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第四章 第9話

「じゅ、準備はもうしたから大丈夫……」  恥ずかしながらも自己申告すると、なぜか亜笠は項垂れた。 「僕が準備してあげたかった……」  明日葉は亜笠の頭を叩いた。  お互い別々に風呂を済ませた後だった。明日葉はガウンを脱いで布団の中にもぐった。亜笠も同様にガウンを脱いで明日葉の隣にやってくる。 「嫌になったらいつでも言ってください」 「わ、わかった……」  そう言って潜っていた掛け布団を剥ぎ取られる。亜笠が明日葉の身体を跨ぐように膝をついた。お互いの裸体に赤面していると、亜笠がふっと笑った。 「明日葉さん、顔が茹蛸みたいですよ」 「うるさいっ!」  男との経験は初めてではないのに、その時以上に恥ずかしく、緊張していた。  しかも、つい視線を下げた時に、見てしまった。 「なんでもう勃ってるの」 「そりゃあ好きな人の裸を前にしたら」 「いや、だって、相手おれだぞ」 「明日葉さんだからじゃないですか」  僕も結構余裕ないんです、と言って唇にキスされる。亜笠の手が肩からゆっくりと下に降りてきて身体が震えた。 「明日葉さん――――本当に経験あるんですよね?」 「ある……けど、何で」 「反応がどう見ても処女なので」  明日葉は亜笠の頭にげんこつを入れた。 「痛っ」 「お前もう黙ってやって!」  はいはい、と言いながら、それでも亜笠の顔は優しく笑っていた。  亜笠は――――今まで経験した誰よりも丁寧だった。身体中をキスされてゆっくりと、だが確実に身体を開かされていく。  散々いろんな経験をしたはずなのに、明日葉はセックスがこんなに気持ちいいものだとその日初めて知った。  荒い息をつく明日葉の腰の下に枕を敷き、亜笠は自分のものを押し当てた。  記憶の中の痛みが甦り、身体を硬くする。が、正面からキスされて緊張がほぐれた。 「大丈夫、嫌なら途中でも止めますから」  ゆっくり、じわじわと亜笠は明日葉の身体を押し開いた。  覚悟していた痛みは――――来ない。代わりに背筋を快楽が駆け抜けた。のけ反って耐えていると、亜笠が首筋にキスをした。 「痛くないですか?」  首を縦に振る。明日葉はギュッと目を閉じて快楽に耐えた。  亜笠の動きが止まる。 「本当に? 我慢してないですか?」  頷くと、亜笠のふっと笑ったような吐息が明日葉の頬を掠めた。 「もしかして――――気持ちいいですか?」  思わず目を見開く。それが答えになってしまった。亜笠は嬉しそうに破顔した。 「じゃあ、続き、しましょうね」  亜笠がゆっくりと腰を動かし始めた。明日葉の記憶はそこから何回か飛んだ。快楽で、だ。相手によってここまで違うことを、明日葉はその身を持って思い知った。  事が済むと、亜笠は明日葉の上下する胸に頬を当てて言った。 「大好きです――――護さん」  明日葉は答えられない代わりに、亜笠の頭を優しく撫でた。  護、と呼ぶその声に胸の奥が痛む。 (ああ、駄目だな、おれ)  亜笠の好意を利用して性欲を満たしている気分になった。  でも指を通る髪の感触が心地よくて、手放せなかった。 (亜笠――――ごめん)  それから、 (父さんも)  ごめんなさい、あなたの望む息子には、なれなかった。  心の中だけで呟いた。  夢を見た。  明日葉の目の前には扉があった。扉はもう開いていた。扉のノブに挿さったままの鍵を見る。  扉の外には亜笠がいた。優しく微笑んで亜笠が言った。 『入ってもいいですか』  亜笠が手を伸ばす。明日葉はじっと見つめた後、覚悟を決めてその手を取った。  引き寄せると亜笠は扉の中に入ってきた。 『大丈夫、嫌な時は嫌って言ってください』  そう言って、明日葉のことを抱き締める。  明日葉はその背中に、震える手を、そっと回した。  めちゃくちゃ気持ちよかった。  明日葉は青い顔で、ガウンを羽織ってベッドに座っていた。隣には枕を頭にスヤスヤと眠る亜笠がいた。その寝顔を見てため息をつく。  自分が今まで経験していたのは何だったのだろう、と思わされるほどに亜笠とのセックスは良かった。男同士だし、痛いのなんか仕方ないし、我慢するものだとばかり思っていたのに。 (しかもすごく今更だけど相手はよりにもよって亜笠……今後会社でどんな顔して仕事すればいいんだ……)  明日葉はどんよりとした気持ちで頭を抱えた。 「ん……」  亜笠が寝返りを打った。その手がもぞもぞと動いて明日葉を探し始めたので、とりあえず慎重にベッドを下りてバスルームに避難した。なんとなく、今は一人になりたかった。  ついでに、バスルームの鏡の前でガウンを脱ぎ、全身をチェックする。