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第五章 第3話

 明日葉は大慌てで炎上しそうな二人を引き剥がし、雨宮を連れて2階の事務所へ移動した。営業担当に会わせてくる、と亜笠に伝えて。  亜笠は警戒心剥き出しのボルゾイみたいな顔をしていたが、トラックの荷受け作業が入りそちらの対応をせざるを得なかった。  明日葉は周囲を見回すと、ニヤニヤと笑みを浮かべる雨宮を事務所ではなく休憩室に連れ込んだ。この時間なら誰もいない。ドアをしっかりと締め、低い声で目の前の男に話しかけた。 「――――どうしてここにいるんだよ」 「仕事で」  明日葉の言葉に、雨宮は当然とばかりに答えた。 「仕事?」 「タクザイロ皮下注発注しただろ。担当MRの教育係、俺」 「だってお前、アストリア製薬にいたんじゃ……」 「ヘッドハンティングされたんだ。4月から富士見の営業部長になりました」  雨宮がにっこりと微笑んだ。 「ハァ!? 営業部長って、お前、まだ38なのに!?」 「新薬立ち上げの功績が認められて異例の若さで大出世だ。すごいだろ」  呑気にピースしてくる相手に、まあ確かにこいつ仕事だけはストイックにやるからな……と納得しかけて慌てて首を振った。 「――――ってそうじゃなくて! じゃあ、おれに用はないだろ!?」 「つれないなぁ、5年ぶりの再会だって言うのに」  雨宮はやれやれと言いたげに両手を広げながら言った。外国人かお前は、と思ったが場違いなので黙っていた。 「せっかくお前の顔が見たくて早く来たのに、そう邪険にするなよ」 「おれはお前の顔は見たくなかったんだよ!」  明日葉は低い声で吠えた。が、雨宮の目はどう見ても人間に威嚇する野生のハムスターを見る人のそれだった。それでも明日葉はめげずに続けた。 「お前が別れた相手に執着するやつだとは思わなかった」  自分の記憶では人間関係には淡泊だったはずだが。 「俺は別れたつもりはない」  きっぱりと、冷えた声で言われた。明日葉の肩がギクリと揺れる。 「別れてるだろ、5年も前だぞ」 「夜逃げ同然で逃げ出すのが別れるって言うならな。俺が大阪行った途端に電話はつながらない、アパートは引っ越す、仕事は変える――――一言も相談なしに、だ」  やってくれたな、と雨宮は腕を組んだ。 「おまけに今は会社公認の彼氏までいると来た」 「誰が会社公認の彼氏だ!」 「ちょっとした有名人だぞ、お前ら」 「は!?」  雨宮の呆れた声に明日葉は衝撃を受けた。そう言えば先月、帰省後に亜笠が河和の全社員にメールを送っていたような……。恥ずかしさのあまり記憶から抹消していた。  が、雨宮はその話を続ける気はなかったようで、ふと真剣な顔になった。 「……俺が既婚だったからか?」 「――――っ!」  突然の雨宮の言葉に、明日葉は唇を噛んだ。黙り込んだ明日葉に雨宮が続けた。 「相手とはもうとっくに別れたよ―――それに、お前と付き合ってる頃から別居状態だったのは本当だ。別れるつもりだったし、言う必要もないと思ったから言わなかった。それだけだ」  雨宮の手が、明日葉の両手を取った。大きな手のひらに、作業用手袋がはめられた手が収まる。目を見開いて雨宮を見上げる。  雨宮が顔を近づけてきた。  あ、まずい――――そう思ったが、咄嗟に身体が動かなかった。 「護」  雨宮が明日葉の名前を呼んだ瞬間、唐突に休憩室の扉が開いた。 「ヒッ!」  明日葉が短い悲鳴を上げた。心臓がぎゅっと縮こまる。慌てて雨宮の手を振り払った。 「やけに遅いと思って来てみれば――――」 「亜笠! 何でここにいるの!?」  警戒心MAXのボルゾイ――――もとい、眉をひくつかせた亜笠がそこに立っていた。 「そりゃここの社員ですから」  それはその通り。明日葉の顔が引き攣った。