32 / 53

第四章 第3話

 車が緩やかな坂を上り切ると、木立の向こうから見慣れた屋根が姿を現した。  黒々と反り返った大きな屋根の下に、白い漆喰の壁と太い木の柱。子供の頃には広々と感じた本堂が、堂々とそこに建っていた。  本堂の横に広がる池もそのままだ。睡蓮の葉が水面を埋め、風が吹くたびに緑色の水面が細かく揺れる。赤と白の鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいた。  境内を囲む杉は相変わらず高く、見上げれば空がほとんど見えない。夏だというのに境内だけは少しひんやりとしていて、セミの鳴き声だけが木々の間に反響していた。  お堂から脇に伸びた渡り廊下の先には、住居用の一棟の家が建っていた。平屋の一戸建てに、青い屋根。築30年は過ぎるであろうそこは、白い壁にところどころヒビが入っていた。  変わらない。  何もかも――――8年前と同じだった。 「…………」 「明日葉さん、ほら行きますよ」 「痛っ」  車から降りて立ち止まる自分の背中を、亜笠が叩いた。亜笠は手土産を持って、母屋の玄関に向かった。慌てて後を追う。  明日葉は意を決して玄関を開けた。 「た、ただいまー……」  恐る恐る中に入る、と、廊下の奥からパタパタと足音が聞こえてきた。 「あら、もう来たの! 早かったじゃない」  エプロンで手を拭きながら顔を出したのは、母だった。相変わらず小柄で痩せた身体に、白髪交じりの髪を後ろで一つにまとめ、Tシャツの上からエプロンを掛けている。それでも、クリッとした目だけは昔と変わらず妙に元気だ。  住職の妻というより、近所の世話好きなおばちゃん、という風体だった。 「久しぶり」  手を上げると、母はニコッと笑った。相変わらず元気そうだが、目尻の皺が少し増えたように見えた。 「8年ぶりよ、バカ息子」  軽口も相変わらずだ。母の後ろからもう一つ足音が聞こえてきた。 「来たか」  母の後ろから姿を現したのは、兄の譲だった。  ふっくらとした身体に、紺色の作務衣。穏やかな目元には丸い眼鏡がかけられている。きれいに剃られた頭に、身長は明日葉より少し高いくらい。だが、横幅があるせいで一回りも二回りも大きく見えた。いかにも和尚という感じだ。 「兄貴、元気?」 「ああ、お前も元気そうだな」  良かった、と言う兄は、無表情ながらも人の良さがそのまま前面に出ていた。  そして――――兄の後ろから現れた人物に、明日葉は身体を固くした。 「久しぶりだな」  父だった。  父は昔とほとんど変わっていなかった。  黒々とした短髪はきちんと整えられ、年齢を感じさせない若々しさがあった。中肉中背の引き締まった体格に、グレーの作務衣を羽織っている。彫りの深い整った顔立ちだが、いつも不愛想に口を結んでいるせいで近寄りがたい印象だった。黙って立っているだけでも妙な存在感があった。 「……久しぶり」  明日葉はぎこちなく笑った。  出迎えてくれた三人は明日葉を見ると、次に玄関前に立つ亜笠に視線を向けた。 「あら、こちらは……?」  母が首を傾げた。  さて、どう答えたものか。明日葉は冷や汗をかいた。明日葉があーとかうーとか言ってる間に、亜笠が玄関に上がってきて、輝くような笑顔で言った。 「初めまして、明日葉さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいてます、婚約者の亜笠誠一郎と申します」  一拍置いて、明日葉は乾いた笑い声を上げた。 「あはははは、職場の後輩だよ! 福島来たことないって言うからさぁ! もう冗談ばっかり言って~!」  亜笠の背中をバシバシ叩きながら言うが、亜笠は笑顔を崩さずに言った。 「僕はいつでも本気です」  目の奥が笑っていなかった。 「お願い嘘だって言って!」  亜笠の胸倉を掴んでガクガクと揺さぶる。 「…………」 「…………」  そんな二人の光景を、明日葉家の人々は青い顔をして見つめた。  あっダメだ、これは完全に本気で受け取っている……。明日葉の顔も青くなった。  最初に正気に戻ったのが兄だった。長い沈黙の後に、静かに口を開く。 「とりあえず――――立ったままじゃ何ですから、上がってください」  兄貴、さすがは和尚、さすがは跡取り――――兄の冷静さに、明日葉は心の中で合掌した。  ――――で、状況は冒頭に戻る。  