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第6話

 身の内で暴れていた熱は、幾度も達することを強いられて、今は形を潜めていた。だが、薄い皮膚のすぐ下で、まだ火が燻ぶっているのが分かる。いつまた暴れ出すのか、あの苦痛を思い出すだけで身体が震えだす。この穏やかな時間がどれだけ続くのか、初めてのヒートを迎えたリディアンには分からない。  やがて、ゆっくりと中から質量が引き抜かれた。圧迫感が、なくなった。そこにあったものが消えてしまう喪失感は、思っていたよりもずっと寂しかった。相手の形に開ききった後孔から、粘液が溢れ出しては、大腿を伝い落ちていく。 「真っ赤に腫れてしまったな」 「……っ……言う、な……」  指で、ナカを掻き出される。その刺激にすら、身体は敏感に慄く。そんなことをされたら、またこの身体は渇きを訴えてくる。体力はもうとうに限界を超えているというのに、今またあの飢餓感に襲われたなら、耐えられる気がしなかった。 「大丈夫か、リディ。つらいのは治まったか」  問いかけてくる声音は、優しかった。大きな手が、背を撫でてくる。その温かさに、不意に込み上げてくるものがあった。  ふと、体温が離れていく。  それを、ひどく物寂しく思う。  それが答えなのだと、腑に落ちた。 「……なる……」 「ん?」 「……お前の、番に……」  気づいたら、口にしていた。自分でも信じられないほど、素直な言葉が唇から零れ落ちた。  言葉にした瞬間、悟る。王子としての誇り高い自分は、もういないのだと。代わりにそこにいたのは、ただ一人の男を求める、無力なだけの自分だった。  事後の熱を孕んだ部屋に、二人の呼吸の音だけが響いている。  リディアンは、その場に崩れるようにして四肢を投げ出した。もう、指一本動かす力も残っていない。  窓の外を、ぼんやりと見た。霞む視界に、星の瞬く夜空が映る。その光景は、いつもと何も変わらない。だが今宵、傍らにはクロイツの気配があった。 「……クロ、イツ……」  名を呟いたのは、無意識だった。珍しいこともあるものだ、と、リディアンは他人事のように、朦朧とした意識の中で思った。今までこの男の名を呼んだことなど、あっただろうか。  クロイツの喉が、微かに動く。 「もう一度、呼べ」 「……クロイツ」  二度目は、少しだけはっきりとその名を呼んだ。  彼の目の色が、変わる。光が、宿る。渇望するものをようやく得られたような、そんな光だった。 「――本当に、いいのか」  彼の指先が、首筋にそっと触れる。筋を辿って、項へと辿り着く。  いつもは冷静なはずのその手が、今は微かに震えていた。  この瞬間をどれほど長く待ち焦がれてきたのかを、その震えだけが物語っていた。 「……後悔、しないか」  問いかけの声は、彼らしくないほど小さかった。答えを急かすでもなく、ただ静かに、リディアンの意志を待っている。 「……お前、しつこいな」  視線だけで彼を見て、小さく、笑った。迷いは、もうなかった。或いは、迷うだけの力すら、とうに使い果たしていたのかもしれない。  ――それでも。  リディアンは確かに、自分の意志で頷いた。 「噛んでくれ」  そっと、目を閉じる。瞼の裏に映るのは、余裕のない顔で自分を組み敷いていた、クロイツの姿だった。  ずっと、傲慢で身勝手な執着だと思っていた。見下されることを厭い、苛立ちをぶつけるように、わざと神経を逆撫でしてきたこの男の、その根底にあるものを。  だが今、こうして震える指先で己に触れる彼を前にして、リディアンはふと気づく。執着も、愛も、根は同じ場所にあるのかもしれないと。どちらも、手放したくないという、ただそれだけの願いなのだと。  首の後ろに落ちてきた唇の感触は、思いのほか優しかった。そっと、労わるように、押し当てられる温もり。  だがそれも、一瞬のことだった。 「―――ッ……」  肌に食い込む痛みに、息を呑む。  その、直後。 「――アッ、あああああああぁぁッッッ!!!」  項を突き刺す鋭い痛みが、根を張るように全身に駆け巡る。身体の中のひとつひとつの細胞が、千切れ、焼かれ、すり潰されて、新たに創り換えられていくようだった。 「……あ……あ、ぁ」  激痛とともに、体の奥深くに、確かなものが刻み込まれる。  番の証。不可逆の刻印。死ぬまで消えることのないそれは、この身にとって救いとなるか――或いは。  ――なんでもいい。彼が齎すものすべてを、自分だけのものにできるのなら。  これでもう、離れられない。昏い悦びが、胸を満たした。そんなふうに思う自分を、もう疑わなかった。  クロイツの体が、脱力しきったリディアンの上に、そっと重なってくる。自らが刻んだ絆の証へ、幾度も口づけを落としながら。  あれだけ身を灼くように苛烈だった熱が、嘘のように引いていく。残ったのは満たされた充足感と、この上ない幸福感だった。  静かになった意識の隅で、リディアンはふと、あの日置き去りにしてきた忠臣の姿を思い出した。  ――謝らなければ。  本能に抗いながら、必死にこちらへ手を伸ばしていた彼の顔が過る。命に代えても守ると誓ってくれた、その忠義に応えられなかったことに、今更ながらに胸を締め付けられた。 「……何を考えている」  地を這うような低い声に、リディアンは我に返った。見上げれば、クロイツが片眉を上げて見下ろしている。 「あの騎士のことか」 「……なぜ」 「お前の目を見れば分かる」  不機嫌そうに吐き捨てるその声には、隠しきれない苛立ちがあった。番の証を刻んだばかりだというのに、他の男のことを考えているのかと、そう言いたげな声音だった。 「案ずるな。悪いようにはしない。あれほどの忠義を抱く者だ、相応の地位を与えて召し抱えてやろう」 「……お前が決めることか」 「俺の番の忠臣だ。俺が決めることだろう」  独占欲を隠そうともしない物言いに、リディアンは苦笑した。この男は、思いのほか嫉妬深いらしい。 「妬いているのか」 「当たり前だ」  クロイツが首筋に顔を埋め、柔らかな部分を甘く噛んでくる。その刺激がくすぐったくて、リディアンは小さく身じろいだ。  ふと、さきほどの言葉が思い出される。頭の中が真っ白になる行為の最中に於いても、この耳はクロイツの言葉をしっかり拾っているらしかった。 「ずっと私とこうなりたかったと言っていたが……もし私がアルファでも、お前は私を抱いたのか」 「当然だろう。アルファだろうがオメガだろうが関係ない。俺はずっと、次にお前に会ったときには必ず抱くと決めていた」 「……いつから」 「さぁな。もう覚えてもいない。気づいたときには惹かれていた」  記憶を辿る。記憶の中の彼は、いつも自分を見ていた。リディアンが視線を向ければ、必ず目が合っていた。そのことに気づいていながら、気づかない振りをしていただけかもしれなかった。 「……愛している、リディ」  掠れた声で紡がれた言葉。薄らいでいく意識の中、リディアンは微かに唇の端を上げた。 「……知っている」 「そうか。だが、何度でも言わせてもらう。これからも、ずっと」 「……勝手に……しろ……」  項に残る鈍い痛みが、いつまでも消えずに後を引いていた。そのどこか心地のよい感覚に誘われるように、リディアンの意識は深いところへと沈んでいった。  二つの運命が結びついた夜が、今まさに明けようとしている。  白んでいく東の空に、警鐘の音だけが、遠く響いていた――。

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