亜笠はそんな明日葉を一瞥後、明日葉の隣に立つ雨宮を見上げた。 「雨宮さん、部下の方がお見えですよ」  亜笠の後ろには河和の営業担当の江南と、もうひとり、二十代半ばくらいの気弱そうな青年が立っていた。亜笠に誘導され、頭を掻きながらおずおずと前に出てくる。 「すみませぇん、お話し中に……」 「あ、足立。来たか」 「来たかじゃないですよ、部長! 何で先に行っちゃうんですかぁ!」  足立と呼ばれた青年の訴えに、雨宮は悪びれる様子もなく肩を竦めた。 「悪い悪い。ちょっとここに昔の知り合いがいてな」  さらりと言ってのける雨宮に、明日葉はキリキリと痛む胃を押さえた。  昔の知り合いと言えば知り合いだが、決して仕事仲間に紹介できるような間柄ではなかった。  そんな明日葉の心境も露知らず、江南が前に出て来てにこやかに名刺を差し出した。 「雨宮部長ですよね。河和の営業担当の江南です」  雨宮も江南に応じて、すぐに営業部長の顔へ戻った。 「失礼しました。富士見製薬の雨宮です。この度はタクザイロご発注いただきありがとうございます」 「とんでもないです。部長直々にご挨拶に来ていただいて恐縮です」  二人のにこやかに交わされる会話を聞きながら、明日葉は顔を青くしていた。  よりにもよってタクザイロの担当に雨宮が絡んでいるとは……。  今後タクザイロ絡みで何かあった場合、雨宮が関わってくるということだ。なぜタクザイロなのか、なぜ棚卸のタイミングなのか。明日葉はその場で膝をつきたい気分だった。 「こちらが担当MRの足立です」  雨宮が足立に手のひらを向けた。 「足立と申します。よろしくお願い致します」  ぺこりと頭を下げる足立に、江南も笑顔で頭を下げ返す。 「まだ若手です。鍛えてやってください」  冗談を言う雨宮に、江南は「とんでもない」とにこやかに答えた。 「ところで……うちの明日葉とはお知り合いでしたか」  続く江南の問いかけに、明日葉の肩が震えた。  雨宮はそんな明日葉の様子を一瞥してニコリと微笑んだ。 「昔っからの知り合いでして。懐かしくて、つい先に挨拶に来ちゃいました」  言うのと同時に、ごく自然な仕草で明日葉の両肩へ手を置く。  明日葉の身体がびくりと強張った。その様子を見ていた亜笠の眉が、見るからにつり上がった。明日葉は亜笠の様子を見て、雨宮に触れられた時よりも身体を震わせた。ボルゾイの唸り声が聞こえた気がした。 「足立、河和の明日葉さんだ。ここの在庫管理担当」 「部長のお知り合いなんですね、よろしくお願いします」 「いや、まあ……あははは」  無邪気に微笑む足立に、明日葉は乾いた笑いしか返せなかった。 「では、我々は倉庫業務がありますので」  亜笠はそう言うと、雨宮の手から明日葉の身体を引き離した。いつもの無表情ではあるが、眉間には深い皺が出来ていた。 「失礼します」  亜笠は珍しく、有無を言わせず明日葉の腕を引っ張った。雨宮の視線が亜笠の手に落ちる。明日葉は亜笠に引きずられるまま、その場を後にした。  休憩室の扉が閉まる瞬間、雨宮の顔が見えた。 「またな、護」  彼は、笑顔で手を振っていた。 「で?」  亜笠の短い声が倉庫の片隅に響いた。 「はい」  明日葉は短く返事をした。  ここは倉庫――――の、出入り口から一番遠く離れた隅。壁際に、明日葉は追いやられていた。  他でもない。亜笠の手によって。 「元彼ってどういうことですか」  明日葉は壁を背に、両手を乙女のように胸の前に並べていた。目の前には壁に両手をついた亜笠がいた。いわゆる壁ドンというやつだ。  低い声で問いかけてくる彼の額には、青筋が浮いていた。  これは相当怒ってるな、と明日葉はどこか他人事のように思った。 「まあ……そうなるよね、やっぱり」  乾いた笑いを浮かべると、亜笠がさらに顔を近づけてきた。 「茶化さないでください」  ぴしゃりと言われて、明日葉は笑いを引っ込めて眉を八の字にした。 