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第三章 第8話
「どうします?」
話題を切り替えるように亜笠が言った。
「お風呂、一緒に入っちゃいますか?」
「えっ!?」
明日葉の足が一歩後退した。そんな明日葉の様子に別段気を悪くすることもなく、亜笠は続けた。
「このままだと風邪引いちゃうじゃないですか」
一緒に入った方が効率良くないですか? と言われて明日葉は目を細めた。
こいつ――――天然か、それとも計算なのか? 先ほどの会話を反芻するに、天然だとは思うが……それに一緒に入ったところで、
(――――何もされない……気がする)
亜笠が有言実行の男だということは、この数ヵ月一緒に過ごしてきてわかっている。何せ駅前で愛を叫ぶと言ったら本当に叫ぶ男だ。
明日葉は少しだけ迷った。
「いや……でも、やっぱり一人で入るよ。亜笠が先に入ってきなよ」
「いえ、明日葉さんが先に――――」
明日葉はかぶりを振った。
「亜笠が先に入ってきてほしい」
きっぱりと言うと、亜笠はわかりましたと言ってバスルームに入っていった。
明日葉は一息ついて、ポケットの中のものをテーブルに出した。スニーカーを脱いでスリッパに履き替える。Tシャツが濡れて肌に張り付いていた。気持ち悪いから脱ごうかと思いTシャツの裾に手をかけたが、やめた。
所在無げにベッドの端へ座った。テレビをつける気にもなれずにぼんやりと辺りを見回すと、すりガラス越しの亜笠の身体が視界に映った。慌てて背を向ける。
脈打つ心臓を深呼吸して整える。
(落ち着け――――もう5年も前だぞ。もう大丈夫……あの頃とは、違う)
相手も違う。頭ではわかっているのに手が震えそうになった。
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせた。こんなことをしなければいけない自分を情けなく感じた。
バスルームから聞こえるシャワーの音に、記憶の扉が開く。
『大丈夫』
耳元で声が聞こえた。それは亜笠の声ではなかった。
あの日と同じく、明日葉の前髪から、一粒の水滴が落ちた。
『――――一緒に楽しもう?』
「明日葉さん」
呼ばれて、明日葉はバッと顔を上げた。
濡れた髪の亜笠が、バスローブ姿で立っていた。
「あ……」
青い顔の明日葉に、亜笠は顔を顰めた。
「大丈夫ですか?具合悪いんじゃありませんか?」
明日葉は深呼吸して、早くなる鼓動を抑えようとした。
「だ、大丈夫……こういうとこあんまり来ないから、緊張しちゃって……」
あはは、と乾いた笑いで誤魔化す。
亜笠は何か言いたげに明日葉を見つめたが、結局は何も聞かなかった。
「身体冷えたでしょう。お湯溜めたのであったまってきてください」
バスローブとバスタオルを差し出してくれる。受け取って、明日葉は慌ててバスルームに駆け込んだ。
湯気が立つ湯船。シャンプーの香り――――引きずられそうになる記憶を、かぶりを振って無理矢理現実に戻す。明日葉は極力何も考えないように、淡々と服を脱ぎ、身体を洗って湯船につかった。
雨で冷えた身体があたたまっていく。
十分に身体があたたまった頃、明日葉はシャワーヘッドを手に取った。
準備、という二文字が頭の中に浮かんでいた。
亜笠は何もしないと言った。だが――――本当、だろうか。ベッドに入ればやっぱり、なんてことになるんじゃないだろうか。
いや、でも、と明日葉はまたかぶりを振った。
(……何もしないって、言ったし)
明日葉はそのままシャワーヘッドを元の位置に戻して、バスルームを後にした。
ローブに着替えて髪の毛を拭きながら部屋に戻ると、亜笠がベッドの上でテレビを見ていた。周りを見ると、ハンガーに明日葉と亜笠の服がそれぞれかけられていた。どうやら明日葉が長湯している間に、干してくれたらしい。
「まだ立川から西国分寺のあたりは不通みたいですね。ホテルに来て正解でした」
「明日の朝動いてるかなぁ。8時半までには鍵開け行かないと」
ごく普通に話しかけてくれる亜笠に、明日葉も緊張なく話すことができた。
「明日の朝なら大丈夫でしょう。雨も止みますし――――明日葉さん」
呼ばれて顔を上げる。亜笠は手にドライヤーを持っていた。
「乾かしてあげますよ」
「自分でできるよ……」
「させてください」
思いの外強引に言われて、明日葉は渋々亜笠の前に座った。ドライヤーのスイッチが入れられる。
「明日葉さんの髪の毛って癖は頑固なのに髪質はやわらかいんですね」
「子供の頃からこうなんだよー……ほんと扱いづらくって」
「モフモフでかわいいじゃないですか」
「いつも寝癖頭ってバカにするのはどこの誰だよ」
「バカにしてません、愛でてるんです」
ふと顔を上げると、テレビ画面にうっすらと自分たちの姿が反射していた。
亜笠は――――嬉しそうに、明日葉の髪に指を通していた。ドライヤーの暖かい風が頬を撫でていく。髪を撫でる指先は、どこまでも優しかった。
亜笠の姿がかつての自分に重なって、明日葉の瞳に影が落ちた。
好きな人の髪を乾かす亜笠からは、その瞳は見えなかった。
「――――終わりましたよ、明日葉さん」
「うん、ありがとう」
それから明日葉はベッドに寝ころんで、だらだらと天気予報を眺めた。亜笠はソファに座って水を飲んでいた。
「雨量50ミリ越えだって、そりゃ軒並み運転見合わせになるよなぁ」
「この辺りはもう弱まってるんですけどね。立川方面が酷いみたいですね」