5年経っていても、身に染みた癖はどうしても出てしまう。  首筋だけでなく胸元、太もも、至るところに赤い斑点がある。明日葉は首を傾げながら屈伸してみた。腰の痛みが全然ない。足もいつも通り動く。  身体を捻る――――痛くない。これなら翌々日の仕事にも響かなそうだ。明日葉は亜笠が聞いたらまた「社畜」と言いそうなことを考えた。  再びガウンを羽織り、バスタブに腰掛けて、明日葉は項垂れた。  身体の方は問題ない。が、心の方は――――罪悪感でいっぱいだった。  やってしまった。付き合ってもいない男とセックス。  自分に好意を寄せる相手の気持ちを受け止めきれないまま、身体だけ求めてしまった。自己嫌悪に死にそうだ。 (どうしよう……今すぐビルの屋上から飛び降りたい……)  別に本気で死にたいわけではないが、明日葉は青い顔でそんなことを思った。  バスルームを出てガウンを脱ぎ、服を身に着ける。  カーテンの隙間からはうっすらと明るくなる空が見えた。テーブルの上に置いたタバコと財布を手に取り、明日葉は静かに部屋を後にした。  人気のない静かな街を一人で歩いていく。明日葉は8年前と変わらない街並みを眺めた。マンション、飲み屋、運動公園――――朝の静けさの中に鳥の鳴き声が響く。早朝だと言うのに空気は湿っていて暑かった。  明日葉は立ち止まった。タバコを取り出して一息つく。  昨日、どうして自分はあんなことを言ってしまったんだろう。 (お前とセックスしたいとか……何で言っちゃったかな)  自分でも不思議だった。決してその場の勢いで言ったわけではなかった。  8年前、男とセックスをしてから――――ずっと後ろめたかった。  それから両親と顔を合わせることができなくなった。怖かった。異質だと思われたくなかった。兄も姉も結婚して子供がいる中で、自分だけが「それ」をできないことが、つらかった。あの家に帰る資格がないとすら思ったこともあった。  きっと亜笠に無理やり連れてこられなければ、今年も帰省せずに過ごしただろう。父と顔を合わせることすらできなかったはずだ。  飛鳥のこともそうだ。一人で会っていたら、挨拶程度で彼女との会話は避けていたはずだ。飛鳥と面と向かって話せたのも、彼女の気持ちを受け止めることができたのも、亜笠が隣にいてくれたからだ。  彼がいてくれたから、昨日の一日を乗り越えることができた。 (だから、おれは――――)  明日葉はもう一本吸おうと箱の中身を覗いた。残りは一本。そう言えば前に買ったのはいつだっけ、と考えて、4日も前だということに気が付いた。  ――――いつからこんなに吸わなくなったんだろう。  少し前までは2日に1箱は普通だった。棚卸の時期は別として。  それが、4日に一箱。劇的な変化に明日葉の顔が暗くなった。  いつからなんて、そんなことはわかりきっている。  亜笠が来てからだ。彼と過ごす時間が増えるごとに、反比例するようにタバコの本数は減っていった。  もうずっと前から気付いていたのに――――気付かないふりをしていた。  明日葉はタバコを消して、携帯灰皿にしまった。コンビニまでゆっくりと歩いていく。タバコとコーヒーを2つ買ってホテルへと帰った。  亜笠はまだベッドの中で寝息を立てていた。テーブルに買ってきたコーヒーを置いておく。  ベッドに腰掛けて寝顔を覗きこむ。仰向けの顔。前髪が閉じた瞳にかかっていた。指先でそっとかき上げると、何とも言い難いあたたかい気持ちがこみ上げてきた。吸い込まれるようにその唇にキスをした。  十秒、いやもっとだったかもしれない。  長いキスを終えてそっと起き上がる。  亜笠は――――目を開けていた。驚いたように、その瞳を見開いていた。 「護さん……」  亜笠の頬に、パタパタと水滴が落ちた。 「どう、して……泣いてるんですか……」  亜笠の問いかけに、明日葉はようやく自分が泣いていることに気が付いた。  明日葉は戸惑う亜笠の胸に顔を埋めた。 「ごめん……亜笠――――ごめん」  明日葉はそれしか言えなかった。亜笠は優しく明日葉を抱き締めた。  沈めたはずの気持ちが浮き上がって、蓋が開く。  ああ、どうしよう。あれだけ恋愛しないと決めていたのに。もう独りで生きていこうと覚悟していたのに。  認めたくなかった事実が、今、目の前に突きつけられてしまった。 (――――おれ、亜笠のことが好きだ)  5年前の傷が、記憶が、堰を切って溢れ出す。  亜笠のことが好きだ。好き、なのに。 (この人の気持ちに、応えられない……)  静かに泣く明日葉の背中を、亜笠の手がゆっくりと撫でた。

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