「そんなこと言われてもさぁ、今すぐ説明できるような話じゃないし」  というか出来れば説明したくない。明日葉の内心を見透かしたように亜笠が言った。 「じゃあ今日の帰りに護さんの家に行ってもいいですか」  部屋でゆっくり話しましょう、と言われて明日葉はぎょっとした。 「え、だって今日月曜じゃん! お前が来るの週末だけだろ!」 「いいじゃないですか別に平日だって! もう同棲してるようなもんでしょう!?」 「してないしてない!」 「一緒に帰ってご飯食べてお風呂入ってセックスして寝てるじゃないですか!」 「職場でセックスとか言うな!」 「実態は同棲です!」 「実態って何!?」  二人でぎゃあぎゃあ言い合っていると詰所の窓口のチャイムが鳴った。 「あっ入荷だ!」 「あ、ちょっと!」  わざとらしく言って、明日葉は亜笠の身体を押しのけて窓口にダッシュした。亜笠がすかさずその後を追ってくる。 「すみません、お待たせしました!」  トラックの運転手へ頭を下げ、納品書を受け取る。追い付いてきた亜笠に明日葉は声をかけた。 「亜笠、ごめん。荷台お願いしていい?」 「はい」  二人で荷台へ回り、積まれていた段ボールを降ろしていく。明日葉は納品書と現物を照らし合わせながらハンディスキャナーでバーコードを読み取った。 「……はい、問題ないです」  明日葉が納品書に受領印を押し、運転手を見送る。亜笠は荷受けした品物を手際よく台車へ積み替え、そのまま入荷エリアへ運んでいった。  さすが段取り命の男。喧嘩の最中だろうと、その動きにはそつがなかった。  黙々と入荷物を処理していく亜笠の近くに寄って行く。明日葉は納品書を握り締めて言った。 「ごめん。今は仕事に集中したい。棚卸月で間違えられないしさ」  亜笠はしばらく黙っていた。やがて目を伏せて口を開いた。 「――――わかりました」  その素直さにほっとした。 「その代わり、後で話してください。話せることだけでも構いませんから」  本当だったら今ここで問いただしたい気持ちでいっぱいだろうに。  それでも自分のことを気遣ってくれる亜笠に、明日葉は胸が締め付けられる思いだった。  しばらくすると会田が二階から降りてきた。ファーマみらいへの急配依頼だった。急ぎ現物をピッキングし、亜笠に手渡す。 「飛鳥さんによろしく」 「はい、いってきます」  ファーマみらいに所属する薬剤師の一人、飛鳥は明日葉の中学時代の同級生だった。つい先月の帰省の際にも亜笠と共に顔を合わせていた。  亜笠を見送ってから、明日葉は詰所のノートパソコンで返品データを確認していた。大柴は一瞬顔を見せたが、自分の仕事がないとわかるなりまたどこかへ旅立ってしまった。一体どこへ行っているのやら。  しばらくパソコンを睨んでいると、詰所の窓口から江南が顔を出した。 「江南さん、お疲れ様です」  どうしました?と首を傾げる。 「明日葉、雨宮部長と足立さんが帰るそうだ」  挨拶するか?と言われて明日葉は手を振った。 「いや、おれはいいですよ」 「そうか?」  江南はそれだけ言って倉庫から出て行った。  明日葉はノートパソコンを見ていた。だが、その目は画面を見てはいなかった。  大丈夫、もう帰った。大丈夫――――  浅くなりそうな呼吸を鎮めるために、深く息を吐いた、その時だった。 「――――護」  聞き覚えのある声に、明日葉の肩が跳ねた。  顔を上げると、詰所の窓口から雨宮が顔を覗かせていた。 「……帰ったんじゃなかったのかよ」  明日葉の低い声に少しも動じることなく、雨宮はにこりと笑って窓口横の扉を開けた。勝手知ったる場所のような足取りで詰所へ入ってくる。 「これから帰るところ」  革靴が床を鳴らした。明日葉は思わず椅子ごと半歩後ろへ下がった。 「早く帰れよ」  できるだけ素っ気なく言い放つ。  