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第四章 第4話

 明日葉は母から手渡されたタオルで髪の毛を拭いてから、「着替えてくる」と言って車へ向かった。襖が閉まる音を聞きながら、亜笠は静かに息を吐いた。  明日葉の母は座卓の上を一通り拭いてから、「お茶菓子用意するわね」と言って台所へと行ってしまった。  譲は亜笠の向かいに座って、ただ黙ってお茶を飲んでいた。  しばらくしてから顔を上げて、窓の外を窺った。 「――――あいつ、遅いな」  譲の言葉に亜笠は苦笑した。 「たぶん、タバコ吸ってるんだと思います」  譲がグラスを置いて、小さくため息をついた。 「まだ吸ってるのか、あいつ」 「はい」 「やめろって前から言ってるのにな」 「減ってはいるみたいですけど」  譲は「そうか」とだけ呟き、少し安心したように頷いた。  先ほどまで怒号が飛び交っていた居間とは思えないほど静かだった。  譲が思い出したように口を開いた。 「そう言えば、うちは三人兄弟で真ん中に長女がいるんだが、会ったことはあるか?」 「いえ、初耳です」 「調布で、旦那と一緒にカフェをやってるんだ。今度機会があれば二人で行ってみてくれ」  調布ということは亜笠が住んでいる立川から30分以内に行ける距離だ。明日葉のことだ。話せばすぐにでも連れて行かれると思って、言わずにいたのだろう。 「ぜひ行ってみます」  絶対に明日葉と一緒に行こう、と亜笠は心の中で固く決意した。 「あの――――お義兄さん」  亜笠の呼びかけに、譲は一瞬だけ目を丸くした。すぐに目を細めて穏やかな表情に戻る。 「その呼び方はやめてくれ。譲でいいよ」 「譲さん」  呼び直すと、譲はかすかに頷いた。亜笠は頭を下げた。 「さっきはありがとうございます。庇っていただいて」  顔を上げて、と譲は穏やかに言った。 「別に亜笠さんのことを庇ったわけじゃない。うちもいろいろ訳ありだからね。あいつ――――護も気難しい所があるだろう」  何せ妙な方向に天然だからな、と言われて亜笠は微笑んだ。 「そうですね」  確かに、王道のデートコースに連れて行っても照れるどころか怯えてばかりだったし、京王線を探すのに新宿駅で二時間迷子になるし、祖父母宅に行っても祖父の威厳より高級なティーカップの方を怖がっていたし。  亜笠は笑いそうになる口元を思わず押さえた。  譲はやれやれとため息をついた。 「元から器用な質じゃないが……中学の時の話、聞いたことがあるか?」 「いえ……」 「教師相手に暴行事件起こして、強情張って事情を一言も話さなくてな。そこから不登校になって、大変だったんだ」  意外ではあったが、亜笠はすぐに、ああ、あの人らしいな、と思った。 「相手が権力者だろうが啖呵切る人ですから、何か事情があったんでしょうね」 「……わかるか?」  亜笠が苦笑すると、譲が首を傾げた。その様子が何となくいつもの明日葉を思わせた。やっぱり兄弟なんだな、と思った。 「僕の祖父にも、全然怯みませんでした」  拳を震わせながら叫ぶ明日葉の姿を思い出し、自然と笑みが漏れた。  譲は額に手をあてた。 「あいつはまた、他所様に迷惑をかけて……」 「いいえ、全然――――かっこよかったです、すごく」  亜笠の柔らかな表情に、譲は目を丸くした。 「……本当に付き合ってるんだな」 「実を言うと、まだ本人からは言われてはいないんですが……」 「言わないだけだろう。態度を見てればわかるよ。本気で嫌なら絶対に連れてきたりしない。そういう奴だ」 「……わかりますか」  譲は一口お茶を飲んで、困ったように眉を寄せた。 「全部顔に出るタイプだからな」  亜笠は思わず笑ってしまった。 「とびきり不器用で――――優しい人です。本当に」  亜笠の言葉に、譲は深く頷いて、グラスの中のお茶を飲み干した。  セミの鳴き声と池の水音が響く中で、明日葉は池のほとりの木陰に座って、素足を入れて涼んでいた。口にはタバコ、手には携帯灰皿。  着替えはもう済んで、夏の温風のおかげで髪も乾き始めていた。  帰省するのは8年ぶり――――父とまともに会話するのも、8年ぶりだった。相変わらずだ。頑固なところも昭和な考えも、何もかも。 『男と付き合ってるなんて――――気持ち悪い』  先ほどの父の言葉を反芻する。  わかっている。それが大多数の人間の答えだ。これだけセクシャルマイノリティと言う言葉が認知されてもなお、その考えは消えない。消えるものではないとわかってはいる。頭では。  だが面と向かって――――しかも肉親に言われると、覚悟している自分ですら思いの他堪えるものがあった。亜笠だって、傷付いただろう。あんなことを言われて。嫌な思いをさせてしまった。  しばらくすると、後ろから声が聞こえてきた。 「明日葉さん」  亜笠だった。明日葉は振り返らなかった。 