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第三章 第3話
10時よりちょっと前。待ち合わせ場所に行くと、予想通り亜笠が立っていた。見ると彼はチノパンにYシャツという軽装だった。背中にはバックパックを背負っている。前髪も下ろしたまま、ジャケットも羽織っていない。
明日葉はホッとした。今日は高級店に連れて行かれることはなさそうだ。
が、軽装にも関わらず、亜笠の後ろにあるカフェの店内では女性店員がコーヒーをテーブルに注いだり女性客が一眼レフカメラを構えたりしていた。相変わらずだ。
亜笠はやはりスマホを注視していて明日葉の存在に気づいていない。
(…………帰っちゃおうかな)
思った瞬間、亜笠が顔を上げた。目が合うと、微笑んで手を振ってきた。
(エスパーめ……)
明日葉は仕方なく亜笠に近付いた。
「おはよう」
「おはようございます、明日葉さん」
今日は遅刻じゃないですね、と亜笠が言った。
「うん、遅刻したらまた手錠に捕まると思ったからね」
明日葉は前回のデートで捕縛されたことを思い出していた。
「まさか、そんな」
あはははと亜笠が乾いた笑いを漏らした。明日葉は手のひらを差し出して言った。
「ちょっとポケットの中見せてもらえる?」
「断固拒否します」
顔を背けて拒絶する相手に、明日葉は震えた。
持ってきてる……こいつ、また手錠持ってきてる……明日葉は両手で自分の身体を掻き抱いた。明日葉は自分の腕をさすりながら亜笠に聞いた。
「で、今日はどこに連れて行かれるんですか、おれは」
「まだ内緒です」
とりあえず行きましょうか、と言われて、明日葉は少し躊躇った。
言おうかどうか、悩んだ。そんな明日葉に亜笠が首を傾げる。
「明日葉さん?」
いや、やっぱり聞くだけ聞こう、と明日葉は覚悟を決めて口を開いた。
「あのさ」
「はい」
「行き先って」
「はい」
「その――――健全なところ、だよね?」
朝の10時にする話題じゃないだろう、と自分で自分にツッコみたかった。前回のデートで超高額スイートルームでの甘い夜(笑)を台無しにしているので、ふと頭に過ってしまったのだ。
(埋め合わせするって言っちゃったし……)
デートの帰り道での会話が明日葉の脳裏を過った。
亜笠はそんな明日葉を見て一瞬だけポカンとした後、意図を察したように悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫、老若男女が入れるとっても健全な場所です」
ならよかった、と、明日葉は胸を撫で下ろした。
行先はなんと――――多磨霊園だった。
多磨駅で降りると、亜笠は駅近くの花屋で百合の花束を買っていた。
だだっ広い敷地内を二人でトボトボと歩いていく。同じような景色が続く広大な土地に、迷子癖のある明日葉は亜笠の背中を見失わないよう必死だった。一度迷ったら二度と出られなそうだ。
やがて見えてきたのは――――
「もしかして、これって……」
明日葉が最後まで言わずとも、亜笠は頷いた。
「父です」
亜笠家、と彫られた墓石の前で、亜笠が立ち止まった。
「お父さんって、あの、亡くなった……?」
先月のデートの際に話を聞いたばかりだった。
亜笠は花束の包装紙を開く。墓前の水差しにはすでに白い菊の花が添えられていた。その隙間に、亜笠が百合の花を挿していく。
「そうです。僕が5歳の時に亡くなって、今日がちょうど20年目の命日なんです」
明日葉は目を見開いた。
「今日が命日なの!?」
「はい」
淡々と返事をする男に、明日葉は戸惑った。というか焦った。
おれはそんな畏まった日に、いかがわしい場所に連れて行かないよね、という質問をしてしまったのか。えらい空気の読めない男だな、と明日葉は自分に絶望した。
それにしても――――
ふと湧いた疑問を亜笠にぶつけてみた。
「そんな大事な日に――――どうして、おれなんか」
亜笠が真っ直ぐに明日葉を見つめて、言った。
「紹介したかったんです」
「え……?」
亜笠が墓石に向き直った。微笑んで明日葉に手のひらを向けた。
「父さん、こちらが僕の大切な恋人の、明日葉護さんです」
「あ――――どうも……初めまして、よろしくお願いします……」
優しい亜笠の笑顔に、明日葉はついそのまま返事をしてしまった。言ってからハッとする。
「って危ない! そうじゃない! お父さんおれはまだ恋人じゃありません! ただの同僚です!」
「『まだ』ね……」
「まだでもないです! そんな予定ないですお父さん!」
墓石に向かって必死に言い訳する明日葉に、亜笠がくすくすと笑った。
明日葉はむくれたが、亜笠が線香に火をつけていたので手を差し出した。数本分けてもらい、二人で並んで手を合わせる。
明日葉が顔を上げても、亜笠はまだ瞳を閉じて手を合わせていた。
亜笠の背後でそれを静かに見守る。
線香の香りに実家を思い出した。
明日葉の実家は東北の小さな町の山寺だった。幼い頃から毎朝仏壇には線香が立っていた。明日葉にとっては懐かしい匂いだった。
しばらくすると亜笠が顔を上げた。そのまま、明日葉に背を向けたまま彼は口を開いた。
「明日葉さん」
「何?」
「父は病気で亡くなりました。癌でした。見つかった時には手遅れで、どうにもならない状態だったそうです」
淡々と語られる過去に、明日葉は言葉が見つからず「うん」とだけ言った。
そんな明日葉に、亜笠は続けて言った。
「父は役場でケースワーカーをしていました。休日や夜でも緊急の連絡が入れば駆けつけて、問題を抱える人たちのために働いていました。忙しい日は休憩もろくに取らずに」
亜笠が立ち上がって振り返る。その瞳の切実さに、明日葉はドキリとした。
「だから、明日葉さん」
「うん」
「休憩は取ってください」
「うん」
「ご飯も食べてください」
「うん」
「ちゃんと寝てください」
「はい」
亜笠が目を閉じた。それは祈りにも似たような声だった。
「――――長生きしてください」
「亜笠……」
明日葉は何も言えなかった。こういう時に気の利いた台詞ひとつ言えない自分に、少しがっかりした。
「父さんにも、生きて、あなたに会って欲しかった」
明日葉は風に揺れる線香の煙を見つめた。
これほど――――真剣に、真っ直ぐに自分に気持ちを伝えてくれる相手に対して、何も声をかけることができなかった。
「帰りましょうか」
また来ます、父さん。そう言って歩き出す亜笠の背に続く。
梅雨空の下、風に吹かれながら、明日葉は一度だけ足を止めて振り返った。
亜笠家と彫られた墓石をじっと見つめる。
(亜笠のお父さん――――どんな人だったんだろう)
そんな明日葉の後ろ姿を、亜笠は何も言わずに見守っていた。
墓石に供えられた白い花が、風に揺れていた。
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