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第四章 第2話
8月15日早朝、明日葉のアパートの呼び鈴がけたたましく鳴った。
短く途切れては、またすぐに鳴る。明日葉は頭まで布団を被った。そうこうしている内に呼び鈴の感覚はどんどん狭くなり、最終的には容赦なく連打されることになった。
「うるさい……」
唸りながら布団を這い出し、壁に手をつきながら玄関まで歩く。寝ぼけ眼のまま、明日葉は恐る恐るドアを細く開けた。
「はい――――ヒィッ!」
と、同時にスニーカーの先が隙間へ割り込んできた。
明日葉は思わず悲鳴を上げ、反射的にドアを閉めようとした。が、外側から押し返され、ドアは抵抗むなしく大きく開かれた。
「おはようございます、明日葉さん」
朝日を背に、亜笠が立っていた。肩には大きめのボストンバッグを掛けていた。すでに旅行の準備は万端らしかった。
「…………なんでおれんち知ってるの?」
「櫟さんに聞きました」
実家といいアパートといい、明日葉の個人情報が垂れ流しだった。休み明け絶対にあの糸目オタクを殴ろうと、明日葉は寝ぼけ半分の頭で決意した。
背後の時計を見る。時刻は5時半だった。
「…………早くない?」
「早くないです」
亜笠に即答される。明日葉は半分しか開いていない目をこすり、欠伸を噛み殺した。
「っていうかおれ、行かないって言ったよね」
「準備していきますよ」
明日葉の抗議はあっさりと無視された。亜笠は明日葉の脇をすり抜け、当然のように部屋へ上がり込んだ。
「え?」
玄関に取り残された明日葉が振り返る。
亜笠は部屋をぐるりと見回すと、おもむろに押入れを開けた。衣装ケースを発見すると、そこからTシャツとジーンズを取り出す。下着と靴下まで選び始めたところで、ようやく明日葉の思考が少しだけ追いついた。
「ちょ、なんでお前、服の場所知ってるの……」
「なんとなくわかります」
亜笠は平然と答え、明日葉のバックパックへ手際よく荷物を詰めていった。着替え、洗面所の歯ブラシ、コンセントに挿しっぱなしの充電器、テーブルに置かれた常備薬。あっという間に一泊分の荷物が出来上がった。
その間明日葉は何をするでもなく、亜笠の後ろ姿を見て震えていた。
(エスパー亜笠……こわい……)
一度もこの家に来たことがないのに淀みなく動く亜笠に、明日葉は戦慄していた。
そうこうしている内に明日葉は亜笠に背中を押され、ローテーブルの前に座らされた。
「食べてください」
目の前に、手作りのサンドイッチと氷の浮いた冷たいほうじ茶が置かれる。
「10分後には出ますよ」
「え?」
厚切りパンの誘惑に負けて、明日葉はサンドイッチを一切れ手に取った。
寝ぼけた頭で咀嚼していると、背後へ回った亜笠が寝癖のついた髪へ霧吹きをかけ始める。
「冷たっ」
「動かないでください」
「おれ今ご飯食べてるんだけど」
「口は動かしていて構いません」
櫛で髪を梳かれながら、明日葉は黙々とサンドイッチを頬張った。
食べ終わる頃には寝癖も直され、着替えまで手渡された。
「腕、上げてください」
「着替えくらい自分でできるわ!」
Tシャツを被せようとする亜笠の手を、明日葉は慌てて叩き落とした。
「はいはい。じゃあ5分でお願いしますね」
亜笠は別段気にする様子もなく、呆れたように返す。完全に登園前の幼稚園児とその母親だった。
着替えを終えると、亜笠は明日葉のバックパックを持ってスタンバイしていた。無言で背中を向けると背負わされる。亜笠は肩紐の長さまで調整し、最後に財布と携帯電話があるかを確認した。
「それじゃあ行きますか」
「……待って」
明日葉は玄関に向かう亜笠を見た。
「ほんとに行く気?」
「行く気しかありません」
亜笠は靴を履きながら即答した。
「えっ、なんで」
「恋人の親御さんにご挨拶へ行くのに、理由が必要ですか?」
「待って待って。ツッコミどころが多すぎて、どこからツッコんだらいいのかわからない」
明日葉が額を押さえている間にも、亜笠は玄関の照明を消し、戸締まりを確認していく。
「とりあえず行きますよ。新幹線の時間に間に合わなくなります。お土産も買わないとですから」
「ダメだ……寝起きで頭が働かない……」
明日葉はその場に座り込んだ。亜笠は文句を言うでもなく淡々と明日葉の足にスニーカーをはめ込んだ。襟首を掴まれ、そのままズルズルと玄関の外へ引き出される。
「おれのポンコツ脳が……」
「駅に着く頃には目も覚めますよ」
亜笠の手によって明日葉宅のドアが閉められ、施錠された。
そこから約3時間後――――
眩い夏の日差しが照らすホームに、明日葉は立っていた。先ほどまで乗っていた新幹線がゆっくりと北へと去って行く。明日葉は駅名標を見上げた。
そこにははっきりと『新白河』と書かれていた。
「…………」
明日葉は数秒その文字を見つめた後、バックパックを背負ったままホームに膝をついた。そのまま両手を床につき、完全に項垂れる。
「明日葉さん、何してるんですか」
少し先を歩いていた亜笠が振り返った。
「早く行きますよ」
「待って……ちょっと……ブルドーザーがすぎる……」
「何でブルドーザーが出てくるんですか?」
亜笠が首を傾げる。明日葉は勢いよく顔を上げた。
「全部なぎ倒しておれを福島に連れてきてるからだよ!」
