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第三章 第2話

 明日葉護の一番嫌いな季節が始まった。  6月、季節は梅雨。毎日曇り空が続き、たまに雨が降り、青空を忘れそうな日々が続く。洗濯物も乾かない、食べ物もすぐにカビる。おまけに祝日もない。  何より湿気に刺激され、ただでさえ癖の強い髪の毛がさらにうねって毎日大変なことになっていた。 「こんにちは、河和です」  挨拶を口にしながら、癖毛頭の明日葉は保冷ボックスを手に自動ドアをくぐった。  ここはファーマみらい薬局――――青梅病院の門前薬局のひとつだ。冷所品の注文が入り、急ぎ配達に来たところだった。  明日葉は受付に立つ事務員に一声かけた。 「失礼します」  用意されているスリッパに履き替え、受付の後ろを通り調剤室へ入る。中には3人の薬剤師が立っていた。 「河和です。急配お届けに来ました」  明日葉が声をかけると、薬剤師のうちの一人――――阿部は、待っていましたと言わんばかりに振り返った。  明日葉は心の中だけで舌打ちした。 (患者さんの投薬対応に出ていれば良かったものを……)  この阿部という薬剤師は大変な変わり者で、明日葉に何かとちょっかいをかけては面白がる、非常に厄介な薬剤師だ。  先日も棚卸直後だというのに手書きの難読注文書を送り付けてきて、明日葉が泣きながら解読したところだった。  ただし、彼が管理薬剤師になってからと言うもの、ファーマみらいは投薬ミス3年連続0件という驚異の記録を保持し続けているのも事実であり――――結果的に、阿部に対して誰も何も言えない状態が常態化していた。  阿部は相変わらず感情の読めない笑顔を浮かべたまま、明日葉に声をかけてきた。 「明日葉~久しぶり、元気?」  明日葉は保冷ボックスに入った医薬品と伝票を差し出す。愛想笑いをすることもなく、死んだ眼差しを阿部に向けた。 「全然元気じゃないです。阿部先生はお元気そうでいいですね」 「元気元気ぃ。なんだよ、若いのに死んだ魚みたいな目するなよ~」 「元からです」  阿部が伝票にハンコを押し、控えを明日葉の手元に戻す。明日葉は受け取って踵を返――――そうと、した。 「明日葉さぁ」  今思えば、この時点で挨拶して帰るなり何なりしておけばよかった。  なのに、明日葉はついうっかり振り返ってしまった。 「はい?」 「新人くんとのことなんだけど」  新人とは、この春に明日葉の部署に入ってきた新人・亜笠誠一郎のことだ。  彼とは、ここ二カ月の間にいろんなことが――――告白されたりデートに連行されたりキスしたりホテルに行ったりその途中で急配が入って二人で駅を猛ダッシュしたりと――――あったが、今では何やかんやあって職場の先輩後輩として上手くやっているところだった。 「亜笠がどうかしました?」 「そうそう、その亜笠くんさぁ」  何かミスでもやらかしたのだろうか、と明日葉は首を傾げた。  阿部はニコニコしながら、無防備な明日葉にとんでもない爆弾を投下してきた。 「この前、明日葉と駅のど真ん中でキスしてたけど、二人って付き合ってるの?」  阿部の後ろでお茶を飲んでいた女性薬剤師が、勢いよくお茶を噴き出した。  明日葉はどんよりとした眼差しで、大丈夫かな、調剤中の薬にかかってないといいな、などという場違いな心配をしていた。 「で、どうなの?」  明らかに背後にワクワクという擬音を背負って、阿部が言った。  明日葉は目を閉じて、保冷ボックスを抱えて、控えの伝票をポケットにしまった。思い切り息を吸って、言った。 「それじゃあ失礼しま――――す!」  阿部の「あ、逃げた」と言う声が明日葉の背中から聞こえた。 「戻りましたぁ!」  怒りに任せて詰所の扉をスパーンと開いた。  倉庫の詰所にある4台のデスクの内、ひとつは明日葉の上司――――大柴が相変わらず突っ伏して居眠りをしている。