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第一章 第1話

 明日はどっちだ、なんてよく言ったものだ。  同じ毎日を繰り返している。起きて、仕事行って、食べて、寝る。職場と自宅の往復のありきたりな毎日。劇的に何が起きるわけでもなく、昨日とまったく同じということもない。時折、このままではいられないような、奇妙な焦燥感に追い回される。でも、追い回されるだけだ。誤魔化しながら逃げ回るうちに日々は過ぎていく。  いつも考えてる。おれの明日はどっちだろう。道も見えない。歩き方もわからない。どこを目指しているのかもわからない。それで明日がわかるはずもないのに。  それでも、考えずにはいられない。  もしも明日、今日をひっくり返すような出来事が起きたとしたら――――  明日葉護(あしたば まもる)の脳内には音楽が流れていた。  徹夜明けの会社、の倉庫、の詰所の一角。  ノートパソコンを前に、明日葉はデスクに突っ伏していた。  脳内バックミュージックは打首獄門同好会の「はたらきたくない」。 「お、起きたくない……」  パソコンの時刻は8時20分、あと10分もすれば事務所で朝礼が始まる時間。ギシギシに凝り固まった体を何とか起こし、椅子の背にもたれて伸びをする。結局昨日は徹夜してしまった。卓上の空き缶をゴミ箱に放る。黒いラベルに黄色の文字が書かれた高カフェイン飲料の缶が、音を立ててゴミ箱に入った。  目の前には膨大な量の伝票の束と棚卸表。昨日までの棚卸が二時間前に何とか終わり、ほっとするのも束の間。4月月初の大量注文がすでに発伝されていた。  FAX分と合わせるとあとどのくらいあるんだろう、と明日葉は恐怖に震えた。はたらきたくない。凝り固まった首を動かすと、ひどく軋んだ。  あくびをして周りを見渡す。設けられた窓からは、大小の箱が積み重なった棚がずらりと並んだ景色が見えた。薄暗い、学校の体育館程度の大きさの倉庫。併設された詰所にいる自分の前には、デスクとノートパソコン。それを埋め尽くすように棚卸表が広げられ、明日葉のデスクの上は惨憺たるありさまだった。  詰所の隅を一瞥すると、伝票用のプリンターがガーガーと音を立てていた。排紙口には大量の伝票が積み重なっている。  忙しさに昨日は自宅に帰ることが出来なかった。開いたままのパソコンがスリープモードに入る。真っ暗になった画面には、むくれてクマが出来た自分の顔があった。ひどい顔だった。  顔に納品書は張り付いてるし、髪はぼさぼさ。元々癖毛だったのが、さらに八方にうねっている。とりあえず納品書は剥がしてファイリングした。  椅子に掛けておいた作業着を羽織り、トイレへ行って身なりを整えた。顔を洗えば何とか人前に出れる程度にはなった。  朝礼のために二階の事務所へ上がる。階段を昇って事務所の扉を開けたところで、蛍光灯を抱えた男にかち合った。総務の(あららぎ)だった。 「おはよー、明日葉。今日すごい顔してんね」 「あはは、お前は相変わらずの糸目だね。起きてるんですか?寝てるんですか?」 「あはは、お前の頭も鳥の巣みたいだよ~、小鳥でも飼ってるの?」 「あはははは」  彼とは同期入社したので、無遠慮に軽口を交わす仲だった。が、今朝のこれは、疲れのせいかお互い機嫌がマックスに悪かった。いつもより冗談の切れ味が鋭い。  櫟がふと笑いを止めて長い息を吐いた。 「大丈夫? 全然目が笑ってない。昨日会社泊まったんでしょ」 「んー……でも棚卸終わるまではね、帰れないからね……」 「マジで体壊すよ、そんな働き方してると」 「櫟だって昨日遅かったじゃん」 「僕は9時前には帰りました」  何だよ薄情者…と、話している内に、事務所内に続々と人が集まってきた。明日葉が予定表が張られたホワイトボードの前に立つ頃には、ほとんどの社員が事務所へ集合した。 「おはようございます。それでは朝礼を始めます」  事務長の合図で、各部署の担当者が次々に報告していく。明日葉は閉じそうになる目をこすりながら、かろうじて立って話に耳を傾けた。 「――――で、本日の予定は以上です。それから在管部」  事務長からの指名に、明日葉の隣に立つ細身の壮年の男――――明日葉の上司である大柴が返事をした。明日葉は立っているのもやっとの状況で、よりにもよって一番重要な話題の時に意識が若干飛びかけていた。  事務長が続ける。 「以前も話したように、今日付で新入社員が入るから。家庭の事情で今日は少し遅れると連絡があったから、到着次第倉庫に案内するよ」 「はい、わかりました」  元気よく大柴が返事をする。明日葉は完全に上の空だった。