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第3話
連れ込まれた部屋は、絢爛(けんらん)な造りの客間だった。重厚な扉が閉まる音だけが、大きく耳に響く。
――閉じ込められた。
そう認識した途端、血の気が引いた。ついさきほどまですぐ傍にあったはずの人の声も、足音も、何もかもが厚い扉に隔てられた。外の気配が、遠い。リディアンはその身を、ふるりと震わせた。
寝台の上に下ろされた身体を、咄嗟に起こそうとした。しかし、腕に力が入らない。全身を苛む熱は、もはや隠しようもないほどに膨れ上がっていた。
「……っ、あ……」
全身の骨が軋む。全ての内臓が熱湯を注がれたように疼き、気が触れそうだった。強烈な喉の渇きは酷くなる一方で、眩暈と、吐き気が治まらない。息を吸うたびに、身体が干からびていくような錯覚に陥った。
「随分と、余裕がなくなってきたな」
クロイツがシャツの襟元を緩めながら、寝台に片膝をつく。ギシ、と寝台が鳴った。その影が、リディアンの上に覆い被さるように落ちる。
「近づく……な……」
声を絞り出し、後退る。しかし背中は、すぐに寝台の縁にぶつかった。もう、逃げ場がない。
リディアンは唇を噛み締めた。剣を握れば、誰にも引けを取らないはずだった。それなのに。
――今の自分の、このざまは何だ。
これまで積み重ねてきた努力も、築き上げてきた自信も、今は何ひとつ自分を支えてはくれなかった。剣を握るどころか、自分の身体ひとつ、思うように動かせない。
――これが、私なのか。
現状を、到底受け入れられない。こんなにも容易く追い詰められる自分が、何より許せない。
屈辱に満ちた思考に、ある選択が過った。思うが早いか、リディアンの手は、懐へと伸びていた。
指先に触れたのは、小さな硝子瓶だった。他国へ赴く王族の誰もが、必ず懐に忍ばせているもの。捕虜となったとき、あるいはその身が危機に陥ったときの、最後の手段。
誇り高き王族の、覚悟の証だった。
――このまま、辱めを受けるくらいなら……
震える指で栓を外す。
「――リディアン」
クロイツの声が変わった。異変に気づいたのだ。
だがもう、遅かった。
「お前に、これ以上――」
言い終えるより早く、瓶の中身を一息に煽った。刹那、苛烈な刺激が喉を灼く。
「――っ、リディアン!」
初めて名を叫ばれた気がした。クロイツの手が伸び、瓶が床へ叩き落とされる。硝子の硬質な音が響く。そのときにはもう、毒はリディアンの喉の奥へと流れ込んだ後だった。
「馬鹿な真似を……!」
初めて見る表情だった。先ほどまでの余裕も、嘲りもない。クロイツは、明らかに取り乱していた。切迫した声を震わせているのは、怒りではない。
「吐け!吐き出せ、リディアン!!」
視界が急速に霞んでいく。手足の先から、血流が途切れたように冷えていくのが分かった。これで終わるのか、と、どこか他人事のように思う自分がいた。屈辱の中で生きるくらいなら、これでいい。そう思っていたはずなのに――
――まだ、死にたくない。
眦から、涙が溢れた。涙が肌を伝い落ちる頃には、もう声を出す力さえ残っていなかった。遠くなる意識の中、上着の内側を探るクロイツの手の動きだけが、かろうじて視界に映った。
「やっとだ。やっとお前が手に入ると思ったのに……こんなことは許さない……!」
激しい耳鳴りの向こうで、クロイツの声がした。
顎を掴まれ、上向かされる。次には、唇に柔らかいものが押し当てられた。それがクロイツの唇であると、遠い意識の中で悟る。薄く開いた唇のあわいから、液体が口内へと流れ込んでくる。苦みのある液体が、口の中に広がった。抵抗する力もなく、リディアンはそれを受け入れた。
「……飲み込め。全部だ」
喉の奥に流れ落ちてくる液体を、ごくりと反射的に嚥下する。それを確かめたクロイツの唇が、再び重ねられた。角度を変えて、もう一度。深く、長く、さらに奥を求めるような口づけが、繰り返される。聴覚のすぐ傍で聞こえる滑った水音に、頭の芯がじんと痺れていく。
次第に、指先に感覚が戻ってきた。意識がクリアになるに従って、キスの感触だけが、鮮明に意識を支配し始める。
「っは……んぅ……」
熱い熱の塊が、口内の隅々までをも蹂躙する。喉の奥まで舐め上げられて、思わずえづきそうになる。薄く瞼を上げたなら、涙の膜の向こうで、深い碧の彩が揺れていた。ぼやけていた視界が、次第に輪郭を取り戻していく。
ようやく、唇が離れた。離れた熱を、名残惜しいと感じてしまう。そんな自分自身を信じられない思いでいると、低い声音が鼓膜を震わせた。
「二度と、こんな真似はするな」
怒りを孕んでいるはずのその声音は、その一方で切実に乞うてくるようなものだった。
「……私が、死のうが……お前に、何の関係が――」
「ふざけるな」
クロイツの声が、低く唸るように響いた。
「お前を失ったら、俺は――」
言葉は、途中で途切れた。クロイツの腕が、リディアンを強く抱き込んでくる。乱暴なほどの力は、しかし大切なものを囲うような、矛盾した優しさも含んでいた。
「……お前を死なせるくらいなら、俺は」
続きは、耳元でだけ紡がれた。あまりに小さな囁きは、耳に拾えなかった。ただその声音に宿る切実さだけは、消えることなく体の奥に刻まれた。
クロイツの腕の中で、リディアンは動けずにいた。この身を囲うその腕は、まるで知らないものだった。
