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第五章 第7話
※一部性加害表現があります。ご注意ください。
翌日、明日葉は立川駅南口に立っていた。
何気なく空を見上げると、雲一つない晴天だった。先日の残暑が嘘のように風が涼しく、秋らしいさわやかな気候だった。気温の落差に身体がどうにかなりそうだ。晴れ晴れとした天気とは裏腹に、明日葉はため息をついた。
休日のため人通りは多かった。家族連れや学生たちのグループが行き交う中、手にした携帯電話へ目を落とした。時刻は13時16分。雨宮から指定された時間まで、まだ10分以上あった。
昨日、雨宮から着信があった。明日葉が出ると、待ち合わせの時間と場所をいきなり指定された。話がしたい、と。そう言われた。
明日葉はポケットを探りタバコの箱を開けた。中は空だった。ぐしゃりと潰してポケットにしまう。つい昨日買ったばかりなのに――――喫煙量が増えている。悪い傾向だった。
明日葉は、ここで話し合って終わらせたいと、そう思っていた。いざこざを長く続けたくはなかった。
亜笠のことも――――傷付けてしまった。こんな自分に関わったせいで。
(おれが、誘ったせいで……)
明日葉は手の中の携帯電話を握り締めた。
「――――護」
すぐそばから、聞き慣れた低い声がした。肩を叩かれて振り返る。
スーツではなく私服姿の雨宮が立っていた。白いTシャツに薄手のネイビーのジャケット、細身のデニム。派手さはないが、素材の良さがさりげなく伝わってくる。左腕にはシンプルな腕時計。体格が良いせいか不思議と様になっていた。
「待った?」
昔と少しも変わらない人懐っこい笑顔で言われ、明日葉は顔を歪めた。
亜笠と言いこいつと言い、なぜこうも無駄に見目が良いのか。明日葉は奥歯をかみしめた。通行人が何人かチラチラと雨宮を振り返っていた。
「待ってない」
明日葉は憮然として答えた。雨宮は笑みを崩さずに言った。
「じゃ、行こっか」
「どこに」
「ホテル」
明日葉は雨宮の頭を叩いた。
「痛っ! 何すんだよ、いきなり」
「何すんだよいきなりはこっちの台詞だ、ボケ!」
誰がホテルなんか行くか! 明日葉は雨宮から2、3歩距離をとった。
「話ならその辺の喫茶店でいいだろ!」
「喫茶店じゃ無理だ」
「無理じゃない! ホテル行くなら帰るからな!」
明日葉がそう言うと、雨宮は意地の悪い笑みを浮かべた。
「富士見製薬の営業部長と仲がいいところを、みんなに見られても良いって言うなら喫茶店にしても良いぞ」
「ぐっ……」
「元彼だとか今彼だとか話したり、昔のあられもない姿の写真だったりとかを喫茶店で堂々と出していいって言うなら、行こう」
黙り込んだ明日葉に、雨宮が畳みかけた。
「確かお前の後輩――――亜笠くんは、立川住みだったな」
見られる確率、高いんじゃないか。そう言われて明日葉の肩が震えた。
「何で知ってるんだよ」
「俺の情報網を舐めるなよ」
しばらく睨み合う。すぐそばを女子高生と思われるグループが笑いながら通り過ぎていった。無邪気な笑い声を聞きながら、明日葉はため息をついた。
「――――わかった」
明日葉の返事に、雨宮が満足そうにっこりと微笑んだ。
「ただし、話し合いだけだからな。それ以外のことするなら、すぐ帰る」
雨宮の瞳を真っ直ぐに見上げて、言った。雨宮はその視線を受け止めて小さく頷いた。
「じゃあ行くか」
雨宮はホテルに向かって歩き出した。明日葉も後に続く。
10分ほど歩いたところでホテルに到着した。到着するなり明日葉はロビーに座らされた。男二人で入ると不審に思われるため、時間差で部屋に入ってくるよう指示される。部屋番号は601。
――――昔と変わらない対応に明日葉は暗い気持ちになった。
こうやって何度となくホテルに呼び出しを受けた。震えそうになる手を明日葉はきつく握った。
チェックインを済ませた雨宮が視線を送って寄越す。明日葉は眉根を寄せてそれに応じた。雨宮の姿が見えなくなったのを確認して、椅子から立ち上がる。
エレベーターの前に移動してボタンを押した瞬間、ふと亜笠の言葉が蘇った。
『僕相手ならいいんですけど、他の男の「何もしないからホテル行こう」は絶対に信じちゃダメですからね?』
明日葉はかぶりを振って、亜笠の言葉を打ち消した。
(ちがう、これは――――そういうんじゃない……)
