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第四章 第5話

 明日葉は窓を少しだけ開け、ぬるい風を浴びながら流れていく田園風景を眺めた。真夏の稲が青々と揺れ、その向こうでは山並みがゆっくりと遠ざかっていく。 「良いご家族でしたね」  運転席から聞こえた亜笠の言葉に、明日葉は顔を顰めた。 「どこが。全然だよ」  窓枠に頬杖をつきながらぼやく。 「親父はあんなだし……」 「仕方ないでしょう。全員に受け入れてもらえるとは思ってません」  亜笠はゆっくりとハンドルを切った。カチカチ鳴っていたウインカーが止まる。亜笠の横顔は穏やかで、さっき父に怒鳴られた人とは思えないほど落ち着いていた。 「母さんも――――てっきり怒られるのかとばっかり思ってた」 「明るいお義母さんじゃないですか」  母の笑顔を思い出して、明日葉は目を伏せた。 「昔はああじゃなかった。おれが小さい頃は何かって言うとヒステリー起こして……結構叩かれて痛い思いもした」  自分でも少し意外だった。こんな話を誰かにするのは初めてだった。 「――――そうだったんですか」  亜笠はそれ以上何も聞かなかった。そのことが少しだけありがたかった。 「うん。なんか、明るくなってたな、表情が」 「いろいろあったんでしょうね。何せ8年ですから」 「兄貴は変わらなかったなぁ」  幼い頃から、怒る父と泣く母の間に入っていた。部屋の隅で泣く自分を宥めてくれたのも兄だった。 「明日葉さんに似て、優しいお義兄さんでした」  首を傾げる。しっかり者の兄と自分の間に似ているところが思い浮かばなかった。 「似てるかな?」 「似てます、とっても」  明日葉は照れを隠すために外に目を向けた。まだ青い稲が風に揺れ、その波がどこまでも続いていた。 「お前は――――強いね。芯がブレないって言うか」  窓の外を見つめながら、明日葉はぽつりと漏らした。 「そんなことありませんよ」 「親父に怒鳴られた時も、毅然としてたし」 「実の父から言われたら、さすがの僕も堪えますよ。逆にあそこまで言い返せる明日葉さんの方がすごいと思います」  自分はただカッとなって言い返しただけだ。思ったことが口に出てしまうのは、父によく似ている。こんなところ似なくていいのに、と明日葉は苦笑した。 「お姉さんもいたんですね」  明日葉は目を細めて、亜笠の横顔を見た。 「……兄貴がしゃべったな」 「今度はカフェにご挨拶に行かないとですね」  兄と違い、パワフルで話好きの元気な姉の姿を思い出す。……亜笠の存在が知られたら絶対に連れて来いと言うだろうな、と明日葉は額に汗をかいた。 「やめて、まじで」  近いうちに、兄から話を聞いた姉が電話をしてきそうな予感がした。  亜笠は楽しそうに肩を揺らした。 「また一緒に来ましょうね」  亜笠は明日の予定でも話すような気軽さだった。来年も、その次も、一緒に来ることを疑っていない声音だった。 「当たり前みたいに言わないでくれる?」  呆れ半分で返しながらも、その声に棘はなかった。  しばらく二人とも何も話さなかった。  窓の外では、見慣れた山並みが少しずつ遠ざかっていく。故郷との距離が開いていくのに、不思議と来た時ほどの胸の重みはなかった。  タイヤがアスファルトを滑る音だけが、静かな車内に一定のリズムを刻んでいた。 「……まあ、昔よりはマシになったかもな」  流れていく故郷の景色を眺めながら、明日葉は誰にともなく小さく呟いた。 「寄りたいところがあるんですけど、いいですか?」  明日葉が頷くと亜笠は車のハンドルを切った。駅方面から逸れて、白河市内の湖のある公園方面に向かう。 「ここです」  駐車場に車を止めてドアを開ける。  湖のほとりに建つその店を見て、明日葉は思わず足を止めた。  テレビや雑誌に出てきそうな、おしゃれなカフェだった。  木の外壁に大きなガラス窓。飾り立てているわけでもないのに、妙に目を引く。木目のきれいな外壁とテラス席が湖畔の緑によく馴染んでいた。 「こんなとこよく見つけたね」 「ついこの間出来たばかりなんですよ。カフェ界隈では有名なところです」 「へぇ……もしかしてわざわざ調べてくれたの?」  明日葉が聞くと、亜笠は首を縦に振った。  外観のおしゃれさに気後れする自分とは違い、亜笠はスッと店内へ入っていった。明日葉もおずおずと後に続く。  カウンターで注文してから席に着くタイプの店だった。亜笠は明日葉が店内をキョロキョロしている内にさっさと注文を済ませてくれた。さすがに帰省時期とあって店内は混雑していて、眺めの良いテラス席は人でいっぱいだった。  テラス席を一瞥すると、亜笠は少し残念そうに店の奥の四人掛けの席へ腰を下ろした。  店内のインテリアは凝っているがどれもシンプルで、おしゃれ空間が苦手な明日葉にも居心地が良かった。 「こういうとこ好きなんだ?」  席に着きながら言うと、亜笠が微笑んだ。 「明日葉さんと来たかったんです」  臆面もなく言うなぁ、と思っていると、頼んだものが運ばれてきた。 「あ……」  アイスティーが二つと、ガトーショコラとスコーンが乗った皿が、一つ。明日葉は目を輝かせた。 「明日葉さんパンが好きなので、こういうのも好きかなと」 「おれ焼き菓子大好きなんだよ……」  スコーンもらっていい? 聞くと亜笠は皿を明日葉の方へ寄せた。 「どっちもどうぞ。そのために頼んだので」  嬉々として食べようとペーパーナプキンを探したが、見当たらない。自分で持ってくるタイプの店のようだ。 「持ってきますよ」 「いいよ、おれ行くから」  席を立ちかけた亜笠を手で制して、明日葉は席を離れた。  店内を見渡すと、カウンター横にペーパーナプキンや砂糖などが置かれていた。ナプキンを二つ手に取ったところで、後ろから肩を叩かれる。 「え?」  振り返ると、そこには淡いグレーのキャップを被った女性が立っていた。  パッと見は大学生かと思うほど若々しかった。ふんわりと編み込まれた髪が両肩から垂れていて、化粧もそれほど派手ではない。色白で柔らかい雰囲気。白いTシャツに太めのジーンズが、シンプルなのにとてもよく似合っていた。  女性は瞳を見開いてこちらを見ていた。とても驚いているように見えて、明日葉は首を傾げた。 「あの……?」  女性はハッとしたように口を開いた。 「あっ、いきなりごめんなさい! えっと、その……」  なんだろう。ペーパーナプキンが欲しいのかな、と明日葉が声をかけようとしたその時、意外な言葉が聞こえてきて目を見張った。 「あの――――明日葉くん、だよね」 「はい、そうですけど……?」  知り合い? こんなところで? と明日葉はなおも首を傾げていた。  でもどこかで見たことあるような――――  明日葉が思い出すより先に、女性が自分のことを指差して、言った。 「私、飛鳥小晴――――覚えてる?」  明日葉の脳裏に、中学時代の出来事が一瞬にして蘇った。 「――――飛鳥、さん……?」  いきなり声かけちゃってごめんね、と、彼女ははにかむように笑った。  明日葉は手の中のナプキンをぎゅっと握りしめた。

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