「明日急配ないといいけど」
「絶対来ると思います」
「またそういう縁起でもないこと言う……服乾くかな」
「タオルで水気吸い取ったので大丈夫でしょう」
「そっか」
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。亜笠がソファから腰を上げた。
「さて、それじゃあ――――」
あ、来た、と明日葉は瞬間的に身構えた。
「寝ましょうか」
にこやかに言われた。明日葉は枕に顔をうずめた。そのまま枕を殴った。汚れちまった自分の思考をボコボコにするように。
「どうしたんですか……」
「いや、何でもない……」
亜笠はそのままベッドに潜った。明日葉も、しばらくテレビを眺めた後に、電源を落としてベッドに入った。
「電気は? 全部消そうか?」
「常夜灯だけで」
「はいはい」
小さな明かりだけ点けて、枕に頭をのせる。仰向けの亜笠の横顔を見つめた。
明日葉はふと、日中のカフェでのことを思い出した。
「そう言えばさ、この間のスイートルーム、一年前に取ったって言ってたじゃん。あれ、どうして?」
芙美子がいた手前、ホテルのことについては聞けなかったが、気になっていたのだ。
明日葉の言葉に、亜笠はこちらに向き直った。薄暗い明かりに照らされた亜麻色の瞳に、明日葉の姿が映る。
「会ってはいたけど、まだ知り合ってはなかっただろ」
言うと、亜笠は躊躇いながら口を開いた。
「――――一目惚れだったんです」
「え」
意外な言葉が返ってきて、明日葉は瞳を見開いた。
「駅で出会ったあの日から、あなたのことを追いかけてました。少しでも近づきたくて、仕事も辞めて家も引っ越して、転職もしました」
明日葉は、それは世に言うストーカー……と口から出そうになったが、亜笠の真剣な表情に言葉を飲み込んだ。
「一年前から、あなたのことがずっと好きでした」
ベッドの中での告白に明日葉は動揺した。胸の奥が落ち着かない。
「……それで22万のホテル予約したの?」
「僕なりの覚悟です。それまでには絶対親しくなろうって、そう決めてたんです」
「変なの……」
真面目な顔して言うので、明日葉は思わず笑ってしまった。
「普通予約するか? まだ知り合ってないのに、22万のホテル」
「さすがの僕も、まさかチェックインから30分で出ることになるとは思いませんでした」
たしかにそれは予想できないだろうな、と2人で笑い合った。
明日葉は、今なら聞けるかな、と思った。
「あのさ」
思い切って口を開く。
「なんで何もしないの」
「どうしてそんなこと聞くんですか」
「だって、一年越しのホテル、駄目にしちゃっただろ。埋め合わせするって言ったから、おれ、今日がその日なのかと思ってた」
「ああ……だから今朝、健全な場所かって聞いてきたんですね」
明日葉の顔が赤くなった。改めて、父親の20年目の命日になんていうことを聞いてるんだおれは、と恥ずかしくなった。
「ごめん……お父さんの命日に、こんなこと」
「気にしないでください。僕も気にしてませんし」
亜笠は無表情で淡々と言った。
「……セックスしないの?」
恐る恐る聞く明日葉に、亜笠がさらりと答えた。
「明日葉さんはしたいんですか」
「したいっていうか、してもいいよ。お前がしたいなら」
その言葉に、亜笠が目を伏せる。
「そうじゃありません」
「え?」
続く言葉に、明日葉は瞳を見開いた。
「明日葉さんは、僕としたいんですか」
長い沈黙の末、明日葉が返せたのは一言だけだった。
「――――お前が、したいなら」
「だから、そうじゃなくて」
伏せた目を上げて、明日葉のことを真っ直ぐに見つめながら、亜笠は言った。
「明日葉さんの気持ちはどうなんですか」
「おれの気持ちって言われても……」
「大事なのはあなたの気持ちです。僕がセックスしたいとか、そんなのは二の次でいいんですよ」
責めるというよりも、ただただ語りかけるような口調だった。
明日葉の――――深いところに。
まるで閉じた扉を優しくノックするかのような、そんな口調だった。
それでも明日葉には答えられなかった。考えたことがなかったからだ。自分が、亜笠とセックスしたいのかどうかを。
亜笠が望むならそれでいい、としか思わなかった。
それじゃあ駄目なんだろうか、と思ったところで、明日葉の胸に痛みが走った。
明日葉にはそれ以上何も答えることができなかった。
亜笠はそんな明日葉の様子も、あまり気にしていないようだった。
もぞもぞと身体が動いたかと思うと、明日葉の目の前に白い手が差し出された。
「な、何」
唐突な行動に怯えながら聞くと、亜笠は平然と言った。
「手、繋いでもいいですか」
前回の遊園地デートでは無理矢理にでも繋いでいたのに……と思いながら、明日葉は差し出された手にそっと自分の手を添えた。
「いいよ」
お風呂上りの温もった手が、少し低い体温に包まれる。
「埋め合わせなんて、これで十分です」
亜笠の言葉に、明日葉の瞳が揺れた。零れそうになるものをぐっと堪える。
「おやすみなさい、明日葉さん」
亜笠はそう言って目を閉じた。本当に寝る気らしい。
不思議な男だ、そう思って明日葉も目を閉じた
「――――おやすみ、亜笠」
今日は本当にいろんなことがあった。
眠れるかな、という心配は、すぐに夢の中に沈んでいった。
明日葉にとって初めての夜が更けていく。
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