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第四章 第7話

※一部性加害表現があります。ご注意ください。  飛鳥は思いの外、淡々と話した。  飛鳥と明日葉は同じ中学の同じクラスに通っていた。  接点はなかった。明日葉はクラスの中でもたった一人の友人としか話さなかったし、飛鳥は飛鳥でごく親しい女子グループとしかほとんど話をしなかった。  お互いに名前は知っていたが、会話したことは一度もなかった。  ある時、飛鳥は体育を担当している教師から呼び出しを受けた。教師は飛鳥の部活の顧問もしていたので、飛鳥は部活関係の話なのかと思っていた。  その日は期末テスト期間だったため部活動もなく、生徒の帰宅も早かった。放課後、飛鳥は自分の教室に一人残っていた。教師は全校生徒が帰宅したであろう時刻になってから、ようやく現れた。  最初はごく普通の話から始まった。教師は飛鳥が座る席に向かい合わせに座ってきた。少し距離が近いな、とは思っていた。  内容はなんてことはない。部活内で困ったことはないか、いじめなどに遭ってはいないか、と言うことだった。飛鳥に心当たりはなかったので、ない、と答えた。翌日のテスト勉強もしたかったので、飛鳥は早く帰りたかった。  が、教師の手が、机の上にあった飛鳥の手を取ってから、状況が変わった。  飛鳥は顔を青くした。手を引っ込めようとしたが、教師は強い力で飛鳥の手を引っ張った。そのうちにもう片方の手が、机の下をくぐって飛鳥の太腿に置かれた。  飛鳥の小さな抗議は無視された。必死でその手から逃れようと席を立ったが、手を引っ張られたためにバランスを崩して床に転んでしまった。  まずい、と思った時には、飛鳥の身体を跨ぐようにして教師が馬乗りになってきた。どう見ても正気ではないその目に見つめられ、飛鳥は声が出なくなってしまった。身体が震えて上手く動けず、そうしている内に教師が下半身を露わにしてきた。  頭が真っ白になったその時、不意に教室の扉が開いた。  そこに立っていたのは――――パイプ椅子を持った、明日葉だった。  飛鳥が助けを求めるより先に、明日葉は無言で走ってきて、パイプ椅子を振り上げた。パイプ椅子が教師の背中に叩きつけられた。鈍い音が教室中に響き、教師が苦鳴を上げて身体を反らした。その隙に飛鳥は床を這うようにして教室の隅まで逃げた。  明日葉は怒鳴りも叫びもしなかった。ただ黙って、もう一度椅子を振り上げた。  教師は腕で頭を庇いながら這って逃げようとした。明日葉は執拗に追いかけて椅子を振り回した。机にぶつかり、窓ガラスを砕き、それでも止まらなかった。  その細い身体のどこにそんな力があるのだろう、と飛鳥は呆然と見ていた。  最後に振り上げた一撃が、教師の額を捉えた。教師は無様にも下半身を露出したまま、気を失って床に転がった。  肩で息をする明日葉が、パイプ椅子を持ったまま、その場にへたり込んだ。その身体は見るからにガクガクと震えていた。二人が呆然としている間に、騒ぎを聞きつけた何人かの教師が教室へ駆け込んできた。 「――――それからいろんな先生に事情を聞かれたけど、何を話したらいいのかわからなくて、私、何もしゃべれなかった。思い出すのが怖くて話したくなかったって言うのもある……まあ、大体の先生は現場を見て察したみたいだったけど」  飛鳥は当時を思い出したのか、苦笑した。  下半身を露出したまま気絶した体育教師と、青ざめて震える飛鳥と、パイプ椅子を持って呆然とする明日葉。大抵の大人は何をされたのか、何をしようとしていたのかはすぐにわかっただろう。  明日葉も、当時のことを思い出していた。  あの日、明日葉はテスト後に気分が悪くなり、自転車での帰宅が出来なかったので保健室で眠っていた。養護教諭から起こされたのは、全校生徒ももう帰ったであろう時間になってからだった。  鞄は持っていたが、翌日のテスト科目の教科書を机の中に入れたままだったことに気が付いた。  取りに戻ったその先で、飛鳥が襲われる現場を、見た。  頭の中は真っ白だった。鞄を放り出し、廊下に重ねられていたパイプ椅子を手に取った。無我夢中だった。とにかく教師を止めなければ、と、それだけだった。気が付いた時には体育教師は床に転がっていた。気が抜けてその場にへたり込み、呆然としていると、何人かの教師が駆けつけてきて自分の手からパイプ椅子をもぎ取った。  明日葉は自分の手を見つめた。  あの時の冷たいパイプ椅子の感触は、今でもよく覚えている。  