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第三章 疫病神、本懐を遂ぐ⑤
九条は目をぎゅっと閉じたまま、胸に流れる感情の奔流に耐えていた。憎い、悲しい、寂しい。
自分を疫病神だと思い込んだらもうそれでしかなくなった。どこに行ってもそうなら今からもずっとそう在るしかない。
自分と一緒でよくわからない存在、手の中の塊がどんどんと熱を持つが、握りしめたまま手放すことができなかった。「九条くん!」と叫ぶ川瀬の声が聞こえて、緋色の炎に包まれた手を呆然とながめる。自分はこのまま土に還ろう。あの窯で再び優しい手に捏ねられるまで眠るのもいいかもしれない。
「リク!」
鋭い声に突き飛ばされて我に返る。物理的にも突き飛ばされていたらしい。すっ飛んで須弥壇 の前面にぶつかったと気付いたのは、自分の手の炎が早坂に移っているのを見た瞬間だった。
「ふうちゃん……!」
早坂は疫病神を右手で握りしめている。もっと正しく言うと握り潰そうとしていた。閻魔大王が自らの手で裁きを実行するならこんな感じかもしれない。手の中からミシッという鈍い音と、キャッという小さな悲鳴が聞こえる。
「ふうちゃん落ち着いて! 落ち着いてはいると思うけど一旦もっと落ち着いて! ね?」
必死で懇願するのは川瀬だ。打ち付けた背中を庇いながらようやく起き上がった九条は這いながら早坂の足元まで進んだ。因縁物が逃げようとするはずだ、今ここでいちばんおっかないのは見えない感じない住職代理だった。
「理由はあるんかもしれんけど俺にはわからんから意味がない。放火は重罪やから今ここで潰す。そのあとで手えくらいは合わせたる」
「待ってふうちゃん! 俺が、俺が説明するから!」
けど、と早坂は目を潤ませた。男らしい顔立ちの中で瞳は無垢な赤ん坊のように澄んでいる。これに見つめられると安心して、だけどほんの少しだけ心が揺らぐのだ。
「リクに怪我させた奴やし」
「全然熱なかった! ね、見てほら。なんもなってへんやろ?」
だからこっちに渡して、と手を見せる。早坂はほんまや、と納得はした様子だったが、手の中の疫病神を手放そうとはしない。
「お願いふうちゃん」
九条は朝のイチゴちゃん呼ばわりを思い出した。真意はわからないがイチゴのように振る舞えば多少は態度を軟化させるはずだ。イチゴがどのように喋るかは知らないが、演技力をフル動員して早坂を見つめた。
「俺はふうちゃんに危ない目に合ってほしない。わかるやろ? ふうちゃんだって俺に危ない目に合ってほしないからそうしてくれるんやもんな。けどそいつ満身創痍やねん、もうなんもできんはずやから」
「けどこいつ火い出したで?」
「それが最後の力やと思う。きっと、たぶん。知らんけど」
ふうん、と早坂は疫病神を左手に持ち替えた。怪我もなさそうで九条も川瀬もほっと胸を撫でおろす。
「潰すのは勘弁したるけどリクには渡さんから……俺がリクを守るんやから」
このまま俺が持っとく、と言う早坂に、もうそれでええわとイチゴを退散させた。川瀬が「あいつ被害者みたいな顔してる」とささやいてくる。早坂の手の中、疫病神はすべてをあきらめた表情を浮かべていた。
その夜、説得された早坂の手からようやく逃れた疫病神改め狸は、本堂の真ん中に置かれたバスタオルの上でじっと動かずにいた。はじめは座布団に置いていたが、小さすぎて安定せずころころと転がるのだ。別に寝かせておいてもいいんじゃないかと九条も川瀬も思っていたが、早坂が「こんな状況で寝っ転がれるんや」と冷たい声を出したので急きょタオルを敷いてやった経緯がある。
気のせいか狸の土色が土気色に見えてきた。全体的に顔色というか体色が悪い。
逃げようとする気配もない狸の前で、九条はさっき流れ込んできた感情をふたりに説明した。合ってるよな? と狸を伺うと、小さな丸い耳がひくひく動いたような気がした。
「窯……陶器メーカーってそういうこと?」
「昔ご先祖か誰かが狸の置物焼きましたか? って聞いてももう誰も知らんよね」
