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第四章 第10話
明日葉はしばらく泣いた後、ゆっくりと起き上がった。椅子に座って買ってきたコーヒーを静かに飲んでいた。
亜笠は明日葉が起き上がるのと同時に、自身も服を着てベッドへと腰掛けた。手には、明日葉が買ってきてくれたコーヒーがあった。
「……大丈夫ですか」
明日葉はもう泣き止んでいた。目が少しだけ赤く腫れている。
事情を聞いても話してもらえそうになかったので、亜笠はそれだけを口にした。明日葉は力なく笑った。
「うん、大丈夫」
朝からごめん、と言ってコーヒーを口にする。全然大丈夫そうには見えなかった。だが事情を聴いたところで今の明日葉に話せるようにも思えず、亜笠はただ黙るしかなかった。
静かな室内には、テレビの天気予報の音だけが流れた。
――――性急すぎただろうか、と亜笠は心配していた。
明日葉からセックスがしたいと言ってくれたのは本当に嬉しかった。恋をしないと決めている、ということも理解していた。それだけのことが過去にあったのだろうと。自分はいくらでも待つつもりでいた。
が、やはり肉体関係を持つのは、もう少し慎重になった方が良かったのかもしれない。
明日葉は――――昨夜のことを後悔しているようにも、何か別のことでひどく傷ついているようにも、見えた。
好きな人から「したい」と言われ、正直浮かれてしまった部分もある。待つべきだった、と亜笠は心の中だけで反省した。
明日葉はしばらく自分の携帯を眺めた後に、顔を上げた。飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて口を開く。
「あのさ……お腹空いたし、ご飯食べに行かない?」
遠慮がちに提案してくれた。亜笠は頷いて、テーブルに置かれた朝食券を手に取った。
朝食を食べている最中も明日葉は携帯をずっと見ていた。飲み物を取りに行く時にふと覗き込むと、何やら画像データを探しているようだった。
「……食べ終わってからでいいんじゃないですか?」
「いや、忘れないうちにと思って……」
声をかけると、明日葉は食パンをかじりながらそんなことを言った。
仕事だろうか? ひとまず集中できることがあるならその方がいいか、と思い、亜笠は黙ってコーヒーに口を付けた。
――――ところで、明日葉が急に顔を上げた。
「あった」
そう言って亜笠に携帯の画面を向けてくる。亜笠はマイナス記号が並ぶその画像を、首を傾げながら見た。
「…………何ですか、これ」
「検査結果」
「何の」
「性病検査の」
言われた瞬間、亜笠はコーヒーを噴き出しかけた。盛大に咳き込む。
「何!? 大丈夫!?」
「げほっ……な、何を探してるのかと思えば……」
明日葉は近くにあったナプキンを差し出してくれた。
「いや、本当は昨日見せようと思ってたんだけど、うっかりしてた」
うっかりとかそういう問題だろうか。亜笠はナプキンで口元を拭いながら思った。
「遅くなってごめん」
明日葉は真剣な眼差しで亜笠を見つめてきた。
「一応潜伏期間のことも考えて半年前に受けたんだ。5年前からは、誰ともしてない」
「わかってます。それは」
聞きたいのはそこではないのだが。明日葉があまりにも真剣に言うものだから、亜笠は口角がヒクついてしまった。肩が小刻みに震えた。
「どこの世界にいきなり性病検査の結果表を見せる人がいるんですか……」
「いるよ、ここに」
明日葉がきょとんとして答える。
笑ってはいけない、と思いつつも、限界だった。
「ふっ、あははははっ!」
お腹を抱えて笑い出した自分に、明日葉は顔を真っ赤にした。
「何だよ、何で笑うんだよ! 大事なことだろ!」
「あははは! ははっ、たしかに、大事ですけど……ふふっ」
涙を流すほど笑う亜笠の手から、携帯がもぎ取られる。見せなきゃよかったと明日葉はむくれた。
さっきまでの深刻な空気は何だったのだ、と亜笠は胸を撫で下ろした。
検査結果を見せてくれたということは――――少なくとも、昨日のセックスを後悔しているわけではないらしい。
そのことがわかっただけでも、亜笠にとっては十分だった。
自分の心が傷ついているというのに、相手の身体の心配をしてくる明日葉が、たまらなく愛おしかった。
亜笠はひとしきり笑った後、頬杖をついて言った。
「護さん――――大好きです」
明日葉は横を向いたまま顔を真っ赤にした。大丈夫だとは思うんですけど、と前置きして、言った。
「今度僕も検査に行くので、付き合ってください」
「絶対嫌だ」
もう二度と見せないからな、と言われ、亜笠はまた笑ってしまった。
朝食を済ませて部屋に戻ってくると、亜笠がやけにニコニコしていた。性病検査の結果を見せてから、彼はずっとこうだった。
部屋の扉が閉まった途端、後ろから抱き締められる。
「ちょ、何!?」
くるりと身体を反転させられ、そのままキスされた。明日葉はびっくりして思わず亜笠の胸を押した。亜笠は意外にもあっさりと解放してくれた。
「護さん」
名前を呼ばれる。熱のこもった声に、明日葉は嫌な予感がした。
「――――初夜、でしたね」
「…………」
亜笠の浮かれ具合に、明日葉の顔が青くなった。亜笠は気にせずに明日葉の両頬に手を添えて、顔中にキスをした。
「スイートルームでも夜景の見える部屋でも薔薇風呂がある部屋でもありませんでしたけど、一生忘れません」
降り注ぐキスに明日葉は冷や汗をかいた。
「護さんのご実家にもご挨拶できましたし、最高の一日になりました」
「あ、そう……」
「これで両家公認ですね」
「別にうちは公認してないからね!?」
今度両家顔合わせの場をつくらなければ……とか真剣な声が聞こえて明日葉はさらに顔を青くした。もういっそ北極とかに逃げちゃおうかな。思ったが、亜笠は北極まで追いかけてきそうだった。
「それじゃあどこか観光して帰りましょうか」
帰りの新幹線の座席はもう取ってますから、と上機嫌に言われる。額にキスをしてから、ようやく亜笠は明日葉のことを解放した。いそいそと帰り支度を始める。
明日葉はキスされた額を撫でながら、自分の荷物を片付け始めた。
――――今朝のことをずっと反省していた。
起き抜けにキスされていて、おまけにキスした相手が泣いてたら、そりゃあびっくりするだろう。いや自分でも泣いていることにはびっくりしたのだが。
理由を聞かれても複雑すぎて、今の自分ではうまく説明ができなかった。亜笠はそんな明日葉の心中を察したのか、何も聞いてこなかった。
こういう時の彼の気遣いは、本当にありがたい。
(でもなんで性病検査の結果見せてからこんなにテンション上がってるんだ……?)
