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第三章 第9話
目が覚めると亜笠の顔が間近にあった。瞳がしっかり開いていたので、明日葉は驚いてベッドから転がり落ちてしまった。呆れた顔の亜笠がベッドから起き上がる。
「朝から何やってるんですか、明日葉さん」
「あ、お、おはよう……」
「おはようございます」
いつから起きてたんだろう、と明日葉は思いつつ、床から起き上がって水を飲もうと冷蔵庫を開けた。
亜笠もベッドから出てきた。真っ直ぐに洗面所に向かう彼の姿を確認してから、明日葉はバスローブを開いて自分の身体のあちこちを点検した。
(それらしき痕は――――ない、全然)
身体にも違和感がない。明日葉は感動するのと同時に、こんなことが身についてしまった自分にちょっと泣きそうだった。もう5年も経っているのに、あの頃の癖が抜けていない。
首を垂れて落ち込む明日葉の背中に、洗面所から戻ってきた亜笠が声をかけてきた。慌ててバスローブの前を閉じる。
「僕は朝風呂入りますけど、明日葉さんも入りますか?」
彼にしては珍しく、眠そうな声音だった。
「いや、おれは大丈夫」
手を振って断る。亜笠は少し眉を寄せた。
「その寝癖直した方がいいんじゃないですか」
「だから、どうやってもこういう頭なの」
それじゃあ失礼して、といって亜笠は自分の衣類を手にバスルームに引っ込んだ。
明日葉はため息をついた。
(本当に――――何もされなかった……)
緊張から眠れないかと思っていたが、朝までぐっすり眠ってしまった。
明日葉は干してある自分の衣類を手に取った。一通り触って確かめる。乾いていたのでそのまま袖を通した。
亜笠は10分程度で出てくるとテキパキと身支度を整えた。すでに着替えてテレビを見ていた明日葉を見て、微笑む。
「新宿駅にパンの美味しいモーニング食べられるところがあるので、そこに寄ってから帰りましょう」
「う、うん。わかった」
連れ立ってホテルを後にする。明日葉がホテル代を、と財布を出すとやはり止められた。じゃあ代わりに朝食は奢る、といったら亜笠の無表情が和らいだ。
早朝、人気のない道を駅に向かって歩きながら、口を開く。
「――――昨日は、したくなかったのか?」
何を、とは察しの良い亜笠は聞かなかった。代わりに斜め上からの返答が来て、明日葉は盛大に赤面する羽目になった。
「めちゃくちゃしたかったです。何なら今からでもしたいくらいです」
「ちょ、自分で聞いといて何だけど……そんなストレートに言わなくても……」
何でしなかったんだよ、と首を傾げると、亜笠は立ち止まって振り返った。明日葉の鼻をつまんでくる。
「明日葉さんがしたいわけじゃないんでしょう。それじゃあ無意味です」
「だから、別にいいって」
「僕は我慢してまでセックスしてほしいわけじゃない」
「我慢ってほどじゃ……」
「でもしたいわけじゃないんでしょう。だったら『我慢』です」
明日葉ははいともいいえとも言えなかった。代わりに鼻をつまむ亜笠の手をどけた。
「おれがもしずっとしたくないって言ったらどうするんだよ」
「待ちます。したくなるまで」
「それでもしたくないって言ったら」
「仕方ないからセックスレスでも我慢します」
「自分が我慢するのはいいのかよ……」
「だったら早く自分からしたいって言えるようになってください」
「なんちゅー理屈だ……」
二人で並んで、再び歩き出す。
(めちゃくちゃ変。変なやつだけど……誠実、なんだな。相手に対して)
この男なら――――と、そこまで考えて明日葉はかぶりを振った。慌てて考えを打ち消す。
自分にそんな資格はない。亜笠誠一郎は自分なんかが相手をしていい男じゃない。彼にはもっといい相手がいる。誠実に愛情を返せる、他の誰かが。