明日葉の隣に立つ櫟が脇を小突いてくる。 「えっ、何?」 「……明日葉、今の聞いてた?」 「うん全然聞いてなかった」  小声で櫟と会話する。明日葉は完全に立ったまま意識を失っていた。櫟が焦った様子でもう一度小突いてきた。 「しっかりして。新人だよ、新人来るってさ」 「へえ、良かったじゃん。どこに配属? 総務? 営業?」  この万年人不足の弱小会社によくもまあ新しい人材を確保できたな、と明日葉は人ごとのように思っていた。  櫟の、次の台詞を聞くまでは。 「在庫管理部」 「………はっ?」  時が止まる。 「聞いてた?」 「聞いてない……全然聞いてない何それ」  全身から血の気が下がる。いや、まさか、そんな。と思って櫟とは逆隣に立つ上司を見ると――――大柴は、舌を出してウインクをした。いや50代壮年男性がテヘペロてお前。 (こいつ伝え忘れてたな――――っ!?)  事務長を見ると、彼は額に手を当ててため息をついていた。絶対事前に大柴に伝えている、これは。  隣に立つ櫟は非情にもそれを口にした。 「絶対教育係お前じゃん」  在庫管理部は今のところ自分と大柴の二人しかいない。大柴は前述の通りだ。間違っても新人教育など出来るタイプではない。  とどのつまり、 「そんなのおれに決まってんじゃん!」  叫ぶと、事務長が気の毒そうな眼差しでこちらを見つめてきた。 「――――ってことで、頼む。明日葉。新人教育はお前に任せる」 「事務長そんな! 丸投げ!?」 「よろしくね~明日葉くん」 「はいぃいいい!?」  では、以上で朝礼終了、と、無情にも事務長が締めた。  朝礼後、大柴は事務長に呼び出されていた。おそらく説教でもされるのだろう。明日葉は呆然とする間もなく、詰所のチャイムで慌てて倉庫へと駆け下りた。トラックの運転手が納品書を携えて、詰所の窓から顔を出していた。急ぎ挨拶して受け取る。  デスクには相変わらずの伝票の束。大量の伝票を吐き続けるプリンター。だがまずは入荷処理から手を付けなければならない。明日葉は充電していたハンディスキャナーを腰のホルダーにセットし、作業用の手袋をはめて倉庫に移動した。  次々と運ばれてくる段ボールを検品しつつ、倉庫の各所に運ぶ。トラックの運転手は挨拶だけするとすぐに立ち去った。明日葉は片っ端から開梱し、黙々と入荷処理、棚入れを進めた。 先月が棚卸月と言うこともあり、社長の指示により在庫を締めに締めていた。そのため、4月頭の入荷品が膨大だった。配送先である各薬局・病院も同様で、一斉に在庫補填の発注を行う。そのため、通常月よりもピッキング数も5倍は多かった。一年で一番忙しいと言ってもいい時期だった。  よりにもよってそんな時期に新人なんて、と明日葉は死んだ目をして入荷処理を進めた。遅刻してきてくれて却って良かったかもしれない。今から新人指導をしろと言われたら、明日葉は泣く自信があった。  はたらきたくないね。脳内BGMが再び再生される。 (今朝のうちに何件かピッキング済ませておいてよかった……入荷処理追い付かないな。相変わらず4月頭は量がいつもの比じゃない――――これは今日も泊りになるかも……)  注文が入るであろう品を予測しながら優先的に棚入れする。そうこうしているうちに再び詰所のチャイムが鳴った。また入荷だ。大柴はまだ詰所へ戻っていないらしい。 (まーたどっかで話し込んでるな……)  女性陣との雑談が大好きな大柴のことだ。事務長からの説教が終わった後、経理の女性社員あたりと新人の話題で盛り上がっているのだろう。大柴はそういう人間だった。  ま、仕方ないとため息をつきつつ、窓口で対応を済ませ入荷作業を進める。明日葉は額の汗を拭った。  時刻が9時半を回ったところで、大柴が二階の事務所からようやく降りてきた。 「明日葉く~ん、新人くんが来たよ~」 「はーい!」  明日葉は作業を止めていったん詰所へと戻った。 「亜笠くん、こちらが在庫管理部担当の明日葉くんです」  ニコニコと笑う大柴の後ろから――――それはやってきた。 「すみません、初日に遅刻しまして。ご迷惑をおかけしました」  彼は、階段を下りてくると、深々と明日葉に向かって頭を下げた。 「亜笠誠一郎(あがさ せいいちろう)と言います。よろしくお願いします」  上げられたその顔に、明日葉の視線が釘付けになった。  さらっさらの亜麻色の髪に、同じ色の瞳。くっきりとした二重。目尻が少し上がっている。恐ろしいことにほとんど歪みがない。左右対称の瞳というものを、初めて見た。鼻筋は高く真っ直ぐ、唇は薄く、顎はすっきり細い。美丈夫というよりは、宝塚の男役のような、中性的な雰囲気を持った美青年だ。 (ほんとにいるんだ……美形って)  絶対に隣に並びたくないな、というのが正直な感想だった。  しかも、この美青年……自分と同じくらいの身長なのに、腰の位置がおかしい。足長すぎじゃないか?  寝不足の頭でぼんやり考えていると新人がスッと手を差し出してきた。当たり前のように差し出された手に、慌てて手袋を外して握り返す。 「あ、教育係の明日葉護です……よろしく」  ぎこちなく自己紹介すると、握り返した手にさらに相手の手が覆いかぶさってきた。両手で片手を握られた形だ。明日葉よりも少し体温の低い、乾いた手。  え、と思う間もなく、その新人は真顔のままとんでもない言葉を口にした。 「明日葉さんは童貞ですよね。処女ですか?」 「………………は?」  およそ朝の職場に似つかわしくない単語に、脳味噌の処理が落ちる。  今、何と言った? この新人は――――  言われたことの意味が理解できない。いや、正確には、理解したくない。脳味噌が理解するのを拒んでいる。 「あの、何――――」  冗談? と思い明日葉は身体を引こうとした。が、亜笠と呼ばれたその新人は、握った手を放すどころかいっそう強く握ってきた。 「今付き合っている人は?」 「はい……?」 「好きな人はいますか?」 「はいぃ…………?」 「いえ、そもそも恋愛経験はあります?」  明日葉は完全に押し黙った。  矢継ぎ早に出される質問に、明日葉の脳内は完全にパニックに陥った。  いや、何だコイツ。  美形、たしかにこれは女性には不自由しないであろうくらいの美青年だが、普通聞くか? 初対面で。いや聞かない。絶対に聞かない。親しくなって飲み会で聞くのだって今時アウトだ。あと顔は関係ないだろ、と明日葉は自分にセルフツッコミした。  しかも、今は人生の中でも割と重要な『新しい職場での教育係との初対面』だぞ。それを?何?言うに事欠いて童貞だー処女だー挙句の果てに恋愛経験ありますか?って、失礼な、あるに決まってんだろうがよ。いや決して人に言えるような堂々たる経験ではないが。 (いやいやいや待て待て待て、落ち着け自分。そうじゃないぞ~。寝不足で思考回路が定まらない……っていうか大柴さんはどこ行っ――――)  と、ふと見ると大柴は配送員の今宮とにこやかに談笑していた。連れてきた新人を放置するという通常運転の彼に殺意が沸くが、今はそれどころではない。  落ち着け、落ち着くんだ、おれ。ふーっと深呼吸する。 「あ、あのー……亜笠、さん? いきなりなんでしょうか、一体。おれは何を聞かれているのでしょうか……?」 「何、とは?」  きょとんとされる。おいテメェ! と言いそうになるのをグッと堪えた。新人教育初日でそれはまずい。大層まずい。 「じょ、冗談だよね」  あははは、と乾いた笑いで誤魔化す。が、新人は全く動じず、真顔のまま首を傾げた。 「本気ですが」  いやマジかコイツ。明日葉は新人に手を握られた状態で天を仰いだ。  冗談じゃなかった。本気だった。どうしようどうしたらいいんだろうか。明日葉のキャパシティを完全に超えた新人がやってきてしまった。  話、通じない。何言ってるかわかんない。 泣きそうになっていると、2階から天の助けとも思える悲鳴が聞こえてきた。 「明日葉さ――――んっ!」  オペレーターの会田だった。彼女はメモを片手に詰所に飛び込むと、明日葉とその手を握る新人・亜笠を見て、あら、とニコリ微笑んだ。 「もうすっかり仲良し?」 「違いますっ!」  慌てて新人の手を振りほどく。と、今度は会田の前とあってかすんなりと手が離れた。 会田は亜笠に一言謝ってから、明日葉にメモを差し出した。 「野ばら薬局さんに急ぎでお願いします! これ、今から伝票流します!」  営業の江南さんにも連絡しますね、そう言って2階へ駆けていく。その背中を見送ってメモを見た瞬間、明日葉の顔が強張った。 「あああああ! 来た――――麻薬製剤!」  大柴さん!と談笑にいそしむ男に声をかける。 「麻薬製剤来たので麻薬譲渡証用意してください!数も絶対2回以上数えて、帳簿も忘れないで下さいね!」 「は~い」  トロトロと麻薬保管庫に向かう大柴を見送り、明日葉は背後で棒立ちしている新人に、言った。 「新人さんは申し訳ないけど今日は一日流れを見学しててください!」  てっきりまた素っ頓狂な質問が来るかと思いきや、新人――――亜笠誠一郎は、明日葉に丁寧に一礼した。 「わかりました。よろしくお願い致します」  ホッと肩を撫でおろし、作業用手袋をはめなおした。

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