「人聞きが悪いですね。ちゃんと朝食も用意しましたし、新幹線にも自分の足で乗ったじゃないですか」
「寝起きすぎてほぼ意識がなかったの!」
「レンタカーも予約済みですから、行きましょう」
亜笠は明日葉の抗議を意に介さず、スマートフォンで予約画面を確認した。
「駅前の営業所です。手続きも済ませてあります」
「あああああ! 段取りの鬼!!!」
明日葉は頭を抱えた。ホームに響く叫び声を無視して、亜笠は明日葉を引きずってスタスタと歩いていった。
改札近くのトイレから出て、明日葉はレンタカー屋へと足を向けた。亜笠は一足先に行ってしまったので、バックパックを抱えて一人トボトボと駅前を歩いた。
ロータリーには出迎えらしい車が何台か止まっていたが、そのうちの一台――――白いプリウスから亜笠が降りてきた。
「明日葉さん、こっちです」
「え、軽自動車で良かったのに」
おいくらしたの、と言いながら財布を出したら止められてしまった。相変わらずこう言うところは器量が大きい。
亜笠が運転席に乗り込んだので、明日葉は荷物を後部座席に放って、助手席に座った。
「ご実家に連絡は入れたんですか?」
「行く気、なかったからね。入れてないね」
淀んだ目で言うが、亜笠は気にせずにナビを操作していた。
「じゃあ入れて下さい」
ここまで来たら腹を括るしかないか、と明日葉は震える手で携帯電話を操作した。
電話には母が出た。「今日帰る、あと一時間後くらいに着く」と話すと、母は母で「あらそう、わかったわ~」とだけ言った。明日葉が何か言う前にあっさりと電話を切られた。
8年ぶりの帰郷だというのに、軽かった。あまりの軽さに明日葉は項垂れた。
うちの家族っていつもこうだ……。8年ぶりの帰郷を一時間前に伝える明日葉も明日葉だが、母は母でデリカシーがなかった。
「どうでした?」
「わかったって……」
「なら良かった。じゃあ向かいましょうか」
「あ、うちの場所って――――って、何でもうナビ入ってるの?」
「櫟さんからお寺の名前聞きました」
「あいつ人の個人情報漏らし過ぎじゃない!?」
休み明け冷蔵室に閉じ込めてやると明日葉は決意した。
プリウスがゆっくりと走り出す。冷房の利いた車内は少し肌寒くて、明日葉は亜笠に断って風の強さを調整した。
ナビの案内通り、亜笠は車を走らせた。前を見ながら亜笠が口を開く。
「どうして8年も帰らなかったんですか」
母や祖父母としょっちゅう会っている身としては不思議で仕方ないのだろう。明日葉は呻きながら窓の外を見た。市内の景色は8年前とそれほど大きく変わりはなかった。
「だから、この間も言ったじゃん。仕事もあるし、新幹線も混んでるし、家帰ってもやることないし」
「にしても長すぎません? 親御さんから帰ってくるよう言われなかったんですか」
「たまに言われたけど、うちはそんなに口うるさい方じゃないから」
仕事で帰れないと言えば、それ以上は何も言われなかった。
「っていうかさ、ここまで来たらもう行くしかないから行くけどさ」
明日葉は念押しするように口を開いた。
「お願いだから絶対余計なことしゃべらないでね」
ちゃんと確認しておかないと大惨事になりかねない。明日葉は亜笠の横顔をじっとりと見つめた。
「余計なこととは」
「恋人ですとか恋人ですとか恋人ですとか」
「わかりました」
「ほんと? ほんとにわかってる?」
「恋人とは言いません」
あまりにもあっさりと言うので、明日葉はかえって不安になった。
そうこうしている内に車は市内を抜け、田園地帯に入っていった。田畑と森が広がる景色に、明日葉の口数が不自然に多くなっていった。
「5年前に兄貴の子供が生まれてさ、なんと三つ子の女の子。全然会ってなかったけど、もうすぐ小学生になるんだよなぁ」
「生まれた時に顔見に来なかったんですか」
「ちょうどその頃……引っ越しとか転職とかで、バタバタしてて」
「明日葉さんって前職は何してたんですか?」
「製薬工場の購買課にいた」
「へぇ、意外です。購買って、取引材料の値引き交渉が主な仕事でしょう」
明日葉さんの性格的にきつかったんじゃないですか、と言われ明日葉は言葉を詰まらせた。
「めちゃくちゃきつかったよ。毎年毎年目標上がってくし、取引先には苦い顔されるし……新人だからって飲み会の幹事だのイベントの送迎だの押し付けられるし、最悪だった」
言うと、亜笠は「そこですか」と言って笑った。
そこから車を走らせること1時間――――
明日葉は亜笠に言って、近くのコンビニに車を止めてもらった。店前に置かれた灰皿スタンドの前でタバコに火をつける。
吸わないのに、なぜか亜笠もついてきた。
「――――行きたくないんですか」
唐突に言われて面食らった。あれだけ強引に連れてきておいて、今更何言ってんだ、と心の中だけでツッコんだ。
亜笠は真剣な目をしていた。
「まあ――――気まずいよね。8年は」
煙を吐きながら、できるだけ軽く、そう言った。
「それだけじゃないんでしょう?」
図星を指されて思わず身体が揺れてしまった。エスパー亜笠には見抜かれていたようだ。黙り込んだ明日葉に、亜笠は微笑んだ。
「大丈夫、今日は僕がついてますから」
「それが一番の不安なんだけどね」
ついうっかり言ってしまった。亜笠は笑顔のまま、明日葉の頬をつねった。
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