30 / 53

第四章 第1話

 もしもタイムマシンがあるなら、と明日葉護は真剣な表情で考えていた。  人生でやり直したい瞬間に出会うことは誰しもがあるだろう。  高校受験で違う学校を受けていたらとか、違う職場に入っていたらとか――――あるいは、小中学生に戻ってもう一度やり直せたら、とか。  明日葉は思った。  自分はそんな贅沢は言わない。  人生やり直せたらなんて、思ったりしない。決してポジティブな意味ではない。自分なんかがやり直したって、どうせ同じような冴えない人生を歩むだけだとわかっているからだ。  だから『やり直し』だなんて、そんなこと言わない。  言わないから――――せめて、4時間前に時間を巻き戻してほしかった。  そう、自分が東京を出る、その瞬間に。  現実から目を逸らすように、明日葉は視線を落とした。  目の前には、麦茶の入ったグラスが二つ。グラスは汗をかいていて、玉になった水滴が茶托にいくつも垂れていた。正座した足が痺れそうで、明日葉はもぞもぞと居心地悪げに動いた。  向かいには、無言で座る明日葉の父と母。その瞳は呆然と虚空を見つめていた。斜め横に、瞳を閉じて静かにお茶を飲む明日葉の兄。  そして、隣には。 「改めて、初めまして。護さんの婚約者の亜笠誠一郎です。よろしくお願いします」  輝くような笑顔を浮かべた亜笠誠一郎が、背筋を伸ばして座っていた。  どうしてこうなった、と明日葉護は青い顔で思った。  麦茶の中の氷が、カランと涼やかな音を立てた。  発端は5日前の櫟の一言だった。  季節は真夏。うだるような暑さと、セミの鳴き声が響き渡る8月。  明日葉と亜笠はクーラーの利いた倉庫詰所で、向かい合わせで昼食を取っていた。二人の手元には中身が全く同じお弁当。例によって、亜笠のお手製弁当だ。  そんな二人の横。明日葉がいつも座る席に、糸目の青年――――総務の櫟が座っていた。プリンターに接続できなくなった明日葉のノートパソコンを、カタカタと操作していた。 「そう言えば、明日葉は今年も実家帰らないの?」  櫟の質問に、明日葉は当然とばかりに答えた。 「帰んないよ」  卵焼きを摘まみ上げ頬張る明日葉に、櫟が目を細める。 「そう言ってお前、この会社来てから一回も帰ってないじゃん」  櫟と明日葉は同期入社だったため、櫟は明日葉の帰省遍歴もよく知っていた。  櫟は実家と仲がよく、お盆に限らず帰省しては山形の土産を明日葉に恵んでくれた。年の離れた妹がよく泊まりに来ることも、本人から聞かされていた。  実家仲良し勢はいいよなぁ、と思いつつ明日葉はご飯を一口食べた。 「別にいいじゃん」  お前には関係ないだろ、という明日葉の悪態にも、櫟はすました顔で肩を竦めるだけだった。 「何で帰らないんですか」  お茶を手に取りながら、隣の亜笠が口を挟んできた。  明日葉は箸を咥えたまま、唸りながら天井を見上げた。 「何でって言われても。帰ってもやることないし、新幹線は混んでるし、休日当番あるし、家でゆっくり寝てたいし」  嘘ではない。ただ、それだけが理由でもなかった。  櫟が呆れたように言った。 「親に顔見せに行くくらいしなよ。福島だったら最悪日帰りでも行けるじゃん」 「やだよ面倒くさい」  明日葉の返答に櫟がため息をついた。彼がキーボードを叩くと、背後の棚に置かれたプリンターが低い唸り声を上げた。明日葉は「あ、動いた」とプリンターへ顔を向けた。  やりとりを聞いていた亜笠の箸が、ピタリと止まった。 「15日と16日って、僕も明日葉さんも休みなんですよね」  明日葉は聞こえないふりでお弁当の中身を黙々と咀嚼した。口を出すとまずい方向に行きかねないと判断したからだ。  視線を上げる。亜笠はいつもの無表情でこちらを見ていた。  数秒、二人は無言で見つめ合った。