エレベーターに乗って、6階のボタンを押す。何度も湧きおこる不安を心の中に押し込めて、明日葉は601の部屋の前に立った。
ノックすると、相手は待っていたかのようにすぐに扉を開いた。
「どうぞ」
手のひらで中に促されるが、明日葉は一歩が踏み出せなかった。
「あ……」
雨宮の視線が、明日葉のスニーカーに落ちる。
「今彼に悪いか?」
雨宮の問いに、明日葉は首を横に振った。
「そもそも付き合ってない」
つっけんどんに言って部屋の中に足を踏み入れた。雨宮が静かにドアを閉める。
「じゃあ俺にもチャンスがあるな」
「ない」
明日葉は間髪入れずに返した。雨宮は肩を竦めるだけだった。
室内は落ち着いたベージュを基調とした上品な造りだった。入口側にはソファとローテーブルが置かれ、大きな窓から昼の光が差し込んでいた。少し進んだところで鏡張りの扉の奥に置かれたキングサイズのベッドが見え、明日葉は一瞬身体を強張らせた。
ドアロックを締める音に、思わず身を竦ませる。
「そんなに警戒するなよ」
雨宮は苦笑しながらソファを指差した。
「まあ、座れ」
お前は何飲む? と聞かれて明日葉は黙って首を振った。早く話し合いを終えてこの部屋を出たかった。
少し迷ったあと、部屋の入口が視界に入る位置を選んで腰を下ろした。
「何だよ、話って」
さっさと本題に入って欲しくて、明日葉はコーヒーを淹れる雨宮の背に話しかけた。雨宮はドリップコーヒーにお湯を注ぎながら口を開いた。
「お前、本当にあの亜笠誠一郎と付き合ってないのか」
「言っただろ、付き合ってないって」
何回も同じこと聞くなよ。思ったが、言わなかった。明日葉の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれた。雨宮も自分のカップを置いて、明日葉の向かいに座る。コーヒーに口をつけながら雨宮が言った。
「じゃあ何で『河和のオシドリ夫婦』なんて呼ばれてるんだ」
明日葉はソファからずっこけた。数日前の亜笠との会話を思い出す。実際に呼ばれてんのかよ!
「おれが聞きたいわ!」
明日葉はソファに座りなおした。わなわなと拳を震わせていた。っていうか誰がそんなことを言っているのか、ものすごく気になった。明日葉の脳裏には社長の顔が真っ先に浮かんでいた。
雨宮は明日葉の叫びも気にせずに続けた。
「俺が足立の教育係になったのが先月からでな。こっちのエリア担当で回るようになってから、河和の青梅営業所にそれはまあ幸せそうなゲイのカップルがいるって何人かの営業から聞かされたんだ」
雨宮はコーヒーを一口飲んだ。
「しかも、カップルの片方の名前は明日葉護と来た――――心底驚いたよ」
「……カップルじゃない。あいつが勝手に宣言してるだけだ」
「ふーん……」
できるだけ淡々と否定する明日葉を、雨宮がじっと見つめた。
「つまり、亜笠くんはお前を好きで社内で公にするくらい親しい間柄だと思ってるが、それは一方的な解釈で、お前はまだその気じゃない、と」
鋭い指摘に明日葉の喉が詰まった。
「フリーなんだ?」
雨宮がにっこりと笑った。
「フリーだけど……もう誰ともそういうことする気はない」
「でも亜笠くんとはセックスしてるんだろ?」
「もうしない」
きっぱりと、雨宮の目を見て言った。
「もう、誰ともしない」
お前ともする気はない、と言外に伝える。雨宮は少し目を見開いたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
その瞳の奥に冷えたものを感じて、明日葉は背を粟立たせた。
「話はそれだけか」
震えそうになる手を握り締めながら、そう言う。
雨宮がコーヒーをテーブルに置いた。
「知ってるか? オシドリって仲のいい夫婦の象徴みたいに言われてるけど、本当は違うんだ」
「は?」
急に鳥の生態解説を始めた雨宮に、明日葉は怪訝な顔をした。
「一生同じ相手と過ごすわけじゃないし、実際は乱婚的要素の方が強い」
「だから何?」
らんこんてき? 明日葉は漢字変換できずに首を傾げた。
「要するに」
雨宮がコーヒーカップを手に席を立った。明日葉が手を付けなかったカップも同様に持っていかれ、壁際のテーブルに置かれる。
「複数のパートナーと性的関係を持つってこと」
明日葉はその言葉にソファを立った。が、雨宮の方がずっと早かった。ハッとする間に手首を取られ、引きずられていく。
「雨宮、ちょ、痛っ!」