「大丈夫ですか」  優しい声に、明日葉はお前こそ、と返した。 「ごめん――――うちの父親が、あんなこと言って」 「別に僕は気にしてませんよ。言葉だけなら以前の会社でもっとすごいこと言われてましたし」  振り返ると、亜笠は肩を竦めて笑っていた。その姿に明日葉の胸が痛んだ。 「そういう問題じゃないだろ」 「嬉しかったです」 「は?」  いきなり言われて、明日葉は面食らった。 「祖父の時のそうでしたけど――――僕のために怒ってくれたんですよね」  亜笠が隣に来て、明日葉の顔を覗き込んできた。微笑む彼に、明日葉は視線をそらした。 「違うよ。あんな言い方されたら誰だって嫌だろ」 「無自覚」 「違うってば」  言いながら、耳が熱くなる感覚があった。 「お義父さんの前で、僕とのこと否定しませんでしたし」  言われた言葉にカッとなって忘れていたが、そうだっけ? 明日葉は首を傾げた。 「これでお互いの両親公認になりましたね」 「いやいやいやなってないなってない! 否定しようとしたけど暴言吐かれたから忘れちゃっただけで!」 「忘れるくらい些細なことなら、もういっそ忘れておきましょう」 「お前のそれはどういうポジティブなんだよ……まったく」  タバコをもみ消し、灰皿へ入れる。水にいれていた足を引き上げた。すかさず亜笠がタオルを差し出してくる。お礼を言って足を拭いた。 「なんか毒気抜かれた……飯でも食いに行くか」  言うのと同時に、ちょうど昼時の町内チャイムがあたりに響き渡った。 「こんな辺境に飲食店があるんですか?」 「くそむかつく! お前田舎をバカにするのも大概にしろよ!」  意外そうに言う亜笠に悪態をつく。タオルで叩くと、彼は声を上げて笑った。  母に一声かけた後、明日葉は亜笠と連れ立って隣町のラーメン屋へ移動した。  ラーメンそのものももちろん美味しかったが、亜笠はやたらと水の美味しさに感動していた。この辺はどこもそんなものだ、と明日葉が言うと、亜笠は「田舎の贅沢ですね」と言って微笑んだ。久しぶりの地元のラーメンには、明日葉も生き返る思いだった。  実家に戻り、帰ることを伝えると母は思った以上に残念がっていた。 「せっかくだから夕食食べて行けばいいのに」  玄関先で靴を履きながら、明日葉は首を振った。 「親父もあんなだし、あんまり怒らせると体に悪いだろ」  父はあれきり自室の書斎に引きこもって、顔を見せてはくれなかった。扉越しに帰ることを伝えたが、返事はなかった。 「お義母さん、今日はありがとうございました」  明日葉の隣に立つ亜笠が、深々と頭を下げた。 「こちらこそ、会えてよかったわ」  母は目尻を下げて優しく微笑んだ。 「母さん、受け入れが早すぎない……?」  お義母さん呼びも平然と受け止める母に、明日葉は引き攣った笑顔で言った。  母は頬に手をあててカラカラと笑った。 「何よぉ、あんた何十年も女遊びばっかりする和尚の傍にいてみなさいよ。いやでも強くなるわよ」  その声音にはどこか吹っ切れたような軽さがあった。 「母さん……」 「息子がゲイってことくらい何てことないわ。あんた、それ気にして帰ってこれなかったんでしょ」  母の言葉に、明日葉は視線を落とした。  あっけらかんとした母に拍子抜けした。幼い頃の記憶では、母は毎日のように泣いていた。それでも今こうして笑っているのは、傷付きながらも、自分の力で前を向いてきたからなのだろう。 「なんかごめん、久しぶりに帰省したのに、こんな感じになっちゃって」  明日葉の謝罪に、母は首を横に振った。 「あんたが謝ることじゃないわ。悪いのはあの人。亜笠さんも、せっかく来てくれたのにごめんなさいね」 「いえ、僕は全然気にしてません」  亜笠は穏やかな笑みを浮かべたまま答えた。 「あの人、あれでいて悪気はないのよ。新しい価値観が受け入れられないの。もう年ね」  母は家の奥をちらりと振り返り、小さく苦笑した。 「普通の人は、そうだと思います」  亜笠も責めることなく静かに頷いた。 「うちもちょっと変わってる一家だから。またいつでも遊びに来てね、今度は泊まりで」  母はそう言って手を振った。 「はい、また来ます」  笑顔で頷く亜笠の横で、明日葉はまた次があるのか……と青くなっていた。 「気を付けて帰るんだぞ」  兄の言葉に明日葉は頷いた。 「ばいばい、またね」  子どもたちは譲の後ろに隠れながら、小さな手を控えめに振ってくれた。亜笠と一緒に手を振り返す。  助手席へ乗り込み、シートベルトを締めた。亜笠がエンジンをかけると、静かな振動が車内に伝わった。  ふと、サイドミラーへ目をやる。  居間の窓――――障子の隙間から、父がこちらを見つめていた。  明日葉はその姿をしばらく見つめ、それから何も言わずに前を向いた。

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