明日葉の疑問もどこ吹く風、亜笠はさっさと荷造りを済ませると、明日葉を振り返った。
「行きましょうか」
そう言って、亜笠が当然のように手を握ってきたので、明日葉は当然のように振り払った。
その後二人はいくつか観光地を周ってから、帰路についた。
帰りの新幹線は亜笠が指定席を予約してくれたおかげで座って帰ることが出来た。が、亜笠があれもこれもとお土産をほいほい買い込むので、明日葉の膝の上には紙袋がぎゅうぎゅうに置かれていた。亜笠の膝にもいくつか乗っている。それよりも気になることがあった。
右手、亜笠にがっちりと掴まれて放してもらえない。しかも指と指の間に相手の指を通されたカップルつなぎスタイルだ。
亜笠はなぜか明日葉が性病検査の結果を見せてから、ずっとご機嫌だった。時折鼻歌まで聞こえる。そんなに陰性だったのが嬉しかったんだろうか……。
何度となく手を振りほどいても、彼はカップルつなぎを止めなかった。そのうち明日葉の方が疲れてされるがままになった。
「福島、とっても良かったですね。どこも景色がきれいでした」
「最初は『なんにもない』とか言ってたくせに」
「トンビがあんなに飛んでいるのに食べ物を狙ってこないのは衝撃でした」
「お前が衝撃受けるところそこなの?」
などと会話していると、明日葉の携帯がぶるぶると震えた。誰からか確認するのに画面を見ると、知らない番号だった。出ようと思ったが、片手が亜笠によって拘束されているので座席を立つことが出来なかった。
「おい、ちょっと電話」
「仕事の電話なら出なくて結構です」
「知らない番号だけど、一応出ないと」
「ダメです」
と押し問答している間に振動が止まった。
「あ、切れた」
「用があればまたかけてくるでしょう」
まあそうかと思い、明日葉はそれほど気に留めなかった。
――――――それを激しく後悔する日が来るとは知らずに。
「次は三つ子さんたちにもお土産持ってこないとですね。今回はそこまで気が回りませんでした」
当然のことのように話す相手に呆れる。
「次っていつだよ」
「お正月とか」
「帰らない」
「帰りましょうよ」
「帰らない!」
「今度は泊まりで」
そんなやりとりをしているうちに、『東京駅』のアナウンスが明日葉の耳に届いた。大量の荷物を持って席を立つ。この状態で青梅まで、考えただけでもどっと疲れる。
次こそは亜笠を蒔いて帰ってきてやる、と明日葉は誓った。
無理なのは百も承知だった。
翌日、お盆休暇も終わりいつも通り出社した。
朝礼前にお土産を配っていると、明日葉はふと気が付いた。みんなの目が、やけに優しい眼差しをしていた。まるで聖母のような慈愛に満ちた眼差し。明日葉は猛烈に嫌な予感がした。
嫌な予感は大的中した。理由もすぐにわかった。
自席でパソコンを開き、メールをチェックする。一番上に、それはあった。
【題名:この度の夏季休暇取得について】
差出人は、亜笠誠一郎。あて先は本社・営業所合わせて全社員。
明日葉は死んだ目をしてマウスをクリックした。
『各位 お世話になっております。夏季休暇取得に際しましてはご配慮いただき、誠にありがとうございました。私事で恐縮ですが、この度、晴れて明日葉護さんと結ばれ、結婚を前提としてお付き合いすることになりました。今後とも二人共々よろしくお願いいたします。 亜笠誠一郎』
一通り読んで、ノートパソコンを閉じる。
明日葉は思い切り息を吸い込んだ。
「亜笠ぁ――――――――っ!」
明日葉の叫び声が、倉庫に響き渡った。
まだまだ残暑が厳しい、夏の出来事だった。
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