兄は非常に冷静だった。地蔵と化す父と母を今に座るよう促し、玄関で呆然とする明日葉と笑顔の亜笠に上がるよう声をかけてくれた。  座卓を囲む4人の前に、よく冷えた麦茶が並べられた。固まったままの父と母、青ざめた明日葉をよそに、亜笠は「いただきます」と静かにグラスへ口を付けた。  8年ぶりの、最悪の帰省だった。明日葉は泣きそうだった。  さて、と兄が口を開いた。 「遠いところ、お疲れ様でした。護の兄の譲です……こちらが父と母です」  それぞれを手のひらで指し示していく。亜笠は正座のまま少し後ろに下がって、三つ指をついて深々と頭を下げた。 「改めて、初めまして。護さんの婚約者の亜笠誠一郎です。よろしくお願いします」  顔を上げてにっこりと微笑む亜笠の胸倉を、明日葉は再度掴んだ。 「恋人って言うなっておれ言ったよね!?」 「恋人とは言ってません、一言も」 「それに準ずる言葉もダメってことだろ普通は! 何だその都合の良い解釈は!」 「こちら、良かったら皆さんで召し上がってください」  ガクガクと揺さぶられても少しも動じず、亜笠は老舗の芋羊羹セットを座卓の上に差し出した。抜かりがない、さすが段取りの鬼。 「ありがとうございます。ここの芋羊羹、妻が好物なんです」 「それは何よりです」  兄の冷静さは助かる。非常に助かるが、なぜそんなに冷静でいられるのか。明日葉はにこやかにやりとりする兄と亜笠を見て思った。  兄は明日葉の方へ向き直って、口を開いた。 「護―――――ひとつ、聞いていいか」 「ヒッ! はい!」  思わず飛び上がる。兄は少し考えてから、言った。 「婚約者っていうのは、本当なのか」 「うむぐっ!」  嘘です、と言おうとした口を亜笠が手で塞いだ。むぐぐ、と抗議する明日葉を無視して亜笠がにこやかに言った。 「本当です。結婚を見据えてお付き合いさせていただいてます」  明日葉は亜笠の手を外そうともがいたが、わりとがっちりと掴まれていて無理だった。 「デートもしました。誕生日にプレゼントももらいました。僕の両親と祖父母にも紹介しました」  むぐ――――っ! と明日葉はもがいた。 「そうですか……」  はぁ、とため息をつきながら兄が額に手を当てた。  青い顔をした母も、頬に手をあててようやく口を開いた。 「道理で……彼女が出来ないのは奥手だからかしらって思ってたけど……そういうことだったのね……」  いやいやいやどうしてこの家の人間は肉親である自分じゃなく今日初めて会ったばかりの男を信用するの!? 明日葉は疎外感に泣いた。 「護ったら……あんたねぇ」  怒られる、明日葉は咄嗟に身構えた。 「婚約者連れて帰ってくるならそう言ってもらわないと! ご飯とかお布団とか、こっちはいろいろ準備があるんだから!」  身構えた明日葉がずっこけた。  亜笠は明日葉の口を塞いでいた手を外し、両手を振った。 「お義母さん、ご心配には及びません。宿は取ってあります」 「あらやだ、ごめんなさいねぇ。お客様用のお布団、一組しかないのよ」  てっきり護一人で来るものだとばっかり思ってたから、と母は笑った。  母は現実を受け止めるのが早かった。いや、早すぎだ。明日葉の方がこの現実を受け止められていなかった。 「っていうかお前は何ナチュラルに『お義母さん』って呼んでんだ!」  明日葉のツッコミに亜笠は当たり前だとばかりに言った。 「婚約者のお母さんは『お義母さん』でしょう?」 「そういうことを言ってるんじゃないっ!」  否定したいことがたくさんあるのにツッコミが追いつかない。そんな明日葉に追い打ちをかけるように、兄が言った。 「護、お前、他人様の息子さんに手を出しておいて、今更責任とれない、なんてわけには行かないんだぞ」 「兄貴はおれがこいつに手を出したと思ってるの!?」 「お義兄さん、手を出したのは僕の方です」 「お前は何真面目に訂正してんだ!」 「どうしよう、今日大したご飯用意してないのよぉ。お寿司でも買ってくる?」 「母さん今はその心配はしなくていいから!」  明日葉の脳内BGMは『違う、そうじゃない』だった。  ぜーぜーと息を吐いて、明日葉は嘆いた。なぜこんなことになったんだ。おれはただ単に8年ぶりに実家に帰ってきただけなのに、なんだこの疎外感は。8年も帰らないとこんなことになるのか!?  冷静に考えればそんなわけはなかったが、今の明日葉にはそれに気付けるだけの余裕はなかった。 (っていうかみんなボケに走るな! おれが大変だろ!)  ヤバいどうしよう、今すぐ東京に帰りたい。おれの実家はここのはずなのに、と、心の底からそう思った。  明日葉はチラリと向かいを見た。父親は相変わらず一言も発さず、お茶にも手を付けていない。虚空を見つめた石像のままだった。  ふと、兄の後ろを見ると、柱の影から3つの顔がひょっこりと出ていた。肩まで伸びた癖毛を2つに結んだ女の子たちだった。 「あ、その子たちって、もしかして――――」  明日葉が指差すと、兄が振り返って笑った。 「ああ、ほらこっちにおいで」  兄の子供たちだった。 「亜笠、兄貴の子供たち。車の中で話したろ?」  亜笠が笑顔で頷いた。 「三つ子ちゃんですね。こんにちは」  明日葉も同様に声をかける。2人が笑いかけると、女の子たちはきゃあきゃあと笑い合って兄の後ろに隠れた。もじもじとしながら「こんにちは」と挨拶を返してくれた。  三つ子が首を傾げた。 「だれ?」 「パパの弟、護叔父さんだよ」 「まもるおじさん?」 「初めて会うもんなぁ、わかんないよね」  来年小学生? そう聞くと兄が嬉しそうに頷いた。  子供たちは明日葉のことをじっと見つめた後、隣にいる亜笠に興味を移した。 「このひとは?」  悪気なく指を向ける子供たちに、兄が「指差しちゃダメだよ」と優しく教えた。  亜笠は特に気分を害した様子もなく、微笑んで答えた。 「護叔父さんの婚約者の亜笠誠一郎って言います」  明日葉は飲んでいた麦茶を噴き出しかけた。 「こんやくしゃ、ってなに?」 「護叔父さんと結婚する人って言う意味です」 「子供に変なこと吹き込まないで!」  明日葉がツッコむのと同時に、座卓が、ダンッと大きな音を立てた。  見ると、父が震える拳を座卓に叩きつけていた。  不穏な空気を感じ取った兄は、子供たちをまとめて抱えると、別室へと移動して行った。  石像だった父が、ようやく口を開いた。 「――――お前、本気で言ってるのか」  父の鋭い視線は、真っ直ぐに明日葉を捉えていた。 「ちょっと、お父さん……」  母の制止も虚しく、父は強い口調で言った。 「男同士で付き合うだの、結婚するだの、本気で言ってるのか」  明日葉は答えられなかった。この人はいつもそうだ、と思った。  いつもいつも、自分のことは棚に上げて――――人のことばかり批判して。  座卓の下の、怒りに震える明日葉の拳を見て、それから亜笠は父を見た。 「はい。本気で言ってます」  真っ直ぐに父の目を見つめて、言った。 「亜笠さん……」  母は意外にも、落ち着いた瞳で亜笠を見ていた。 「冗談も大概にしろ!」  父はもう一度座卓を叩いた。 「8年ぶりに帰ってきたと思ったら、お、男と付き合ってるなんて――――気持ち悪いにもほどがあるだろ!」  麦茶の入ったグラスがゆらゆらと揺れた。明日葉は冷えた眼差しでそれを見ていた。それまで噛み締めていた唇を解くと、自分でも意外なほどはっきりと声が出た。 「何だよ、偉そうに――――自分なんか他所に女つくって、母さん泣かせてたくせに!」  父の顔に赤みが差した。 「赤の他人の前で、なんてことを言うんだ!」 「ただの事実だろ! 散々外で遊んで家族蔑ろにしてたくせに、人のこと批判できるようなタマかよ!」  父の手が、まだ中身が入ったままのグラスを手に取った。  次の瞬間、冷たい麦茶が明日葉の顔を打った。母と亜笠は絶句していた。  前髪からポタポタと水滴を垂らしながら、明日葉は言った。 「謝れよ」 「何?」 「亜笠に謝れよ!」  睨み合う明日葉と父の間に、穏やかに割って入る声があった。 「護の言う通りだ。父さんにそれを言う資格はないだろ」  子供たちを妻に預けてきたらしい兄が、居間へ戻ってきた。呆然とする母の肩を叩き、タオルを、と声をかける。母は慌てたようにその場を後にした。  兄は真っ直ぐに父を見て、静かな声で言った。 「家族に散々迷惑かけておいて、母さん泣かせておいて。護はただ自分の大事な人を紹介しに来てくれただけだろ」  静かな怒りを露わにする兄に、父は唇を噛んで黙り込んだ。震える拳をもう一度座卓に叩きつけると「話にならない」と言って居間から出て行った。  入れ違いで母が来ると、明日葉にタオルを渡してくれた。話にならないのはどっちだよ、と思ったが、それは言わずにおいた。

ともだちにシェアしよう!