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第四章 第8話
駅前の居酒屋で夕食を済ませた後、二人はビジネスホテルの前に立っていた。
「最初から2名で取ってますんで、何にも心配いりませんよ」
亜笠はそう言って笑った。相変わらず抜かりのない男だ。っていうかおれがもし実家に泊まることになってたらどうする気だったんだ。聞くと、彼は平然と答えた。
「一人で泊まるつもりでした」
「宿泊代は?」
「二人分払って」
「ねぇ! だから! そういうのやめて! せめて事前に一言相談して!」
明日葉は亜笠の胸倉を掴んでガクガクと揺さぶった。
「明日葉さんに払えなんて心の狭いことは言いませんよ、僕は」
「余計に重いよ!」
まあ結果的に二人で泊まるんだからいいじゃないですか、と言って亜笠はスタスタとホテルへ入っていった。明日葉も肩を落として亜笠に続いた。
チェックインを済ませて部屋に入るなり、明日葉は呻いた。
「ダブルベッドか……」
「ツインが満室で取れなかったので」
「だからか! だから受付のお姉さんがやたら聖母みたいな眼差しでこっちを見てたのか!」
受付の女性の非常に心のこもった優しい対応に、明日葉は恥ずかしさで憤死しそうだった。顔を覆ってベッドに転がった。
亜笠は荷物を置きながら冷静に言った。
「明日葉さん、せめて靴は脱いでください」
亜笠の注意に、明日葉はベッドに寝転んだままポイポイと靴を放り投げた。
「……嫌がらないんですね」
亜笠の問いかけに明日葉は首を傾げた。
「何が?」
「ダブルベッド、もっと嫌がるかと思ってました。実家に帰るって言われるとばかり」
実家に帰るって、夫婦じゃあるまいし。明日葉はため息をついた。
「別に――――だって、お前おれがしたいって言わない限り本当に何もしないし」
「それはそうなんですけど……」
「けど、何」
言いよどむ亜笠に、明日葉はきょとんとした。
「明日葉さん、僕相手ならいいんですけど、他の男の『何もしないからホテル行こう』は絶対に信じちゃダメですからね?」
明日葉は近くにあった枕を亜笠に投げた。亜笠は平然と受け止めた。
「今はそこまでバカじゃないよ!」
「『今は』……?」
「…………」
やってしまった。また盛大に墓穴を掘ってしまった。出来ることなら今からその穴に入って蓋をしたい……明日葉はそんなことを思った。無言で布団をめくって中に籠る。
「明日葉さん……あの、ずっと気にはなっていたんですけど」
亜笠が遠慮がちに質問してきた。明日葉は黙っていた。
「男性経験、ありますよね」
やっぱりそうなるよな、と明日葉はひとりごちた。
薄暗い布団の中、5年前の記憶が蘇る。あの時も自分はこうして布団の中にいたっけ、と。
さて、なんと答えたものか……。そんなことを思っていると、ふと、亜笠と出会った当初のことを思い出した。
「……お前さ、一番最初に言ったよな」
「何をですか?」
「童貞ですよね、処女ですか、って」
出会って最初の一言があれって、なかなか忘れられないよな、そう思って明日葉は少し笑った。
「……言いましたね」
亜笠の返事に、一拍置いてから答える。
「――――童貞だよ。でも、処女じゃない」
「それって……」
「飛鳥さんの話、聞いただろ」
「はい」
「おれ、あれ以来女の人のこと恋愛対象として見れなくなった」
亜笠は返事をしなかった。明日葉は気にせず話を続けた。
「セックスも、『する方』が、できないの。AVとかも、おれにはもう虐待動画にしか見えないんだ……怖くって」
断じて、飛鳥のせいなんかではない。あの時教師を殴ったことを後悔したことはない。ただ、自分は「そう」なってしまった。それだけだった。
自分なんかより、飛鳥の方がよほど怖かっただろう。どれだけの恐怖を乗り越えて、今日を笑って過ごせるようになったのか。飛鳥はすごい、と、純粋にそう思った。
明日葉は躊躇いながらも口を開いた。
「それでも人並みに性欲はあったから、だから、男と……」
「……そうだったんですか」
明日葉はそこでようやく布団から顔を出した。亜笠はテーブルの傍に置かれた椅子に座っていた。
亜笠は呆れても笑ってもいなかった。いつもの無表情に安心して、明日葉は苦笑した。
「そこから8年、後ろめたくて一回も実家に帰れなかった」
「――――だから」
帰らなかったんですね。亜笠が優しく呟いた。明日葉は頷いた。
「おれ、たぶんお前がいなかったら帰ってこれなかった。親父の顔まともに見れなかったと思う」
明日葉は胸の前でぎゅっと拳を握った。飛鳥がそうしていたように。
「だから、今日、お前がいてくれて、良かった」
真っ直ぐに、亜笠を見つめて、言った。
「亜笠、ありがとう」
亜笠は目を丸くしていた。
「明日葉さん……」
明日葉は目を閉じた。言うか言うまいか、かなり迷った。
覚悟を決めて、ベッドを降りた。亜笠の傍に立つ。
「いろいろあって、5年前からはもう恋愛しないって決めてるんだ。だからこの先もお前が好きでいてくれても、付き合えるかどうかおれにもわからない」
「はい」
「それでもいいなら――――おれ、お前と……してみたい」
亜笠は少し驚いていたが、すぐに優しく微笑んだ。
「僕も、明日葉さんとしたいです」
亜笠は座ったまま、明日葉のことを抱き締めた。明日葉は亜笠の頭にそっと手を添えた。
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