結局狸が本懐を果たせたかはよくわからない。
あの会社を潰しても尚そこに留まろうとしたのは、九条に流れ込んできた「土に還りたい」狸の願いなのかもしれなかったが、当の狸もはっきりした記憶は曖昧らしい。思い出せないほど遠い昔のことなのか、それとも元々土の塊であるが故の本能しかないのか。
九条は狸の頭をそっと撫でた。触れるたびにあの記憶の断片がまだかすかに流れ込んでくる。何度も繰り返された失望の記憶。しんどいなあ、とつついて倒しておいた。ちょっと横になったらええよ、と声をかけながら。
早坂はじっとその様子をながめていたが、狸を無理やり立たせてビンタするような素振りは見せなかった。
「あとはこいつをどうするか、か」
狸を持ち込んでしまった張本人である川瀬がそう呟いた。
「このまま供養するのが妥当なんかもしれんけど……」
「けど?」
「なんかもうちょっとやれることある気がするような? 元疫病神やで。器なくしてもこの世に強い未練を残すかもしれんしね」
九条にはもう心を許している様子の狸を横目で見ながら、川瀬はさらに続けた。
「九条くんが持っとくのもええと思うんやけどね、こいつはこれからもいろんな想い垂れ流すかもしれんでしょ。いくら悪気なくっても受け止める君が危険かもしれんし。こいつの悲しいこと全部引き受けて潰れるのはあかんよ」
「川瀬さん……」
「それにふうちゃんが許さんで。さっきの見てたやろ? 君になんかあったらその瞬間こいつ木っ端みじんや。次は問答無用で握り潰されるよ……」
どうにかして誰もがいちばん幸せな方法を、と言いながら考え込む川瀬の隣に早坂が屈みこんだ。場に緊張が走る。いちばん身を固くしている気配があるのは土でできた狸だった。
「こいつをこれからどうするかやけど」
沙汰が始まってしまった。決定権は住職代理の早坂にあるが、もしもあまりに無慈悲な判決が出たら異議ありを申し述べよう。さあ来いふうちゃん! 早坂は狸を持ち上げて再び手の中におさめた。やっぱり握り潰しの刑になるらしい。挙手しかけた川瀬の焦り顔をよそに、早坂の指は優しく狸の腹を撫でていた。
「福の神やったらそれらしく仕事したらええやん。『招き狸』なんやろ? 本分を思い出せよ。あんたはそんな大層なものやないからな。おとなしく作られたとおりお役にたっといたらえねん」
そう早坂は狸に声をかけた。
「モノはいつか壊れる。それは明日かもしれんし百年後かもしれん。壊れたらそれまでや。誰も恨むなよ。そんで今度こそその生を全うせえ。明日から世話になる人はな、おまえが壊れるまで大事にしてくれる人やから。誓えるか?」
ふうちゃん、と九条と川瀬の声が重なった。そうだ、こいつは「招き狸」だ。八相縁起の狸らしくこれからを過ごさせたら満足するかもしれない。けどどこに? とふたりが問うと、あそこしかないやろ、と早坂が不思議そうな声を上げた。
早坂の低い読経が本堂に響き始める。九条はその声を聞きながら狸のそばに座り込んだ。意味はわからないだろうに狸の震えは少しずつおさまっていくように見えた。たぶんこれは狸のための経なのだ。狸を挟んで川瀬が座る。
「俺のせいでほんとにごめんね」
「川瀬さんのせいちゃいますよ」
これは九条の本音だった。
「俺、ヤバいものの話とか聞けたらええなって最近は思ってて……やからふうちゃんみたいな人と偶然出会えて奇跡やったんですよ」
奇跡か、と川瀬が少し笑った。狸の話はどうやった? と話す姿は小学生に語りかけるようでもある。
「こいつと似てるとこあったかもって、でも俺は運が良かったんですかね。ちゃんと拾ってくれる人おったから」
「……君は疫病神でも狸の置物でもないからね。『九条陸』っていう普通の人間やから」
本堂の裏にあるクスノキの葉が夜風をはらんでしなり、大きく唸るような音がする。
はい、と答えると川瀬は、ええお返事やね。と真面目な顔をしてみせる。「狸が幸せでありますように」と手を合わせるのに、九条も小さく頷いた。
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