先に目を反らしたのは明日葉の方だった。 「いやでも緊急で電話が鳴るかもしれないじゃん?」  もごもごと言い訳をする。カタカタとキーボードを叩いていた櫟がノートパソコン越しに明日葉を見た。 「出たよ社畜」 「考え方の基本が社畜なんですよ、もう」 「世の中には、おれなんかより社畜な人がもっといっぱいいるよ……」  本物の社畜に失礼だよ、と遠い目をしながら言うと、亜笠はついにここまで来たかというように露骨に顔を顰めた。櫟は「自覚がないって怖いね」と言って肩を竦めた。 「いつから帰ってないんですか」  亜笠の質問に、明日葉は眉根を寄せながら指を折っていく。指が折り返したところで亜笠と櫟は目を見開いた。 「……8年かな」  パソコンを触る櫟の手がピタリと止まった。 「8年!?」 「そんなに帰ってなかったんですか!?」  思わず声を張り上げる櫟と亜笠をよそに、明日葉は弁当の唐揚げを口へ運びつつ、首を傾げた。 「そんな驚くようなことかぁ?」 「幼稚園児が中学生になるくらいの期間だぞ!?」 「今年は絶対帰りましょう、明日葉さん」  詰め寄ってくる二人に、明日葉は眉を寄せた。 「もし福島いる時に呼び出し来たらどうしたらいいんだよ」 「だからその社畜的考えを一旦脇に置け。休日当番がいるんだから」  櫟が呆れたように言った。  亜笠も小さく息をつく。箸を置いて明日葉へ体を向けた。 「明日葉さん」 「何」  真っ直ぐ見つめられ、明日葉はきょとんと見返した。 「僕、母と祖父母、紹介しましたよね」 「紹介されましたね」  サプライズでだけどね、と明日葉はぼそりと付け加えた。 「今度は明日葉さんの番ですよ」 「は?」  心の底からの疑問だった。亜笠の言っている意味がわからなかった。 「恋人を親に紹介しないでどうしますか!?」 「どうもしないよ! うちの家族を心臓発作で殺す気か!」  明日葉は即座にツッコんだ。 「――――と、いうわけで」  亜笠はまるで会議の結論を述べるような落ち着いた口調で続けた。 「15日の新幹線のチケットを取りました」 「出た! 事後承諾!」 「さすが! 段取りの鬼!」  明日葉が箸を持った手でデスクを叩き、櫟が亜笠に向かって拍手した。 「っていうか何でおれの実家どこにあるか知ってるんだよ!?」 「あっごめん僕が教えた」 「櫟ィ――――っ!」  テヘペロする櫟に怒り狂う明日葉をよそに、亜笠は淡々と続けた。 「ホテルも取りました。さすがにご挨拶初日にいきなりご実家に泊まるのは早いと思うので」 「判断が一個だけ常識的で腹立つな! そこ気にするなら新幹線のチケット取る時に躊躇えよ!」 「ついにご実家に挨拶かぁ。結婚式には呼べよ」 「無責任に煽るな、この糸目二次元オタク!」 「僕は夏コミに受かったので、昨日から徹夜でグッズ製作に入ってます。絶対に電話鳴らさないでね」  櫟は真顔だった。櫟は仕事より実家より夏コミが最優先される二次元命の男だった。 「それは大柴さんに言って」  明日葉は冷めた目で即答した。 「亜笠、お前今度売り子やってくんない? コスプレしたらめちゃくちゃ喜ばれそう」 「休日当番変わってくれるなら考えます」  糸目を輝かせる櫟に、亜笠は涼しい顔で返した。  会話を続ける二人を尻目に、明日葉は最後の卵焼きを頬張ると、空になった弁当箱へ蓋をした。箸をしまい、立ち上がる。  流しへ向かおうと背を向けた、その時だった。 「じゃ、15日に迎えに行きますから」  亜笠が微笑んで言った。明日葉はキッと亜笠を睨んだ。 「絶対行かないからな!」  チケットとホテル、キャンセルしろよ! そう言ってその場を後にする。 (一緒に実家に行くなんて冗談じゃない……)  流しで弁当箱を洗いながら、明日葉は思った。  まさか、いや、そんな……。不安な思いを、頭を振って打ち消した。

ともだちにシェアしよう!