41 / 53
第五章 第2話
「お前、ちょっとおれの家にいすぎじゃない?」
明日葉は着替えながら、台所に立つ亜笠に向かって声をかけた。
彼は私服にエプロン姿で振り返った。
「何がですか?」
「いや何がじゃなくて」
亜笠はここ最近、連日のように明日葉のアパートに入り浸っていた。
どんどん増えていく彼の私物を見回して、明日葉は眉根を寄せた。
「金土日って毎週のようにうちにいるじゃん」
「いいじゃないですか。この部屋広いし」
「広いって言うか、6畳2部屋をぶち抜きで使ってるだけ」
「収納も多いし、ガスコンロも2口あるし」
「そういう問題じゃなくてさ……」
何か問題でも? と首を傾げる彼に明日葉はため息をついた。
先月、明日葉の実家への帰省から戻って以来、彼は始終こんな感じだった。明日葉のアパートに入り浸っては料理をしたり掃除をしたり押し入れに自分の荷物をしまう場所を勝手に確保したり――――肉体関係をもったり。
(まずい……これでは本当になし崩し的に恋人同士になってしまう……)
明日葉の外堀をブルドーザーが容赦なく埋め立てていた。明日葉は頭を抱えた。
「まあ強いて言えば冷蔵庫が小さいのが難点ですけど」
亜笠はフライパンの中身を皿に移しながら言った。
「え、そう?」
「二人分の食材入れるならもう少し大きい方が便利です」
今日家電見に行きません? と言われ明日葉は頷きかけた。ハッとして首を振る。
「いやいやいやおれはその大きさで十分だから!」
「僕が買いますよ」
「だからそういう問題じゃなくってね!?」
電子レンジの上に置かれたトースターがチンと音を立てた。亜笠が中身を取り出して皿に置く。
バターの沁みた厚切りトースト、目玉焼きにこんがり焼けたウインナー、レタスとプチトマトがのった皿が、ローテーブルに置かれた。
「とりあえず食べましょう」
床に腰を下ろした亜笠に言われて、明日葉は憮然としながらも向かいに座り、手を合わせた。
結局その後、明日葉は亜笠に引きずられるようにして家電量販店へ連れて行かれた。
冷蔵庫売り場に着くなり、亜笠は容量や年間消費電力量の表示を熱心に見比べ始めた。扉を開けたり、冷凍室を覗いたり、野菜室の深さを確かめたりしていた。その姿を少し離れたところから眺めながら、明日葉はぼんやりと考えていた。
亜笠のことは好きだ。
今の関係だって、正直に言えば心地良かった。毎週末一緒に過ごして、食事をして、同じ布団で眠る。こんな時間がこれからも続けばいいと、心のどこかで願っていた。
なくしたくないとも思う。
だからこそ怖かった。
自分には5年前の傷がある。亜笠には知られたくない記憶が、あまりにも多すぎる。
亜笠の人間性ならよく分かっている。すべてを知ったところできっと態度を変えたりはしないだろう。それが何ですか、と言ってくれるかもしれない。
けれど傷つかないわけではない。
明日葉が過去にどんな扱いを受けていたのか。何をされて、何を断れず、どんなふうに自分を放り出していたのか。それを知れば、亜笠はきっと悲しむ。
亜笠のことが大切だからこそ、自分の過去で傷つけたくなかった。
何より――――それ以上に、知られたくないことがあった。
並んだ冷蔵庫をぼんやりと眺めていると、シャツの裾を軽く引かれた。
「護さん、これどう思います?」
「えー? いいんじゃない?」
「適当に答えないで、真面目に考えてください」
亜笠は微笑んで冷蔵庫の扉に手を掛けた。
「一緒に使うんですから」
その言葉に、明日葉は返事が出来なかった。
翌週、月曜日の朝。
あと5分と枕に縋る明日葉を、すでに身支度を終えた亜笠が叩き起こした。明日葉は大きなあくびを噛み殺しながら渋々起き上がり、着替えを始めた。
土日は朝から晩まで家電量販店を引きずり回された。冷蔵庫を見て、洗濯機を見て、ついでだからと掃除機まで見せられ、最後に「家具売り場も見ましょう」と言われた時には明日葉はトイレに行くふりをして逃げ出そうとした。が、にっこりと笑う亜笠に「僕も一緒に行きます」と言われ、残念ながら脱走は失敗した。
結局、家具も家電も何一つ買わなかった。疲れ損だった。いや、何かしら買われても困るのだが。
朝食を一緒に食べて、家を出る。職場までは歩いて15分。半分寝ぼけ眼の明日葉を亜笠が引きずって歩いた。
ちょうど会社の出入り口で、駅から歩いてきた櫟と鉢合わせになった。
「おはよう。相変わらず仲いいねぇ」
亜笠に手を引っ張られる明日葉の姿を見て、櫟がからかうように言った。明日葉はハッとして慌てて亜笠の手を振りほどいた。
「うるさい! 糸目オタク!」
明日葉の暴言にも櫟は肩を竦めるだけだった。
「おはようございます、櫟さん」
「おはよ、亜笠。お前最近電車で見かけないと思ったら、明日葉の家から通ってんのね」
「週末は明日葉さんの家に住んでるので」
「ああ、なるほど週末婚ね」
「違うわ!」
平然とやり取りする亜笠と櫟に明日葉がツッコんだ。
「土日は冷蔵庫見に行ってきたんですけど、結局決まらなくて……」
亜笠がため息をついた。明日葉は半眼になって口を開いた。
「いやだって、いきなり400リットルとか500リットルとか見せられたらそりゃ反対するって」
おれ一人暮らしなのに。そう言うと櫟が真剣な顔をした。