その後たくさんの教師に囲まれて事情を問い詰められたが、明日葉は何も話さなかった。両親も学校から呼び出しを受け、父親にも殴られたが、明日葉は頑として口を開かなかった。 「明日葉くんも」  顔を上げると、飛鳥が真っ直ぐにこちらを見ていた。 「何も話さなかったんだよね。私のこと、傷つけないためでしょ?」 「違うよ……おれも、上手く話せなかっただけで」 「そんなことない。だってね、亜笠さん、その教師本当に最低だったの。自分のジャージ脱がせたのも明日葉くんだって、自分はただ私と話してただけなのに、いきなり椅子で殴られたって……暴行事件だって、全部明日葉くんのせいにしようとしたんだよ」  私たち二人が黙ってるからって。飛鳥はそう言って怒りを露わにした。 「最低ですね」  亜笠が眉を寄せた。 「もちろん、現場を見た他の先生たちが否定してくれたけど……でも、学校は何もしてくれなかった。明日葉くんの親には、明日葉くんのせいでその教師が入院したって報告したくせに、私の親には何の説明もなかった。私も……そのあと学校行けなくなっちゃったし……学校も当事者二人が来なくなったから都合が良かったんだろうね。退院した教師が他の学校に異動して、それっきり。酷いよね。それでもまだ教師やらせるんだから」  紛れもない性暴力だった。未遂だったから何だというのだ。  あの日、飛鳥の心が深く傷ついたことに変わりはない。飛鳥の震える姿が、今も目に焼き付いて離れなかった。 「本当に、ものすごく怖かった。みんなさ、危ない時は叫べって言うけど……叫べなかったもん。声なんか出なかったよ。震えて、身体から力が抜けて、抵抗なんかできなかった」  明日葉は何も言えなかった。飛鳥の気持ちが、痛いほどよくわかった。  状況は違えど――――自分の時も、声が出なかったから。 「でも」  と、飛鳥は笑った。 「今、私がこうして笑って話せるのは、全部明日葉くんのおかげ」 「おれ……何もしてないよ」 「そんなことない。明日葉くんが来なかったら、私どうなってたかわからない」  飛鳥が自分の胸の前で、ぎゅっと拳を握った。 「たぶん、今こうして生きて笑ってなんていられなかったと思う」  明日葉は目の前にあるグラスを見た。アイスティーに溶けた氷がゆらゆらと揺れていた。 「ありがとう、あの時、助けてくれて」  明日葉は飛鳥の顔を見ることができなかった。  テーブルの下、膝の上で拳を握る。隣から手が伸びてきて、その拳の上に重なった。自分より少し冷たい手――――亜笠の手だった。  明日葉は瞳から零れそうになるものをぐっと堪えて、顔を上げた。 「おれの方こそ――――ありがとう」  飛鳥が目を見開く。 「元気そうで、本当に良かった」  明日葉が微笑むと、飛鳥の頬に一筋の涙が流れた。 「明日葉くんも」  本当に良かった、震える声でそう言って、飛鳥は顔を覆って静かに泣いた。  しばらくお互いの近況などを話した後、明日葉たちと飛鳥はカフェの前で別れた。 「今度薬局に配達来た時には声かけてね」  阿部さんも、明日葉くんが来るの楽しみにしてるから。そう言って飛鳥は笑った。明日葉は引き攣った笑いを浮かべた。 「亜笠さん」  飛鳥は真剣な眼差しで、明日葉の隣に立つ亜笠に声をかけた。 「はい」 「明日葉くんのこと、絶対に幸せにしてくださいね」  亜笠は一瞬だけ目を見張った後、真っ直ぐに飛鳥を見て、言った。 「絶対に幸せにします」  横で聞いていた明日葉はいろいろツッコミたかったが、飛鳥があまりにも真剣だったので、心の中だけにとどめておいた。  明日葉と亜笠は手を振って、飛鳥の車を見送った。  飛鳥の車が見えなくなった頃、隣の亜笠が口を開いた。 「――――かっこいいですね、明日葉さん」  どこが、と明日葉は半眼になった。ため息をついて否定する。 「お前が思ってるような感じじゃないよ。実際はもうブルブル震えてたし、半泣きだったし、反撃されたらどうしようってめちゃくちゃ必死だったもん」  パイプ椅子がなきゃこっちがやられてたよ。言うと、亜笠は微笑んだ。 「最高にかっこいいじゃないですか、それ」  明日葉は頬を掻いた。そんな明日葉の肩に、亜笠が頭を寄せた。 「これ以上惚れさせないでくださいよ――――まったく」  まったく、と言いながらも、亜笠はどこか嬉しそうだった。 (今日は、こいつがいてくれて……よかったかも)  肩に重みを感じながら、明日葉はそう思った。

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