思考が霞んだように、何も考えられない。考えたくない。考えることを、無意識に避けていた。考えてしまえば、何かが決定的に変わってしまう気がした。それが、怖かった。
「……いい加減、離せ」
精一杯の強がりで、そう口にする。だがこの身体は、離れたくないと訴えている。アルファの――クロイツの温もりを、本能が求めて止まないでいる。
「もう少しだけ、こうさせろ」
耳元で落とされる低い声音が、脳髄に響く。それだけで、身体の奥のほうからじんと甘い痺れが広がった。
腕の力は緩まないまま、彼の額がリディアンの肩口に軽く押し付けられる。その仕草に、リディアンは奇妙な感覚を覚えた。いつも人を見下すように笑っていたこの男が、これではまるで、自分に縋りついてくるようではないか。これまで抱いていたクロイツという人物の輪郭が、少しずつ揺らいでいく。絶対的強者であると思われたこの男も、こんなことをするのか、と。
「――リディアン」
「……何だ」
抗おうとする意志は、まだ残っている。だが、その奥で何かが緩み始めているのを、リディアンは否定しきれずにいた。
擦り寄ってくるクロイツの香りが、鼻腔を掠めた。その重い香気を吸い込むたびに、あんなに苦しかった灼熱が、一瞬だけ楽になる。苦痛が痺れを伴う快楽へと、少しずつ書き換えられていく。
――嫌だ。この男の匂いに、救われるなど。
そう拒む理性とは裏腹に、身体はクロイツを求めて止まない。彼の匂いが、体温が、麻薬のように作用する。彼の齎す毒の全てを、この身体に余すことなく注ぎ込めと、全身が悲鳴を上げて疼いている。
首筋に、熱い吐息を感じた。指に髪を絡めるようにして、頭を引き寄せられる。匂いを嗅ぐみたいに鼻を押し付けて、息を吸い込む音がする。耳元に唇を寄せられて、耳朶を喰まれたなら、おかしな声が上がりそうになった。
「俺に抱かれろ」
心臓が、跳ねた。鼓膜を叩く鼓動の音が、ひどく煩い。
ゆっくりと、クロイツが身を離す。深い青で覗き込んで、そっと頬に触れてくる。先ほどまでの荒々しさは、そこにはなかった。指先で壊れ物を扱うような、慎重過ぎる触れ方だった。
「……いやだ」
逃げ場などどこにもないというのに、リディアンは首を振った。王子として、男としてのプライドが、受け入れることを拒んでいる。
――それでも。
リディアンの手は、クロイツの服の裾を掴んで離さなかった。体の奥から止め処なく溢れ続ける熱が、自身の意思とは無関係に、縋るように、助けを乞うように、指先に力を込めてくる。まるで、縋る先はここだけだと、そう言わんばかりに。
「つらいだろう」
「……っ」
「その苦痛を抑えられるのは、俺だけだ」
涙で滲む視界の中で、クロイツの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「……嫌なら、拒んでみせろ」
相手の意志を窺うように、ゆっくりと、唇が押し当てられる。
リディアンは瞼を落とし、それを受け入れた。唇を開き、深い口付けを強請る。
抵抗しようと思えば、できたはずだった。今のクロイツからは、圧を感じない。努めて抑えてくれているのか、最後に選ばせようとしてくれているのか。
「っは……ぅ、う……んんっ……」
体の奥に燻り続ける熱は、その優しさだけでは到底治まらなかった。それどころか、ますます昂っていくのが分かる。理性ではどう足掻いても抑えられない熱に、リディアンは息を弾ませ、涙を零した。
「……頼む、から……」
自分の口から零れた言葉に、リディアンは愕然とした。自分は一体、クロイツに何を乞うというのか。
誰に対しても、懇願したことなど一度たりともなかった。こうして、見下ろされることだって、これまでの人生で、ただの一度も。
「頼む、とは。何をだ」
分かっていて、聞いている。その意地の悪さに、涙が止まらなかった。本能に翻弄される身体が、忌々しかった。悔しさと、もどかしさと――その両方をない交ぜにしながら、リディアンは震える声を絞り出した。
「……分かって、いるだろう……っ」
「言葉にしろ。でなければ、分からない」
見下ろしてくるクロイツの瞳に、妖しい光が宿る。縫い付けられたように、目が離せなくなる。この身体の全てを支配されたみたいに、動けない。
「言え。何が欲しい」
熱を帯びた声音は、急いていた。その瞬間の言葉だけを、何よりも求めているかのように。
クロイツの光が、強くなった。思考が、止まる。全身が、震える。喉が詰まって、息ができない。肌の下で荒れ狂う熱に、この身の全てが灼き尽くされてしまいそうだった。
「……お前、が……欲しい……」
プライドが、また一つ、音を立てて崩れた。だが、力尽くで奪われたわけではない。この身を苛むのは、屈辱とも違う。
「……早、く……」
きっと今、誰にも見せたことのないような顔をしている。声だって、誰にも聞かせられない。
拒絶の言葉は、いつしか懇願に変わっていた。それを口にするたびに、王子としての自分が、少しずつ死んでいく。だが不思議と、それを惜しいとは思えなくなっていた。
「俺はきっと、自分を抑えられない。お前を、滅茶苦茶に抱く。理性なんて、働かない。それでも――いいんだな」
「……っ、あ……」
リディアンの返答を待つよりも早く、首筋に舌が過る。忙しなく、衣服が暴かれていく。
涙の滲んだ視界の端に、クロイツの――今までに見たこともない、余裕のない表情が映った。
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