「明日葉、二人で暮らすなら大きい冷蔵庫でもいいと思うよ。大は小を兼ねるって言うし」
「そうですよ。男二人分の食材って結構かさばるんですからね」
「ねえおれの話聞いて?」
明日葉の言葉を無視して、櫟が自分の手をポンと叩いた。
「いっそのこと部屋探した方が早いんじゃない? そうすれば大きい冷蔵庫も置けるんだし」
「今週末は物件見に行きますか……」
顎に手をあてて真剣に考え始めた亜笠に明日葉は戦慄した。本気で連れて行かれそうだ。
3人で事務所に上がってからタイムカードを押す。櫟と別れて、明日葉と亜笠は連れ立って倉庫の詰所へと入った。それぞれのロッカーを開き作業着へ着替える。途中、入荷のトラックが入ってきて亜笠が対応に出て行った。
明日葉は腰にハンディスキャナーをセットし、作業用手袋を手に嵌めた。倉庫にいる亜笠に声をかける。
「亜笠ぁ、おれ荷受け変わるよ。お前は朝礼行って来て」
「わかりました。お願いします」
亜笠は大柴と共に二階の事務所へと上がっていった。
トラックの運転手から納品書を受け取り、明日葉はハンディスキャナーを手に取った。積み上げられた段ボールへと歩み寄る。
バーコードを読み取る電子音が、静かな倉庫の中へ一定のリズムで響いていく。
その日もいつも通り仕事が始まった。
午前中は入荷処理と急配対応であっという間に過ぎていった。
昼休憩後、弁当箱を洗っていた亜笠が詰所へ戻ってくるのと同時に、明日葉は席を外した。倉庫中を駆け巡り9件分のピッキングを終え、午後便の配送車を送り出す。
作業用の手袋を外しながら席へ戻ると、入荷処理していた亜笠が先に休憩していた。大柴は相変わらずどこかをフラフラしているようで席にいなかった。
「お前涼しい顔してるな……」
「真夏の外回りよりはまだマシです」
サーキュレータ―の風を浴びながら、亜笠が言った。9月とは言えまだまだ残暑が厳しい。倉庫内は冷房が完備されているものの、動き回ればあっという間に汗だくになった。
「さすがは営業上り……」
「ちゃんと水分取ってくださいよ」
冷えたほうじ茶のペットボトルを放って寄越す。本当にこいつは何というか、マメだなぁと思いながらも席に座ってごくごくと飲んだ。
「いっそのことその頭どうにかしたらいいんじゃないですか?」
「やめろやめろ! かき回すな!」
「オールドイングリッシュシープドッグみたいですよ……」
と、亜笠が言うのと同時に、倉庫と詰所を繋ぐ扉が開いた。明日葉はその時、不謹慎にもオールドイングリッシュシープドッグの画像をパソコンで調べていた。
――――ので、亜笠とは違い、顔を上げなかった。
「こんにちは、お世話になっております。富士見製薬の雨宮と申します」
扉の方から声がした。低い、だがよく通る声。
「お世話になっております」
さすがは営業、明日葉の隣にいた亜笠がすぐに挨拶に応じた。明日葉は目の前のパソコンを注視しながら、「お世話様です~」と呑気に返事をした。
「営業の方でしたら2階の事務所へ」
亜笠が立ち上がって案内しようとするが、男は返事をせずに詰所へ入ってきた。カツカツと足音がして、座ったままの明日葉の隣に立った。
「久しぶり、護」
その声に、明日葉の心臓が冷える。
―――――家族以外で自分を「護」と呼ぶのは、一人しかいない。
明日葉は恐る恐る顔を上げた。
そこにいたのはスーツ姿の男だった。男ならば誰もが望んで止まない筋肉質の高身長、はっきりとした目鼻立ち。老若男女を虜にするであろう、スポーツマン顔負けの、さわやかな人懐っこい笑顔。
最後に会った時と少しも変わらない、懐かしいその姿。
男は片手を上げた。
「よっ」
5年前に別れた相手が、そこに立っていた。
「ぅわぁああああああああ!?」
明日葉の絶叫が倉庫に響き渡る。亜笠は冷静に耳を塞いでいた。
椅子から転げ落ちて床を後ずさる。男は平然と笑っていた。
「なっ、なっ、なんで――――」
ここに、という二の句が出てこない。それほどに動揺していた。
「たまたま仕事でここに用があってな。久しぶりに顔でも見ておこうかと思って」
「ひ、ひ、久しぶりにって、いいいいいいつ東京に戻って」
「今年の3月頃」
飄々と語る相手に、明日葉は震えた。そこまでしてハッとする。
明日葉の横に立つ亜笠が、怪訝な顔でこちらを見ていた。
「明日葉さん?」
明日葉の身体からどっと汗が噴き出る。
やばいやばいやばい! この男の存在だけは知られたくなかったのに! どうしようどうしようどうしよう!
「いやっ、あのっ、こいつ――――この人は、そのぉ」
明日葉が言いよどんでいる内に、男が亜笠に近寄った。
「こんにちは、亜笠誠一郎くん。護の元彼の雨宮まゆみです」
言葉と共に、亜笠に向けて手が差し出される。
終わった――――と明日葉は思った。最悪だ。よりにもよって一番知られたくない相手に知られてしまった。この男を、雨宮まゆみという存在を。
真っ青になって動かなくなった明日葉を一瞥し、亜笠はにこりと微笑んだ。
「――――初めまして、護さんの今彼の亜笠誠一郎と申します」
差し出された手を指が食い込まんばかりに握る。
「よろしくお願いします」
「――――よろしく」
明日葉の目には、二人の間に火花が飛んだように見えた。
ともだちにシェアしよう!

