前まで歩み、その顎に指をかけて上向かせた。
「……触、るな……っ……」
咄嗟にその手を払おうとしたリディアンの手首を、クロイツは容易に掴み上げてみせた。触れられた場所が、爛れるように熱い。熱に苛まれた眼が、クロイツを捉えた。視線が揺れて、視界が滲む。
「これだけのものを撒き散らしておいて、何を今更」
クロイツの指先が、頬を、首筋を、確かめるようになぞる。その感触に、リディアンの背筋がぞくぞくと震えた。嫌悪しかないはずなのに、体の奥で湧き上がる疼きは、決して嫌なものではなかった。その矛盾に、リディアンは戸惑うことしかできない。
「っ……、離、せ……」
「抵抗してみせればいい。それができるならの話だが」
嘲るような声音だった。けれど、その眼差しだけは違っていた。クロイツは、絡みつくような視線をリディアンへ向けている。まるで、長い年月をかけて追い求めてきたものに、ようやく辿り着いたと言わんばかりに。
けれど今のリディアンに、それを読み取る余裕などなかった。ただ、押し寄せる異様な感覚に耐えることだけで精一杯だった。
「……っ、あ……」
「お前がこうなるとは予想外だったが……好都合だ」
その言葉が鼓膜から脳へと届くまでに、奇妙なほど長く時間がかかった。
言葉の意味を、理解したくなかった。理解してしまえば、これまで信じてきたものが、すべて崩れてしまう気がした。
だが身体は、思考よりも先に答えを知っていた。
これまで感じたことのない異変。自分の意志では抑えられない身体。周囲の者たちが向ける、異様な眼差し。そして、クロイツの言葉。
ばらばらだったものが、ひとつに繋がっていく。
――知っている。
この感覚を、知識として、リディアンは知っている。
子供の頃から、何度も耳にしてきた。けれど、自分には決して縁のないものだと思っていた。だからこそ、認めることができなかった。
――そんなはずはない。自分は、アルファだ。
だが今、自分の身体に起きていることは――。
リディアンの思考が、そこで途切れた。胸の奥が、ひどく冷たくなる。自分が何者なのか。その根底にあったはずの確信が、音もなく崩れ始めていた。
――嘘だ。
生まれてこの方、この身がアルファであることを、一度も疑ったことはなかった。王族は勿論、宮廷に仕える者の多くもアルファだった。自分は、アルファに囲まれて育った。アルファとして扱われ、アルファとして生きてきた。それが、当たり前だった。
――まさか……この、私が……?
足元から、崩れていく。王族として。国を率いる者として。人々の上に立つ者として。これまで当然のように信じてきたものが、積み上げてきたものが崩れていく音を、リディアンは確かに聞いた気がした。
ふいに、幼い頃の記憶が蘇る。
自分よりも体格の劣る貴族の子弟を、当然のように庇護していた。
守る側であることを、疑ったことなどなかった。時には、彼らを憐れんだことさえある。庇護される側が、どのような思いでいるのか。その惨めさを、想像したことすらなかった。
――いつから、そうだった……?
答えなど、どこにもない。年頃になって初めてその身に現れる変化で、己の性を知る。それ以前に自分が何者であるかを知る術などなかった。
だから、知らなかった。知らないまま、ずっと信じていた。一族の誰もがアルファで、その中にあっても、自分は才に恵まれていた。
だからこそ、自分も当然そうなのだと。そこに疑う理由など、あるはずもなかった。
――受け入れられるわけがない。
自分が、ベータですらなく、アルファとは正反対に位置する存在であったなどと。
クロイツを見上げた。これまで、対等な――いや、時には自分の方が上だとさえ思っていた男に、自分は、今、見下ろされている。その事実を初めて真正面から突きつけられた瞬間、リディアンの喉から、声にならない音が漏れた。
――違う。私は、こんな……こんな存在では……。
否定しようとした。けれどもう、否定することはできなかった。どれほど言葉を重ねても、身体が示す事実を覆すことなどできない。身体の奥から押し寄せる異変が、何より雄弁に現実を突きつけてくる。
――私は、オメガなのだ。
認めた瞬間、胸の奥で何かが折れた。
当たり前だった世界が塗り替えられ、根底から覆されていく絶望に、愕然とした。
剣で敗北することなら、耐えられた。負ければ、鍛えればいい。次は勝てるよう、己を磨けばいい。
けれど、これは違う。努力では、どう足掻いても覆せない、届かない。生まれ持ったこの身そのものを、否定されたような感覚だった。
それは、剣で敗れることなどとは比べものにならないほど深く、リディアンの心の奥を抉った。
「殿下から……っ、離れろ……!」
床に伏したままだった騎士が、残された力を振り絞るように膝をつき、叫んだ。その声は震えていたが、瞳だけは真っ直ぐにクロイツを射抜いていた。何があろうと主を守らんとする者の、痛々しいまでの忠義がそこにはあった。
クロイツが、騎士へ冷たい一瞥をくれる。
「お前がリディアンを守りたいという気持ちは本物だ。それは認めよう」
静かにそう言うと、彼はふっと威圧の質を変えた。その瞬間、空気がさらに重くなった。見えない力に押しつけられるように、騎士の身体が再び沈む。
「ぐ……、あ……!」
騎士の口から、堪えきれない呻きが漏れる。意思とは無関係に、身体が服従を強制されているようだった。
絶望を湛える彼の目には、涙が滲んでいた。命を賭して護ると決めた主の危機を前にしても、圧倒的な上位アルファの前では、為す術などない。指一本すら動かせないのが現実であり、主のためにとその身を鍛え上げた事実など、何の意味もなさなかった。
「お前もアルファならば解るだろう」
クロイツの声は、凍てつくように冷たかった。
「お前如きでは、これの熱は抑えられない。これを満足させられるのは、この俺だけだ」
言い捨てると、クロイツはリディアンの体を軽々と抱え上げた。
「や、め……ろ……下ろせ……!」
抗わなければと思うのに、身体はその意志に応えてくれなかった。僅かに身じろぐことしかできないまま、リディアンはクロイツの腕の中に囚われていた。
クロイツは何の躊躇いもなく、扉へ向かって歩き出す。
「殿下……!」
背後から、騎士の声が追い縋った。
「殿下……っ!!」
振り返る。床に這い蹲る騎士が、必死にこちらへ手を伸ばしていた。けれど、その指先は何も掴めない。空を切った手が、力なく床へ落ちる。握り締められた拳が、震えていた。
リディアンは、ただ見つめることしかできなかった。
これまでずっと自分を護ってきてくれた、己が最も信頼する忠臣が、今は何もできずにいる。目の前の姿が、胸に突き刺さる。自分のために剣を取る者を、自分の所為で屈服させることになるなど。彼の屈辱を考えただけで、胸が張り裂けそうになった。
「……っ……すまない」
声にしたつもりの声は、あまりに小さく、彼の耳へ届いたかどうかさえ分からない。
扉が、ゆっくりと開く。最後に見えたのは、床に伏したまま、それでもなおこちらを見つめ続ける騎士の姿だった。
その視線から逃れるように、リディアンは目を閉じた。
扉が閉まる音がする。忠臣の姿も、声も、その向こうへと消えた。
残されたのは、どうしようもない無力感だけだった。
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