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第三章 第6話

 明日葉と亜笠は玄関を入ってすぐのリビングへと通された。  無垢材の床の上を、スリッパでパタパタと歩いた。毎日磨き上げられているのか、つやつやで滑りがいい。うっかりしていると転びそうだった。  大きな掃き出し窓の向こうには、日本庭園が広がっていた。手入れの行き届いた松や石灯籠が並び、その景色はまるで旅館の一室から眺める庭のようだった。  だがそんな情景も、今の明日葉には気にしている余裕がなかった。  ゆったりとしたソファに腰掛け、二人はお手伝いさんが持ってきた紅茶を口に運んだ。いるんだろうなぁとは思っていたが、やっぱりいた、お手伝いさん。  向かいには同じように薫と志津加が座り、静かに紅茶を楽しんでいた。  明日葉のカップを持つ手が小刻みに震えた。受け皿と触れ合い、カチャカチャと頼りない音を立てる。 (これ……うっかり落として割ったら、いくらするんだろうか……)  紅茶を飲むだけで命懸けだった。  明日葉の様子に、亜笠が小さく耳打ちしてきた。 「明日葉さん、気にしないでください」 「え!?」  意外にもニトリの食器とかなのかな、と明日葉は期待した。 「薫さんは若干思い込みが激しいので……明日葉さんが悪いわけじゃありませんから」 「ああ……」  明日葉の期待は明後日の方向に外れた。顔を上げて正面を見る。  亜笠祖父――――薫の鋭い眼光が、明日葉の身体に突き刺さっていた。まるで射殺さんばかりの勢いだ。まあ、可愛がっている孫が男の恋人(ではないが)を連れてきたら、憎らしい態度の一つでも取りたいだろう。  気持ちはわかるが、突き刺さる視線をその身に受ける方としては勘弁していただきたかった。  薫の様子を見て、隣に座る志津加もため息をついた。 「明日葉さん、ごめんなさいね。うちのが……」 「いえ……亜笠のお祖母さんが謝ることじゃないですし……」  明日葉は引き攣った笑いでそれだけを言うのがやっとだった。ティーカップをテーブルに置くと、いくらか緊張は和らいだ。 「芙美子が結婚するって誠さん連れてきた時も、まったく同じ反応だったわ」  志津加は困ったように薫を一瞥すると、呆れ半分、諦め半分といった笑みを浮かべた。 「絶対許さないって猛反対してね。今は和解したけど、一時期は大変だったのよ」 「僕が高校に上がるくらいまでは絶縁状態でしたもんね」 「芙美子もこの人も、思い込んだら一直線だから」 「あ、なるほど……」  亜笠のブルドーザーぶりはここから来ているわけだ。明日葉は妙に納得してしまった。  明日葉を無遠慮にじろじろと眺めていた薫が、フンッと鼻を鳴らした。 「Tシャツにジーンズって、挨拶を舐めとるんか!」 (ああ、どこかで聞いた台詞……)  指摘を受けている本人にも関わらず、明日葉は呑気にそんなことを思った。  先月、亜笠に強制デートへ連行された時に受けた説教と同じだった。 『パーカー、Tシャツ、ジーンズにスニーカーって、舐めてます?』  いや別に決して舐めているわけではない。が、根っからの庶民、しかも畏まった服装など年に一度もしない自分にとって、何が許される基準なのかがわからなかった。 「人様の家に挨拶しに来るならスーツくらい着てこんか!」  薫はまだ親切だった。スーツ、というわかりやすい基準を示してくれた。そもそもがサプライズで会わされているので、叱るのなら隣の男に言ってほしいとも思ったが。サプライズで自分の家族に会わせてはいけません、と。 「はあ……」  明日葉は気の抜けた返事しかできなかった。  隣では亜笠が静かに紅茶を口へ運んでいる。まるで毎年見る季節の風物詩でも眺めているような落ち着きぶりだった。 「薫さんったら一時間前からずっとそわそわしていてね。今日は軽い挨拶だけだからそんなに畏まらなくていいって言ったのに、紋付き袴で出迎えるってきかなくて」  志津加が困ったように笑う。  確かに目の前の老人は紋付き袴姿だった。  背筋はまっすぐに伸び、年齢を感じさせない威圧感を纏っている。痩身に口ひげを蓄え、白くなった髪をきっちりと後ろへ流した姿は、どこぞの旧家の当主そのものだった。 「薫さん、気合い入れ過ぎです」  亜笠の指摘にも薫は鼻を鳴らすだけだった。 「今日は誠さんのお墓参りに行ってきたのね。明日葉さんも、付き合ってくれてありがとうね」  お仕事お忙しいでしょうに、と申し訳なさそうに微笑む志津加に、明日葉は「いえ、全然」と静かに首を振った。 「母さんたちは先にお墓参り済ませてたんですね。菊の花が上がってました」  亜笠が紅茶を一口飲みながら尋ねる。 「芙美子が今朝来てね、薫さんと私を引きずっていったわ」  志津加は思い出したように肩を揺らして笑った。 「明日葉さんは、ご実家はどちらなのかしら?」  話題が自分へ向き、明日葉は姿勢を少し正した。 「福島です」 「明日葉さんはお寺の息子さんなんですよ」  亜笠が当たり前のように補足する。 「あら、じゃあいずれ跡継ぎに戻るの?」 「いえ」  明日葉は苦笑しながら首を横へ振った。 「兄貴が継いでて、結婚して子供もいるので。