と、そこまで考えたところで亜笠が口を開いた。
「なんかくだらないこと考えてる顔してますけど、僕は明日葉さん以外を好きになる気はさらさらありませんから」
「エスパーかよ……」
「だから明日葉さんも、どうせ好きになるなら僕にしてください。一生幸せにしますよ」
一生。その言葉に明日葉の瞳が伏せられる。明日葉は返事が出来なかった。亜笠はそんな明日葉を気にも留めずに、にっこりと笑った。
「その代わり浮気したら浮気相手を殺してからあなたを殺して僕も死にます」
「こわいこわいこわい! 何でそう物騒な方に走るんだよ!」
明日葉は青い顔で後ずさった。
変な男だ。つくづくそう思った。
告白はキレながらだし、デートは強制だし、サプライズで家族に会わせるし……かと思えば、変なところで律儀に明日葉の気持ちを尊重してくれる。
不思議だった。
(どうせ好きになるなら、かぁ……)
5年前からずっと――――恋愛はしないと決めていた。生涯独り身で構わないと。なのに、こんなところで揺らぐなんて。
揺らいでしまうなんて。
明日葉はふと溢れそうになる気持ちに蓋をした。そのままそっと心の奥深くに沈める。無理矢理に明るい声を出した。
「モーニングのパンって厚切り?」
「選べます」
「分厚い食パンのやつ食べたい」
わかりました、と亜笠が微笑んだ。
明日葉も照れたように笑った。亜笠の笑顔に、痛みを覚えながら。
この気持ちは誰にも知られなくていい。せめて今だけでも楽しく過ごそう。
そう思った。
モーニングに胸躍らせた明日葉が一歩踏み出したその時――――ポケットから着信音がけたたましく鳴りだした。会社用のスマホだった。
「はいっ、河和の明日葉です――――これからですか!?」
二、三言会話を交わして電話を切る。と、亜笠が呆れた顔をしていた。
「社畜」
「うるさいっ!」
「急配ですか」
「そう! 今すぐ会社戻んないと!」
ああ、さようなら厚切りパンのモーニング、と明日葉は半泣きになった。携帯をしまって駅に向かって駆け出す。亜笠が呆れながらも明日葉の後に続いた。
「また新宿駅で迷子になりますよ――――僕も一緒に行きます!」
雨上がりの澄んだ空の下、二人は並んで駅に向かって走り出した。
その人に会うのは、一年ぶりだった。
自分のことを覚えているだろうか。それとも全然記憶にないか……。採用面接の時以上に緊張していた。亜笠は角が擦れた名刺を見つめた後、すぐにスーツの内ポケットへしまった。
「それじゃあ倉庫は一階になるので、行きましょうか~」
大柴と呼ばれた壮年の社員に引率され、階段を降りていく。
「明日葉く~ん、新人くんが来たよ~」
「はーい!」
少し嗄れた声に、心臓が跳ねる。
声を発した青年が、倉庫の詰所に入ってきた。
黒い癖毛頭、見開かれた丸い瞳、所々汚れた作業着に、作業用手袋を嵌めた姿。下はスーツのまま、細い腰にはハンディスキャナーがぶら下がっていた。
一年間恋い焦がれた相手が、目の前に立っていた。
「亜笠誠一郎と言います。よろしくお願いします」
丁寧にお辞儀し手を差し出すと、青年は慌てたように作業用手袋を外して、手を握り返してくれた。
「あ、教育係の明日葉護です……よろしく」
初めまして、と顔に書いてあった。覚えていないのも無理はない。あの時の彼はきっと、それどころではなかったんだろう。
だが、そのくらいでめげるような自分ではなかった。
亜笠は二度と忘れられないように、覚悟を決めて、口を開いた。
「明日葉さんは童貞ですよね。処女ですか?」
「…………は?」
そのままぽかんと固まる彼の手に、自分の手を重ねる。
僕の明日はここにある。
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