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第一章 第2話

 10時を過ぎても明日葉が椅子に座ることはなかった。麻薬製剤は無事に大柴の手によって準備され、明日葉が2回以上数を確認した上で営業の江南に譲渡証ごと引き渡した。麻薬製剤を運ぶのは彼らの仕事だ。もちろんそれだけではないが。  ひとまず亜笠には明日葉の隣の座席に座るよう促した。倉庫を駆け回る自分に、彼は何度か「手伝いますよ」と声をかけてくれたが、とてもじゃないが教えながら出来るような状態ではなかった。明日葉が。  そのため亜笠は倉庫を行ったり来たりする明日葉の背中をずっと見ているだけになった。一日の流れを見学、とは聞こえの良い言葉で、実質は放置に近い状況だった。明日葉の脳裏に、自分が入社してきた日のことが蘇る。 (おれの時は期中だったからなぁ……7月だっけ。ちょうど発注数少ない時に入って、愛染さんがいろいろくっついて教えてくれて)  愛染はつい先月退職した明日葉の先輩だ。口がとんでもなく悪くかなり厳しいが、面倒見の良い女性だった。彼女がいてくれたから自分はここまでがんばることができた。  一方で自分は―――― (やばいな、完全放置になってる……でも手伝ってもらうにもやり方を説明してる時間がない……!)  人員不足の部署にありがちだった。台車を運びながら見ると、彼は配送車に積まれる予定の折りコンを開き、伝票と中身を眺めていた。明日葉が昨夜ピッキングした分だった。  顔を上げた彼と目が合う。 「薬局・病院ごとに詰めていくんですよね」  一瞬呆ける。が、すぐにピッキングのことを言っているのだと思い至った。 「あ、そう。病院とか薬局ごとに籠分けされてるから、それ見ながら折りコンに詰めていくの」 「僕もやります」 「いや、今日は見学で――――」 「何もしないでいると暇疲れするので」  言葉が明日葉の心臓に刺さった。今しがた気にしていたことだった。 「手伝わせてください。この折りコンと同じようにピッキングしていけばいいんでしょう?」  一瞬躊躇った。が、この忙しさに負け、明日葉はわかったと口を開いた。亜笠を連れて詰所へ戻る。明日葉は自分のロッカーを開いた。 「じゃあおれの作業着と手袋貸すよ。スーツのままだと汚れるから」 「ありがとうございます」  亜笠は真顔のまま言った。この新人、愛想笑いのひとつもしない。真顔だからより美形が強調されるなぁ、と、明日葉は関係ないことを考えた。 「まずはこの伝票、病院と薬局ごとに分けて棚にある籠に入れていって」 「配送ルートは?」  明日葉はその質問にきょとんとした。未経験でこの質問はまず出ない。 「……籠に入れていってもらえれば、自動的に配送ルートごとになるように棚順で分けてるから、大丈夫」 「わかりました」 「あのさ、もしかして経験者?」  聞くと、相手は事もなげに答えた。 「いえ、以前はMRをやっていました」  MR!? 明日葉の目が見開かれた。  MRとは医薬情報担当者のことだ。製薬会社の営業職であり、病院や薬局に直接訪問し自社製品の薬効・副作用等を伝える役目を担っている。一般の営業職よりもより一層深い医薬品の知識が必要とされる職だ。  と、言うことはつまり―――― 「うわぁあああ!」  突然叫び出した明日葉に、亜笠の身体がビクッと揺れた。 「じゃあ薬の規格わかる!?」 「ええ」 「冷所品も!?」 「はい」 「劇薬向精神薬その他諸々も!?」 「わかります」  明日葉はその場で膝をついて両手を組んだ。思わず天に祈る。  神様、仏様、普段は在庫のことについて口うるさく電話してくるバカ……社長様、この度の神採用、感謝致します。  突然叫び出して祈り始めた明日葉に、亜笠は怪訝な眼差しを向けていた。当然だ。  明日葉はひとしきり祈った後、亜笠に向き直った。その肩をがしっと掴む。 「ピッキング――――お願いしてもいいですか!?」 「わかりました」  それから――――ピッキングに参加した亜笠は、とんでもなく優秀だったことが判明した。最初の一件を一緒にピッキングしてから、それ以降は彼一人に任せ、明日葉はひたすら入荷登録を進めていった。  