25 / 43

第四章 モブ山モブ生の春(5)

 賑やかな一組とは裏腹に、廊下は静かだ。もう生徒が掃けたあとなのだろう。俺は扉が閉ざされた二組の教室の前を通り抜けて自分の教室に入った。 「やっと戻ったか」  窓際の自分の席に座って日誌を開いていた瀧居家が顔を上げる。そういえば今日の日直は瀧居家だった。「ごめん、待たせたよね」俺は慌てて自分の席から鞄を取り上げた。そして教室を見渡した。香月の席に鞄が残っているのが目に入る。 「香月は?」  この二人が一緒にいないのを見るのは初めてのことだ。何かあったのだろうかと思いながら尋ねてみれば、「直ぐに戻る」と、つれない返事。もしかするとトイレかも知れない。俺は自分を納得させて、壁の時計を確認した。終礼が終わってからもう三十分ほど経過している。 「教室を閉めるぞ」  有無を言わさない口調。日誌を閉じた瀧居家が香月の席から鞄を取り上げる。  俺は教室の入り口で瀧居家と別れて昇降口に向かった。 「あれ、モブ山。珍しいじゃないか。この時間まで残ってるの」  靴を履き替えたところで、両手に大きな箱を抱えている畑山と出会(でくわ)す。 「大日向と話をしてたらこの時間になっちゃって」 「お前、最近対人関係煌びやかだよなあ。水無瀬川とも親しくしてるもんな」 「俺自身は何も変わってないけどね。だから不思議なんだけど」 「髪型は変わったじゃないか。雰囲気イケメンになったぞ、お前」 「ありがと。ところで、その荷物は何?」 「大橋が持ってこいって。何に使うつもりなんだろう」  箱の口は開いていて、中からバトミントンのラケットが覗いている。他にはカラーボールなどといった細々としたものが入っているようだ。畑山の部活の顧問は大橋先生とは別の教師なので、恐らく委員会活動中なのだろう。そう読んだ俺は畑山に尋ねた。 「もしかして、委員会活動?」 「そうなんだよ。ボランティア委員会でラケットって何に使うんだ?」 「わかんないよ。俺、高等部になってから委員会やってないから」 「内申点を気にしないって、モブ山らしいなあ」靴を上履きに履き替えた畑山が、よいしょと箱を持ち上げる。「そういや香月を中庭で見たぜ。瀧居家がいないのは珍しいな」 「中庭?」 「うん。一組の篠邑と一緒だった」  胸がどきりと鳴った。  香月が篠邑さんと瀧居家抜きで話をしている。まさか。畑山と別れた俺は急ぎ中庭に向かった。  とはいえ、中庭にそのまま姿を現すような真似はしない。学年棟の影からそうっと中庭を窺う。  中庭の中央には人口の池があり、そこから小川が流れている。周囲を囲うように生い茂る低木。カルミアが白い花を咲かせている手前のベンチに、並んで腰を掛けている香月と篠邑さんの姿を発見した俺は、二人の会話が聞けないかとその場で耳をそばだてた。  だが、距離が遠いようだ。口が動いているのはわかるが、声が聞こえてこない。  どうしたものか。  取り敢えず二人の様子を窺う。香月はいつも通りといった感じだが、篠邑さんは心なしか表情が硬い。あまり楽しい話ではないのだろうか。俺は二人の近くに隠れられそうな場所がないか窺った。  ベンチの後ろ側に、教科棟と挟まれる形でサツキが咲いている。サツキと教科棟の間には人が一人入れるスペースがあった。だが、そこに向かうには、二人の近くを通らないとならなさそうだ。  これは無理だな。俺は悩んだ。明日、篠邑さんに話を聞くという選択肢もないこともないが、果たして篠邑さんが素直に俺に香月との会話の内容を教えてくれたものか――。 「何をしている」  ひぃ。  頭上から降ってきた声に、俺の顔が引き攣った。 「こ、香月がいるって聞いたから来てみたんだけど……取り込み中、みたいだね」  振り返れば、そこには能面と化した瀧居家の顔がある。眉一つ微動だにしない表情は、感情の一切を感じさせない。  怖い。俺は鞄を胸に抱いた。  に、逃げよう。これは可及的速やかに逃げるべき場面だ。そうだそうだ、そうしなければ。自分が居てはならない場所に居てしまってしまっていることに気付いた俺は「じゃあ!」と、校門側に脱兎の如く逃げ出そうとした。 「待て」  瀧居家の手が俺の肩を掴む。