雨宮は怒るどころか、むしろ感心したように目を見開いた。 「お前……少し変わったな」  明日葉をまじまじと見つめる。 「そんなにはっきり物言うタイプじゃなかったろ」 「うるさい! こっちが素なの!」  思わず声を荒らげる。  雨宮は一瞬きょとんとしたあと、おかしそうに肩を揺らして笑った。 「へぇ、ネコ被ってたのか?」 「いいから、帰れ」  明日葉は眉を寄せたまま短く言い捨てる。雨宮はそんな明日葉を頭の先からつま先までしげしげと眺めた。 「忘れ物した」 「忘れ物?」  辺りを見回す明日葉に、雨宮は悪戯っぽく笑った。明日葉の傍に立つと迷いなく胸ポケットに手を伸ばしてくる。  あ、と思う間もなく明日葉の携帯が抜き取られた。 「ちょっ、おい! 何すんだよ!」 「やっぱりな。まだこれ使ってたか」  雨宮は手に取った白と黒のツートンカラーの携帯電話をしげしげと眺めた。長年使っているせいで携帯の塗装は所々剥げていた。 「今時ご老人ですらスマートフォンだぞ……」 「返せ!」  明日葉は立ち上がって手を伸ばした。が、雨宮の身長は180を優に超す。雨宮が携帯を持った手を高く上げたため、170ちょっとの明日葉にはどんなにがんばっても届かなかった。  雨宮は片手で明日葉を軽くいなしながら、携帯の画面をスライドさせた。出てきた文字盤を操作する。 「8833――――変わってないな」  ロック画面があっさりと解除された。 「やめろよ!」  雨宮は慣れた手つきで着信履歴を開くと、1分とかからず操作を終えた。明日葉の手に携帯を握らせる。 「はい」 「……何した」 「俺の番号登録しといた」 「は!?」  明日葉は慌てて連絡先を開いた。新しく追加された名前――――雨宮まゆみ、と画面に表示されていた。  その番号を見た瞬間、明日葉の背筋が冷たくなった。着信履歴を開いて確認する。 「あ……」  思わず声が漏れた。  8月16日――――実家へ帰省した日に掛かってきた知らない番号。数日前の、真夜中に鳴った着信。その二つが、『雨宮まゆみ』と表示されていた。  明日葉の顔から血の気が引いた。 「お前の番号だったのかよ……!」 「悪いな。折り返しくれてたのに、出られなくて」 「お前ってわかってたら折り返さなかった!」  思わず声が大きくなった。雨宮は少しも気分を害した様子を見せず、むしろその反応が面白いとでも言いたげに口元を緩めた。 「今度は出てくれよ」  昔と変わらない、人懐っこい笑顔だった。 「嫌だ」  即答する。その返事にも雨宮は笑顔を崩さなかった。ほんの数秒、沈黙が流れる。  雨宮は明日葉の顔を静かに見つめたあと、不意に口を開いた。 「――――動画」  たった一言、雨宮が口にした。明日葉の身体が強張る。 「写真も、まだデータ残ってる」  淡々と告げる声には脅そうという意図は感じられなかった。それが明日葉には却って不気味だった。 「だから何だよ」  出来るだけ平然を装って言った。震えそうになる拳を握りしめる。  雨宮は明日葉の拳を見て、それからにっこりと微笑んだ。 「時々見返してる」 「しね!」  雨宮の言葉に明日葉は真っ赤になって言い返した。 「お前にも送ってやろうか?」 「最低だ、お前! 消せよ!」  明日葉は思わず雨宮の胸倉に掴みかかった。ガクガクと揺さぶるが雨宮は楽しそうに笑うだけだった。 「嫌だね」  雨宮はそう言って自分の腕時計を見ると、明日葉の両手を簡単に引き剥がした。  ドアに向かって歩き出す。 「じゃあ、また連絡する」  詰所を出る直前、振り返って雨宮が言った。 「二度と来るな」  明日葉の言葉に、雨宮はひらひらと手を振るだけだった。雨宮の姿が見えなくなっても、明日葉はしばらくその場から動けなかった。

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