おれは全然」 「まあ、それならよかったわねぇ」  志津加はほっとしたように微笑んだ。  どうやら跡継ぎ問題には、それなりに思うところがあるらしい。 「いずれご家族にもご挨拶に行かないとですね……」 「やめてくれる? まじで」  亜笠の何気ない呟きに、福島の実家までブルドーザーが突撃していく光景が容易に想像できてしまい、明日葉は思わず顔を顰めた。 「許さん」 「え?」  それまで黙って紅茶を飲んでいた薫が、唐突に割り込んできた。 「誠一郎は儂の宝物だ!」  ティーカップをガシャンとソーサーに置く。明日葉は薫の言葉を聞いて、咄嗟に目を閉じた。 (ダメだ。今じゃないぞ。明日葉護、堪えるんだ――――)  思ったが、ダメだった。脳内で『孫』が流れ始める。  そんな明日葉の様子を気にも留めず、薫は立ち上がって拳を握った。 「誠一郎は儂の養子になると決まっとる! お前なんぞにはやらん!」 「またその話ですか……本家の跡継ぎはもういるじゃないですか」  慣れているのか、亜笠は少しも声を荒げない。薫の勢いを真正面から受け止めるでもなく、受け流すでもなく、ごく自然に返していた。 「女はダメだ! 誠一郎に継がせると儂は決めとるんだ!」 「はあ……」  前時代的だなぁと脳内BGMを聞きながら明日葉は呑気に考えた。  が、次の薫の台詞にギョッとした。 「男を好きになること自体は否定せん。後を継いだら自由にしても構わん。だが――――結婚は別だ!」 「待って待って待って! おれたち結婚しないです! まず、付き合ってません!」 「付き合ってない……だと!?」  薫の頭の上に一瞬「?」が浮かんだ。 「遊びと言うことか! 人の大事な孫を弄ぶとは――――許せん!」 「ああもう、人の話をよく聞いて! ブルドーザーかよ!?」  思わず本音が出てしまった。突然の重機の名前に亜笠が首を傾げた。 「ダメなのよねぇ、最近本当に思い込みの激しさが増してて」  志津加が頬に手をあてて言った。 「昔からこんなだった気がしますが」  亜笠が静かに紅茶を飲みながら言った。  薫がダンッとテーブルを叩いた。 「結婚だけは絶対許さん!」  カップが小さく跳ね、紅茶の水面が波打った。 「いやだから結婚しないって!」  明日葉は胸の前で両手を振った。何回同じ説明を繰り返しても話聞かないな、この爺さん、ボケてるのか、と結構失礼なことを考えていた。 「お前みたいなどこの馬の骨ともわからん男にやるつもりは断じてない!」  薫の怒声が部屋中に響く。志津加は「ああもう……」と小さく肩を落とし、亜笠は静かにため息をついた。 「だから――――」  違う。そこじゃない。そう言おうと口を開いた、その時だった。 「誠一郎は本家の大事な跡取りだ!」  どうやっても巻き戻る話題に、明日葉の堪忍袋の緒が切れた。立ち上がって、口を開く。 「ジジイ、いい加減人の話を聞け――――っ!」 「なっ!? 儂は本家の当主だぞ!?」 「知るかぁ! さっきから言わせておけば、いい加減にしろよ! 何が『自由にして構わん』だ! 人の人生を何だと思ってんだ!」 「こ、こいつ……!」 「まず! 第一に! 人の話を聞け! 亜笠の人生は亜笠のものだ、どうするかはこいつ自身が決めることだろ!? 次、第二に人の話を聞け! 亜笠の意思をちゃんと確認しろ! 第三第四も以下同文!」  明日葉の啖呵に、薫は「ぐぬぬ」と唸った。 「あらまあ……」 「明日葉さん……」  立ち上がった明日葉を見て、志津加が目を丸くした。亜笠も目を見開いて驚いていたが、その瞳はどこかキラキラと輝いていた。 「そもそも、だ! 何でおれは恋人でもない男の祖父からこんな仕打ちを受けなきゃいけないわけ!? 会って早々失礼にもほどがあるだろ! っていうか! 聞けよぉおおお人の話をぉおおおおお!」  明日葉の咆哮に薫を含め全員が黙り込んだ。シーンとした空気に、明日葉が我に返る。  薫は口を半開きにしたまま固まり、志津加は目をぱちぱちさせている。亜笠だけが静かにティーカップを置いた。  明日葉はしばらく肩で息をした後、何事もなかったかのようにソファに座って紅茶に口を付けた。 「――――で、何の話でしたっけ」  全力で誤魔化した。が、ダメだった。亜笠は薫の目を真っ直ぐに見て、言った。 「薫さん、明日葉さんは僕の意思を尊重して結婚してくれるそうです」  明日葉が再び立ち上がった。 「言ってない! おれ一言もそんなこと言ってない!」  ブンブンと首を左右に振る明日葉を尻目に、薫は低く呻いた後に、小さく呟いた。 「…………誠一郎がそこまで言うなら、仕方あるまい」 「おいどうした頑固ジジイ! 急に折れるな! そこはお前の意思を貫けよ!」  明日葉は薫の胸倉を掴んで揺さぶりたい気持ちでいっぱいだった。 「儂に対してここまで啖呵を切るとは……さすが誠一郎の見込んだ男だけある……」  薫が額に手をあてて、力なくソファへ座る。明日葉は両手をぎゅっと強く握った。 「違ぁ――――う! お願い誰か話を聞いてぇ――――っ!」  明日葉の叫びが、部屋の中に虚しく響き渡った。

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