もうひとつは伝票の積み上がった自分のデスク、その真向かいは荷物置き場と化していた。 「おかえりなさい、明日葉さん」  明日葉の隣のデスクに座った男――――この春入社した新人・亜笠誠一郎がこちらに顔を向けた。 「急配先、ファーマみらいでしたよね。今日は少し時間かかりましたね」  声をかけてくる亜笠を無視し、明日葉はスーツを脱いでロッカーに突っ込んだ。椅子に掛けっぱなしだった作業着を羽織る。充電器に差し込まれたハンディスキャナーを取り、腰のホルダーに乱暴にセットした。  作業用手袋をはめて、積み上がった伝票を手に取ったところで、明日葉は恨みがましくその名を呼んだ。 「あーがーさぁー……」  こちらを見る亜笠は、相変わらずの無表情だった。 「どうかしました?」 「どうかしました? じゃないっ! ファーマみらいの阿部さんに、よりにもよってあの阿部さんに!」 「はい」 「先月の駅のやつ見られてたぁああああ!」  明日葉はその場で床に突っ伏して「うわぁあああ」と泣き出した。 「先月のやつって――――ああ、駅の」  亜笠は言葉足らずの明日葉の話を脳内で補完した。明日葉は頭を抱えて床を転がった。 「もうおれあそこに配送行けないぃいいいい!」 「はいはい、じゃあ今後は僕が行きましょうね」  床を転がる明日葉を冷めた目で見つめ、亜笠が言った。 「っていうかそもそもお前があんなところであんなことするから!」 「あれは明日葉さんからしてくれたんじゃないですか」 「だってお前が今すぐとか言うから!」  ぎゃあぎゃあ言い合っていると、事務所からスーツ姿の男――――総務の櫟が降りてきた。詰所を見るなり顔を顰める。 「お疲れ~、って、何どうしたの。ついに寝癖頭をモップの代用にし始めたの?」 「うるさい腹黒糸目!」  明日葉が起き上がって言った。櫟はため息をついて明日葉の頭に付いた埃をつまんだ。指先に付いたそれをフッと息で吹き飛ばす。 「いい大人が何やってんの。ほら起きて、当番表持ってきたよ」  差し出された紙に、明日葉は慌てて立ち上がった。櫟の手から受け取る。 「ありがと。今月は榎木さんが出れないんだっけ?」  明日葉が勤めるここ――――株式会社河和は、医薬品の卸会社だ。平日はもちろん社員が常駐しているが、通常休日である土日も、緊急時のために当番が決まっていた。担当者が専用の携帯を持って、必要に応じて緊急出庫に対応する形だ。  営業の榎木は土日にメインの当番として出ていたが、今月は急遽出れなくなったと聞いていた。 「お父さんが具合悪いみたいね。介護に行かないとなんだって」  櫟の言葉に、亜笠は一瞬顔を上げた。だがすぐに伝票の整理に戻る。明日葉は首を傾げた。 「介護かぁ、大変だね」  当番表に目を落とす。今週の日曜――――榎木が出るはずだった部分に、明日葉の名前が入れられていた。 「さっそくおれのこと入れたな……」 「いや~社畜は土日に用がないからシフト入れやすくていいよね~」  櫟があはははと笑った。失礼な、と明日葉は怒った。 「おれにだって予定くらいあるわ!」 「何」 「ゆっくり寝たりタバコ吸ったりコンビニ行ったりゆっくり寝たり」 「それを世間では暇って言うんだよ、ポンコツ」  明日葉は唇を噛んで櫟を睨んだ。何か反論したかったが、何も言えなかった。 「ってか何をそんなに騒いでたの?」  首を傾げる櫟に、明日葉はあっと声を上げて指を向けた。 「っていうか櫟! お前この間逃げただろ、駅で!」  櫟は一瞬眉を寄せたが、すぐに何を指しているかわかったようでニヤリと笑った。 「ああ、あれね。あれは愛染さんともう走るしかないって結論になってさぁ」 「取り残されたおれがどんな目に遭ったか!」 「どんな目に遭ったの?」 「…………」  明日葉は口を開いたまま静止した。伝票整理していた亜笠が顔も上げずに追撃する。 「僕から説明してあげましょうか?」 「いいっ! 入荷処理してくるっ!」  