大した力が入っていない筈なのに、その瞬間、俺の足は地面に縫い付けられたように動かなくなった。何でだ。不条理な事態の到来に、俺は仕方なしに瀧居家を振り返った。「な、なに?」恐る恐る言葉を吐く。 「気になることがあるのならば、こそこそ嗅ぎ回るような真似をせず直接一生に聞け」 「で、でも、香月が答えるとは限らないでしょ」 「そのときはそのときだろうが」大袈裟に瀧居家が溜息を吐く。「お前は臆病過ぎるんだ。もう少し堂々としろ。一生の友達ならばな」 「う、うん」  そうこうしている間に話が終わったようだ。篠邑さんがベンチを立った。と、同時に瀧居家が俺の背中を押す。よろめいて校舎の影から飛び出してきた俺の存在に気付いた香月の目が微かに開く。  これはかなり気まずい。  ゆっくりと歩いてくる篠邑さんの髪が波打つように揺れている。俺に一歩近づいてくる度に、強張った顔が緩んでゆくのがわかった。本当に何の話をしていたのだろう。いつも静かに微笑んでいる篠邑さんがこういった表情を見せるのは珍しい。 「香月くんに用?」  俺の目の前で足を止めた篠邑さんが俺に尋ねてくる。  俺はこくりと頷いた。 「ごめんなさい。ちょっと話に時間がかかちゃって」 「あ、いや、いいよ。特に約束をしていた訳じゃないから」 「そう? それならいいんだけど」 「うん。気にしないでね、篠邑さん」  小さく微笑んだ篠邑さんが軽く頭を下げて、俺の脇を擦り抜けてゆく。さて、どうしたものか。俺は悠然と足を組んでベンチに座っている香月の前に立った。「えーと、あの……」篠邑さんと何を話していたのかを知りたいが、それを率直に尋ねていいものか悩ましい。 「座ったらどうだい」 「うん」  俺は香月の隣に腰を下ろした。とはいえ、続く言葉が出てこない。俺は視線を空に向けた。まだ空は青い。校舎から響いてくる生徒たちの声に紛れて、ひよひよとヒヨドリが囀る声が聞こえてくる。  そのまま、たっぷり三十秒ほど。沈黙を続けた俺に、「聞きたいことがあるのだろう」溜息混じりで香月が尋ねてくる。  いつもならば瀧居家が間に立っている場面だが、気を遣ってくれているのだろうか。校舎の影から瀧居家が姿を現す気配はない。  香月の傍に瀧居家がいないのを見るのが初めてのことならば、一対一で香月と話をするのも初めてのことだ。緊張で滲み始めた汗で手のひらが濡れる。大日向に話を聞く前であれば、もっと容易に香月に問いかけることが出来たが、今の俺は香月が小学校時代に起こした問題を訊いてしまったあとだ。だからこそ、これ以上、香月に深入りしない方がいいのではないか。そう思う気持ちがある。  けれども、と、俺は大きく息を吸い込んだ。ここまで瀧居家にお膳立てしてもらった以上、肝心なことを訊かなかったでは済ませられない。あの瀧居家が席を外してくれたのだ。それは俺を信用してくれているからでもあるに違いない。その評価を俺は裏切ることは出来なかった。 「あの……」躊躇いがちに口を開く。「篠邑さんと何の話をしていたの」 「去年の奥山のことを聞いていたんだよ。クラスでどう過ごしていたのか――とかね」  本当だろうか。俺はすぐさま返ってきた言葉に、香月の横顔を窺った。穏やかな眼差しを目の前のカルミアに注いでいる香月の表情からは、何の感情も読み取れない。  俺は気付いてしまった。  香月の柔らかな笑顔は、鎧のようなものなのだ。自らの感情を他人に読み取らせない為の仮面。だから僅かに目を開いただけでも、その内心が窺えてしまう。そう、俺の姿を目にした香月は、間違いなく動揺していた。それはいる筈がない人間がいたから、だけではない。聞かれたくない話をしていたからではないか。何せ、幾ら日直で教室に残らなければならなかったとはいえ、篠邑さんと話をするのにあの瀧居家を遠ざけたのだ。そこに人払いの意図がなかったとどうして言えたものか。 「納得していない表情をしているね」 「そりゃそうだよ。瀧居家がいないんだもの」 「君のことを訊いていたのは本当だよ。私は四月以前の君のことは知らないようなものだからね。あとは大日向のことを少し」  わぁ。  俺は香月から身体を引いた。

ともだちにシェアしよう!