区切りの良い所で中断し、配送分として積み上げられた折コンを見に行く。亜笠が受け持った分を検品すると――――ほとんど明日葉が思うように、伝票順に隙間なくきれいに詰められていた。思わず感嘆する。折コンを台車に乗せて戻ってきた亜笠に声をかける。 「すごい、めちゃくちゃきれいに詰まってる! 助かるぅ~!」 「明日葉さんほどじゃありません」  謙遜しなくていいのに、と思いながら明日葉は何気なく聞いた。 「どこの製薬会社にいたの?」  聞くと、新人は肩を竦めて言った。 「八城製薬です」  明日葉の時が止まる。 「八城って、あの八城?」 「はい」 「めちゃくちゃ大手じゃん」  八城製薬は抗がん剤から軟膏剤まで幅広く取り扱う日本でも有数の大手製薬会社だ。  どうしてそんな大手製薬企業の優秀なMRがこんな辺境の中小卸に……?たまらなく聞きたかった。 (いや、でも初日からそんな根掘り葉掘り聞かれたら嫌だよな……)  人にはいろんな事情があるんだし、と明日葉は好奇心を押し殺した。 「どうして辞めたのか、聞かないんですか」  亜笠の言葉にドキリとする。こいつ……エスパーか? 「うん」 「どうして?」 「だって――――みんなから聞かれてるだろうし、嫌だろ」  初日から質問攻めされたら。そう言うと亜笠は眉を寄せて黙り込んだ。  何かおれは失礼なことを言っただろうか。少し不安になる。  しかしその不安も、再び襲来した会田の声によって掻き消された。 「明日葉さぁ――――んっ!」  腕時計を見ると、時刻は11時20分。 「来た来た来た! 会田さん、西島調剤!?」 「はい、輸液7箱来ました! 急配です!」  会田が握りしめる伝票を預かる。先週から西島調剤に取り置きを頼まれていた分だ。時間きっちりに来たなと明日葉は急ぎ台車を回すと、亜笠に言った。 「おれちょっと配送出てくるから! 12時になったら休憩取ってね、亜笠さん」 「――――はい、明日葉さん」  それまでは申し訳ないけどピッキングの続きをお願い、と言ってその場を後にした。 「戻りましたぁ~」  急ぎの配送を終えて戻ってくると、時刻はちょうど12時を指していた。 「お疲れ様です、明日葉さん」 「あ~、ありがとね、亜笠さん」  ピッキングを終えて戻ってきた亜笠に礼を言う。いえ、別にと亜笠は顔を背けた。大柴が二階に続く通路からひょっこりと顔を出した。 「お疲れ様です~、明日葉くん。じゃあ私はお昼行ってきますね~」  そう言うと、お弁当を持って早々と休憩室へ立ち去る。後には隣に座る亜笠と明日葉が残された。さてと、と明日葉は亜笠に向き直った。 「お昼は12時から1時間、外に出てもいいし、2階の休憩室使ってもいいし、ここで食べてもいいし。今日はお弁当は?」 「持ってきてないので、外に」 「あ、じゃあ行ってきていいよ」 「明日葉さんは?」 「おれ?」  あ、そう言えば朝から何も食べていなかったな……と今更ながらに思い出す。が、とりあえず先に済ませたい案件があった。棚卸データの差異の確認だ。 「おれはここにいるから、ゆっくり行ってきなよ」 「お弁当ですか?」 「違う、けど……」 「食べないんですか」 「うん、まあ、あとでいいかな」 「一緒に行きませんか?」  その言葉に明日葉はギクリとした。明日葉は生まれた時から筋金入りのコミュニケーション障害のため、職場の休憩時間の雑談が苦痛なタイプだった。少し考えるふりをしてから丁重にお断りする。 「おれは、今日はいいかな……」 「ご飯、食べないと体に悪いですよ」  即答だった。思わず押し黙る。朝も食べていないのを見透かされたように感じた。そんなわけないのだが。  亜笠は相変わらずの真顔で感情が読みにくかった。黙り込んだ明日葉にトドメの一言が掛けられた。 「教育係が仕事しているのに、自分だけ休憩を取るわけには行きません」  明日葉は目を閉じて引き出しから財布を取った。 「行こうか、お昼」  パソコンを閉じて立ちあがった。後ろから付いてくる亜笠が、少しだけ笑った――――ような気がした。

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