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第三章 第7話

 すったもんだあったが、志津加の穏やかなフォローもあってなんとかその場は穏便に会話が終了した。亜笠がソファから立ち上がる。 「そろそろお暇します」  明日葉も亜笠に続いて席を立った。そんな明日葉に、薫は顔を背けながら声をかけてきた。 「次に会う時はちゃんとした身なりで来るんだぞ!」  べっ、別にお前のスーツ姿なんぞ見たくないがな! と話す薫に、お前はツンデレか、と明日葉は目を細めた。 「あらあら、薫さんは随分明日葉さんのことが気に入ったみたいね」 「怖いこと言わないでください」  うふふと笑う志津加に、明日葉が青い顔をした。 「立川の方は雨が強くなってきたみたいだけど、大丈夫かしら? 良かったら今日は泊まっていく?」  志津加の提案に、亜笠が手を振った。 「明日葉さんが明日仕事で朝早いので、今日は帰ります」 「運転見合わせの区間も出てるみたいよ」  志津加は心配そうに首を傾げた。 「行けるところまで行ってみます」 「そう? 気を付けて帰るのよ」  優しく話す志津加に、明日葉は少しだけ躊躇った後、口を開いた。 「あの――――亜笠のお祖母さん、すみません。お騒がせして」  初対面のご老人相手に威勢の良い啖呵を切ってしまい、明日葉は反省していた。他人の家の実家で何をしてるんだおれは、と思っていたところだった。  明日葉の謝罪に、志津加は微笑んだ。 「全然。あなたは誠一郎を守ってくれただけじゃない。ありがとうね」 「…………」 「結婚式には呼んでね」  明日葉がその場でずっこけた。  志津加が帰りのタクシーを呼ぼうとしていたので、明日葉は亜笠と相談して丁重に辞退した。タクシー代まで渡して来ようとしていたので、気が引けたからだ。  雨はそれほど降っていなかった。傘を差すほどではなかったので、駅までの道のりを亜笠と歩いた。 「お前さぁ、ほんと、先に言ってよ」 「明日葉さん、重いって言って逃げるじゃないですか」 「そりゃそうだけど、サプライズで家族紹介するなよな」  父に始まり母、祖父母――――みんな真っ直ぐで思い込みがちょっと激しい。亜笠によく似ている。  明日葉は思わずふっと笑ってしまった。亜笠の目が見開く。 「みんな、いい人たちだね」 「はい」 「お前が何でそんなに良いやつに育ったのか、わかった気がする」 「――――そう、ですか」  亜笠は少しだけ顔を赤らめて目を伏せた。 「芙美子さんなんか、理想のお母さんって感じだ」  明日葉の言葉に亜笠が頷いた。 「自分で言うのも何ですけど、自慢の母です」 「うん」 「でも炊飯器のご飯は焦がすし茹でようとしたパスタは燃やすし、家ではすごく大変なんですよ」  芙美子の意外な一面が発覚した。亜笠があまりにも真剣に言うものだから、明日葉はまた笑ってしまった。  芦屋家のご厚意に甘えるべきだったかも、と明日葉は後悔した。  駅もすぐそこと言うところでみるみる雨脚が強くなり、土砂降りになってしまった。二人で慌てて駅に駆け込んだが、遅かった。明日葉の髪がびしょ濡れになった。亜笠のシャツも濡れて身体に貼り付いている。 「明日葉さん、大丈夫……じゃないですね」 「前が見えない……」  額にくっついた前髪をかき上げると、亜笠の視線とかち合った。 「やっぱり傘借りてくれば良かったですね」 「やだよ、だって絶対高級なやつだろ?」  失くしたらえらいこっちゃだ。そんな傘使えない、と明日葉はぼやいた。 「それもそうですね――――とにかく、早く帰りましょう」  そう言って亜笠は微笑んだ。  ホームへ向かおうとして、足を止める。明日葉が首を傾げた。亜笠はスマホの画面を見ながら思いっきり顔を顰めていた。 「何、どしたの」 「南武線が止まりました」 「えっ」 「このゲリラ豪雨で立川方面の電車が軒並み運転見合わせになってますね」 「まじかぁ……」  ずぶ濡れのまま帰宅困難なんて……と思っていたらくしゃみが出た。 「とりあえず新宿向かいましょう、もしかするとそっちから帰れるかもしれませんし」  両手で自分の腕をさすりながら、明日葉は頷いて、頼りになる後輩の後ろをついて歩いた。  が、新宿に行っても状況に変わりはなかった。ゲリラ豪雨で足止めを食らった人たちで、駅のホームは非常に混雑していた。  亜笠は電車を降りると明日葉に声をかけてきた。 「とりあえず中央線のホームまで――――」  行きましょう、と続けるつもりだった亜笠の声が止まった。後ろにいる明日葉を振り返る。 「…………何で僕の裾掴んでるんですか」  怪訝な顔をする亜笠に、明日葉は恥を忍んで口を開いた。 「人、多い」 「まあ、電車が止まってるので」 「前に――――新宿駅で、京王線見つけられなくて2時間くらい迷ったことがあって…………」 「…………迷いようがなくないですか?」  信じられないものと見るような目をされた。 「都心育ちのお前に言われたくないよ!」  明日葉は半泣きで抗議した。こちとら東北の山奥育ちだ。最寄り駅の電車は二時間に一本しか来ないド田舎だ。 「いや出身とか関係なく、明日葉さん、ほとんどの駅のホームには上の案内表示を見て行けば絶対にたどり着けます」  真剣に心配そうな眼差しをされた。 「たどり着けなかったの! おれは!」  亜笠がため息をついた。 「わかりました。じゃあせめて裾じゃなくこっち掴んでください」  と言われて左手を差し出される。