ギリ、と食い込むほどの力で腕を引かれる。次の瞬間、明日葉はベッドの上に突き飛ばされた。
「っ!」
慌てて起き上がろうとするが、遅かった。雨宮の身体が明日葉を覆うように上から重なってきた。
「助けて――――っ! 誰か――――っ!」
明日葉は恥も外聞もなく叫んだ。雨宮はやれやれと言った顔で明日葉を覗き込んだ。
「お前本当に変わったなぁ。前はそんなムードぶち壊すようなタイプじゃなかったろ」
「だからこっちが素なんだってば!」
「そんなお前も燃える」
にっこりと微笑まれて明日葉は悲鳴を上げた。
「いや――――っ!」
「言っとくがここの防音壁はなかなかのもんだぞ」
「体験済みかよ、汚らわしい!」
「汚らわしいって……処女か、お前は」
呆れたように言われ、ベッドに縫い止められる。足をバタバタと動かすが、雨宮の身体はビクともしなかった。それもそのはず、身長も、その身体の厚みもあまりに違いすぎた。
「しないって言っただろ! やめろよ!」
「ここまで来ておいてしないわけないだろ」
当然のように雨宮が言った。明日葉はホテルに入る前の自分を殴りに行きたくなった。やはり亜笠の言う通りだった。
「護……昔みたいに呼んでくれよ」
首筋に顔を埋められ、足の間に雨宮の身体が押し付けられる。
「いやだ!」
首を這う唇の感触に、過去の記憶が蘇る。背筋をゾクリとしたものが駆け上がってきて、明日葉は息を詰めた。
ぎゅっと目を閉じて、もう一度目を開く。
明日葉はパニックに震える喉から、声を絞り出した。
「雨宮、待って!」
「待たない」
「頼むから、お願いだから――――まゆみさん」
明日葉の言葉に、雨宮が顔を上げた。
数秒、黙ったまま見つめ合う。
「まゆみさん……」
「護……」
雨宮の唇がゆっくりと近付いてきた、その瞬間。
明日葉は渾身の力で頭突きをした。
「っ!」
雨宮の身体が揺らぎ、手首の拘束が外れた。明日葉は雨宮の身体の下から転がるように抜け出した。
足がもつれそうになる。構わずにドアだけを目指して駆け出した。扉に飛びついて、震える指でサムターンを回す。ドアロックにも指をかけるが、焦りで力が入らない。
ようやくロックを外し、勢いよくドアノブを押し下げる。廊下の明かりが部屋の中に差し込んだ、その時だった。
バンッ! と耳をつんざくような音とともに、開きかけたドアが勢いよく閉まった。
「ヒッ!」
驚いて肩が跳ねる。明日葉の頭のすぐ脇――――ドアには、大きな手が押し当てられていた。背後から呻き声が聞こえる。
「っ、やってくれたな……」
額を押さえながらよろめく雨宮が、すぐ後ろに立っていた。
痛みに呻きながらも、ドアから手を離そうとはしない。明日葉は唾を飲み込む。
逃げ道が塞がれた。
震える明日葉の背中に、声が落ちた。
「お前も――――俺のこと、捨てるのか」
いつもの調子の、明るい声ではない。低く、掠れた声。
胸を締め付けられるような声に、明日葉は返事が出来なかった。
雨宮の言葉が、深く、胸の奥に突き刺さる。
沈黙を肯定と受け取ったのか、雨宮の手が明日葉の腕を掴んだ。
振り払おうと身体を捻るが、強引に雨宮の方へ向き直らされる。そのまま身体を引き寄せられた。
次の瞬間、唇が塞がれる。
明日葉は目を見開いた。反射的に相手の唇を強く噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。
「っ!」
雨宮がわずかに顔を離した、その一瞬。明日葉は雨宮の胸を突き飛ばした。よろめいた雨宮が数歩後退する。
その隙を逃さず、明日葉はドアを開け放った。
廊下へ飛び出す。振り返らずに非常階段へ駆け込んだ。一段飛ばしで階段を駆け下りる。
息が切れる。心臓が壊れそうなほど鳴っていた。
ホテルを飛び出し、人通りのある歩道まで来たところで、ようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……」
壁へ手をつき、肩で息をする。唇に濡れた感触があって、明日葉は雑にパーカーの袖口で拭った。袖にべったりと赤いものが付く。血だった。
勢い余って自分の唇も噛んでしまったらしい。口の端から新しい血が垂れて来て、明日葉は汚れるのも構わずにもう一度袖で拭った。
掴まれた腕も、唇も、ズキズキとひどく痛んだ。
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