明日葉はそう言って、震えながら笑いを堪える櫟を背に倉庫へと駆け出した。  積み上がった段ボールを床に広げ、ひとつひとつハンディスキャナーでバーコードを読み込んでいく。開梱しながら、明日葉はため息をついた。  新人・亜笠が入社してから、明日葉はずっと落ち着かない日々を送っていた。  彼からは入社3日目で告白され、先月は強引にデートへ連れ出され、駅前でキスまでさせられていた。まあ最後のは自分にも責任があるが。  うっかりしていた。一応駅前でキスをする時、さっと見渡した限りでは知り合いの顔はなかったはずなのに。阿部は一体どこから見ていたのか。 (ああ――――もう!)  乱暴に置きたい気持ちをぐっと押さえて、丁寧に段ボールを床に置く。中の包装に破損が生じると返品できなくなるので。  明日葉はポケットからタバコを取り出し、屋外の喫煙所――――と言っても灰皿スタンドが置かれているだけだが――――に、足を運んだ。 (考えることがありすぎて頭がパンクしそうだ……)  淀んだ瞳で吐いた煙が、風でゆらゆらと曲線を描く。  駅前でキスをせがまれた時のことを思い出していた。  誕生日プレゼントは今この場でのキスがいいと言われ、明日葉は駅構内のど真ん中で、覚悟を決めて亜笠の肩に手を置いた。  本当に一瞬だけ唇を触れ合わせて、さっと離れた。  明日葉の顔は茹蛸のようになっていた。恥ずかしさで目には若干涙が浮いていた。どうしてこんなことに、と思っていた。  こいつは厚顔そうだから平気なんだろうな、自分でキスをせがむくらいだもんな、と思って視線を上げて――――明日葉は声を失った。 『ありがとうございます』  亜笠が、これ以上ないくらい柔らかな笑顔を見せていたからだ。  明日葉にはその笑顔の意味が理解できなかった。  こんな自分にキスをされて、どうしてそこまで嬉しそうな顔ができるのか――――いや、本当はわかっている。  わかっているが、明日葉にとっては受け入れがたいものだった。  身体の中から悪い空気を抜くように、煙と共に空に向かって息を吐く。  どんよりと曇った空に、煙が溶け込んでいった。  明日葉は目を閉じた。 (――――やめよう。仕事しよう)  タバコをもみ消して、明日葉は気持ちを切り替えた。  喫煙所から倉庫に戻り、黙々と作業をこなすこと4時間。  時刻は18時45分。帰り支度をする明日葉に、亜笠が声をかけてきた。 「明日葉さん――――今週の土曜、暇ですか?」  亜笠はすでに帰り支度を終え、鞄を手にしていた。明日葉は先ほど櫟が持ってきた当番表を手に取った。自分の担当は日曜日。 「社畜はどうせ暇ですけど」  歯をむき出して言うと、亜笠が無表情で言った。 「なら、ちょっと僕に付き合ってくれませんか?」  明日葉は首を傾げた。冗談半分で口を開いた。 「何? もしかして今度はお台場に行くとか言わないよね」 「行きたいところがあるんです」 「どこ?」 「行きたいところです」 「だからそれがどこかって聞いてるんだけど!?」  会話になってないんだよ! と明日葉は胸倉を掴みたくなった。  明日葉はハッとした。 「えっ、まさかほんとにお台場じゃないよね!?」 「違います」  きっぱりと言われて明日葉は胸を撫で下ろした。  が、もう一度ハッとする。 「まさか今度こそ千葉の巨大リゾート施設に行くつもりじゃ……!?」 「行きたいですけど、それも違います」  明日葉はきょとんとした。 「じゃあどこ行くんだよ」  亜笠は唇に人差し指をあてて、にっこりと笑った。 「内緒です」  さすがは美形、気障な仕草も絵になるなぁと明日葉は他人事のように思った。 「それじゃあ、土曜10時に。立川駅北口待ち合わせで」  そう言われて明日葉はため息をついた。  行くことはもう決まってるのね。

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