明日葉は少し考えたが、素直にその手を取った。亜笠はよくできましたと言わんばかりに微笑んだ。  亜笠は明日葉の手を引きながら、器用に人波を縫って歩いた。 「っていうか明日葉さん、それでよく配達やってますね」  亜笠の言葉に、明日葉は遠い目になった。 「最初の頃はめちゃくちゃ迷ってたよ。でも愛染さんに殺されそうだったから、死ぬ気で道覚えたよね」  愛染は明日葉の元先輩に当たる社員だ。小柄でつり目の愛らしい美少女のような容貌の女性だが、中身は虎よりも凶暴で恐ろしいタイプだった。面倒見はいいが、口は悪く仕事には非常に厳しかった。 「それであんなに早くなったんですか……」 「愛染さん、優しいけど怖かったから……」  喋りながら歩くうちに、中央線のホームへ続く階段まで来た、が――――  見渡す限り人で埋め尽くされていた。階段にも隙間なく人が立っている。駅のホームからは、運転再開の見込みなし、というアナウンスが流れていた。周囲の人たちがため息をつく。  隣の亜笠も例に漏れずため息をついた。 「やっぱり今日中に帰るのは難しそうですね」 「うーん……まあおれの当番は明日だから、朝一で帰れればいいんだけど」  と、そこまで自分で言ってハッとした。  これじゃまるで自分から泊まりに行こうと言っているようなものだ。  見ると、亜笠が目を丸くしてこちらを見つめていた。思わず顔が赤くなる。 「いや、ちがっ、そういう意味じゃ――――へっくしゅ!」  否定しようと手を振ろうとしたが、くしゃみに邪魔をされる。鼻の下をこすっていると、亜笠が心配そうにハンカチを差し出してくれた。 「その方がいいですね」 「え?」 「このままだと風邪引きそうですし、泊まっていきましょう」  きっぱりと言うと、亜笠は明日葉の手を引っ張った。  どこに、と思う間もなく亜笠はスイスイと人混みを抜けていく。明日葉はどこを歩いているのか、何口に出たのかもさっぱりわからなかった。  外は先ほどより幾分雨脚が弱くなっていた。傘を差さずに歩いている人も何人かいた。亜笠はどんどん前に進んでいく。  さすがに駅を出て繁華街を歩いていて、気が付いた。  赤や紫、青の煌びやかなネオン、窓の少ない建築物、ヨーロッパの古城のようなものもあれば、ガラス張りで近未来を思わせるような雰囲気を纏ったものもある。 (これは――――)  紛れもない、ホテル街だった。  呆然としていると亜笠に手を引っ張られた。  南国リゾートチックな建物の中に入る。受付にホテルマンが立っていて明日葉はびっくりした。が、気にしているのは明日葉だけで、亜笠は何事もなくチェックイン手続きを済ませ、ホテルマンも何事もなく淡々と案内をした。  エレベーターに乗ってから、亜笠は平然と言った。 「別にこの辺りじゃ男同士で利用するのも珍しくありませんから、そんなにビクビクしなくても大丈夫ですよ」 「あ、そうですか……」  落ち着かずに明日葉がキョロキョロしていると、亜笠が少しためらいがちに口を開いた。 「明日葉さんは――――初めてですか、こういうところは」 「えっ? いや、おれは……」  言いかけて、明日葉は顔を顰めた。あれを「行ったことがある」と数えていいものなのか。  過去の黒歴史を漁りながらどう答えたらいいのか逡巡していると、エレベーターの扉が開いた。幸いなことに、亜笠はそれ以上聞かずにエレベーターを降りた。明日葉も後に続く。  部屋に入る。薄暗いムーディな照明に、すりガラス越しのバスルーム、目の前には――――キングサイズのベッドがあった。 「…………」  明日葉の前髪から水滴がしたたり落ちた。明日葉は、努めて無表情を装った。震えそうになる拳をぎゅっと握る。 「言っときますけど」 「えっ!? な、何!?」  すぐ後ろから声が聞こえて、明日葉は思わず飛び上がった。 「何もしませんから、そんなに緊張しなくていいですよ」  優しい声音だった。この男の誠実さがよく出ている。明日葉はためらいながら、でも、と言った。 「この間もそう言って一緒にお風呂って……」 「あれは本当に一緒にお風呂に入りたかっただけです」 「は!?」  明日葉にとって今日一番の衝撃だった。そんなやついるか!? いや、いた。ここに。亜笠は首を傾げて、不思議そうに言った。 「バスルーム見なかったんですか? あの部屋はバスルームからの眺めがきれいだったんですよ。一緒にお風呂入りながら見れたら、最高の思い出になるじゃないですか」  き、清らかすぎる……明日葉にはそんな亜笠が眩しく映った。汚れちまった悲しみに、という詩があったような。中原中也だっけかな。 「この間も思ったけど、お前って結構乙女だよね……」  肩を落とす明日葉に、亜笠はなおも首を傾げた。 「普通じゃないですか? このくらい」 「普通じゃない! おれの普通は――――」  先ほど開き始めた黒歴史のページが、明日葉の脳内を駆け抜けていく。しばらく沈黙した後、明日葉は絞り出すように言った。 「いえ…………何でもないです」 「どう考えても何でもない人の答えじゃないですよね、それ」  図星だった。が、今ここで言う訳にもいかない。亜笠がため息をついた。 「まあ別に無理に聞こうとは思いませんけど」 「うん、そうしてくれると助かります……」  亜笠の気遣いが、明日葉の心の傷にちょっとだけ沁みた。

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